2018年06月16日

鎌倉ゆかりの人物―阿仏尼と冷泉為相のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「阿仏尼とその息子・冷泉為相」です。

阿仏尼(1222?〜1283年)
 ・鎌倉時代中期の女流歌人。藤原為家(定家の子)の側室で、冷泉為相の母。
 ・「十六夜日記」の作者で、月影ヶ谷(現在の江ノ電「極楽寺駅」周辺)に、4年間住
  んだといわれています。最期は、帰京し没したという説もあります。

江ノ電「極楽寺駅」を海側に向かった右手奥の踏切の脇の「阿仏尼邸旧蹟の石碑」
 阿仏尼邸旧蹟1.JPG

 阿仏尼邸旧蹟2.JPG

阿仏尼邸旧蹟石碑.JPG阿仏尼は、藤原定家の子・為家の妻であり、和歌の師範家である冷泉家の祖である為相の母でもあります。

為相の異母兄為氏が、為相に属すべき和歌所の所領播磨細川庄を奪ったので、この事を執権時宗に訴え、その裁決を願い出るために、建治三年(1277)に京都を出発して東へと下り、住居を月影ヶ谷に定めました。すなわちこの場所です。
その時の日記を十六夜日記と言って世に知られています。
裁判は長引き、決着が着かず、弘安四年(1281)、遂にここで亡くなりました。

 ・並んで建っている「月影の谷若葉して道清志」(戸川稲村(高浜虚子門弟))の句碑
 戸川稲村句碑.JPG

阿仏尼の供養塔(扇ガ谷)
 ・鎌倉駅西口から今小路を北進して横須賀線沿いに歩き、英勝寺の少し先に行くと、
  「阿仏尼の墓」といわれる供養塔があります。
 阿仏尼の墓1.JPG

 阿仏尼の墓2.JPG

十六夜日記(1283年ころ成立)
・為家の死後、領地相続をめぐって、正妻の子・為氏と争う息子・為相の正当性を、鎌倉幕府北条時宗に訴えるため、1277年、京から鎌倉に下向しました。
 その旅の日記であり、鎌倉滞在記である「十六夜日記」を著しました。

・1279年10月16日、京都を出発し、10月29日、鎌倉に到着しました。
  (全工程を13日で踏破)
 「十六夜日記」は、その道中記、鎌倉滞在記と長歌との三部から成っており、旅の道中や鎌倉滞在中に詠んだ歌が、多く記されています。

・鎌倉滞在記では、次のように記されています。
 「あづまにてすむ所は月かげのやつとぞいふなる。浦ちかき山もとにて風いと荒し。山寺のかたはらなれば、のどかにすごくて浪の音、松の風たえず。

・また、和歌では、「鎌倉ペンクラブ選 鎌倉百人一首」にも取り上げられた、次のような歌が記されています。
 「知らざりし 浦山風も 梅が香は 都に似たる 春のあけぼの

・裁判は長引き、阿仏尼が生きている間には決着が着きませんでしたが、訴訟は為相に引継がれました。
 訴訟は、阿仏尼が鎌倉に下向してから34年後の1313年に、為相側の勝訴で決着しました。

・藤原為家の死後、三家(二条家(為氏)・京極家(為教)・冷泉家(為相))に分裂しましたが、後に二条家と京極家は断絶していまい、冷泉家だけが残りました。 

 ※阿仏尼の鎌倉下向については、「鎌倉検定−蒙古の襲来(1277年10月)を読む(5)」を参照

冷泉為相(1263〜1328年)
 ・和歌の名門、冷泉家の祖。通称は藤谷(ふじがやつ)中納言。
阿仏尼と冷泉為相の系図
 阿仏尼と冷泉為相の系図.jpg

浄光明寺(扇ガ谷)の山門前入り口に建つ「藤谷黄門遺跡の石碑」
 浄光明寺.JPG
 ※浄光明寺については、「鎌倉扇ヶ谷のお寺を見る(泉谷山)」を参照。

藤谷黄門遺蹟の石碑.JPG冷泉為相卿は為家の子で、従二位中納言になりました。
和歌所の事で兄の為氏と争論の末、その母阿仏尼と共に鎌倉に来て幕府に訴えました。
そして、藤谷に住んだので、 藤谷殿と言われました。藤谷百首と呼び世に伝わる和歌は、この場所で詠まれたものです。

網引地蔵を建てるのに為相が関係していると言われています。為相卿の墓はこの後の山の頂にあり、五輪塔で月巌寺殿玄国昌久の八字が刻まれていたというが、 今は磨り減ってしまい、字体はよく読めません。

境内奥の最上階に、「冷泉為相の墓」が建っています
 冷泉為相の墓1.JPG

冷泉為相の墓2.JPGバランスのとれた宝筺印塔

宝筺印塔の代表作といえます。

下段にある反花座の蓮弁は、鎌倉時代の作例はふくらみを持った柔らかな表現となっているが、時代が下がるにつれてふくらみは失われていきます。

この塔は、ふくらみが弱く、鎌倉時代末期から南北朝時代初期頃の作と見られています。

 
posted by トシ999 at 08:00| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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