
今回は「室町時代の武将「太田道灌」」です。
◎太田道灌(1432〜1486年)
・扇谷上杉家の家宰。
幼年は鎌倉五山で学問を修め、足利学校に学んだとされています。
・古河公方「足利成氏」を迎え撃つために、1457年、江戸城を築きました。
・飛鳥井雅親、万里集九など歌人との交流が深く、歌人としても知られています。
・1486年、力を持ち過ぎた太田道灌に対し、嫌疑を抱いた当主上杉定正に、粕屋の館
(伊勢原市)で暗殺されました。
<英勝寺裏山にある「太田道灌の墓(首塚)」>
・英勝寺の墓地の裏、壽福寺裏手から源氏山に登っていく道の途中に、道灌の墓があり
ます。
・この墓は、1826年に水戸徳川家の子孫である英勝寺住職が、以前の墓を再建したもの
ということです。
<太田道灌の伝説>
山中の狩りで、時ならぬ雨に困った太田道灌が、蓑でも借りられないかと農家に立ち寄ったところ、一人の少女が出てきてヤマブキの花を差し出した。 道灌は意味がわからず憮然として立ち去ったが、その話を家臣にしたところ、少女の意がヤマブキの花にちなんだ古歌 「七重八重花は咲けども 山吹の実(蓑)のひとつだになきぞ悲しき」 にあったことを教えられた。 「貧乏で、お貸しできる蓑さえない。」という意味で、「実」と「蓑」をかけたのだった。 道灌は自分の教養のなさを恥じ、その後学問に励み、文武両道を供えた名君になったという。 |
※英勝寺の本堂脇に、ヤマブキが植えられています
◎太田道灌の屋敷跡に建つ「東光山英勝寺」(扇ガ谷)
・浄土宗。現存する鎌倉唯一の尼寺。
・開山は水戸家初代徳川頼房の息女、玉峯清因(徳川光圀の姉)。
・開基の英勝院尼は、太田道灌から数えて4代の孫康資の娘で、頼房の猶母。
※「太田道灌―資康―資高―康資―お八(お梶→お勝→英勝院)」
・1636年、太田道灌の土地に、この寺を建立しました。
<英勝寺惣門前>
<アジサイの咲く英勝寺本堂>
※このお寺については、「鎌倉扇ヶ谷のお寺を見る(東光山)」を参照。
<英勝寺の惣門前に建つ「太田道灌邸旧蹟の石碑」>
寛永十一年(1634)、今の英勝寺の創立者水戸藩の祖 徳川頼房の養母であった英勝院は、道灌の嫡流太田康資の娘で、晩年、将軍徳川家光から特にこの地を授り受けてここに住むようになりました。
「孤鞍雨をついて茅茨を叩く 少女為に遣る花一枝」という詩の逸話は、道灌が壮年ここに住んでいた頃の話です。