2018年07月04日

鎌倉ゆかりの人物―大佛次郎のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「鎌倉文士の「大佛次郎」」です。

大佛次郎(1897(明治30)〜1973年(昭和48))
 ・本名・野尻清彦。小説家。小説『鞍馬天狗』で知られ、1921年(大正10)、長谷の
  大仏裏に移り住みました。
  ペンネームの“大佛”(おさらぎ)はそこから付いたものです。
  1929年(昭和4)から没年まで雪ノ下に居住しました。

 ・鎌倉の風致保存に力を注ぎ、鎌倉の旧跡・緑地の保全に力を尽くしました。
 ※「鎌倉文学館HP:大佛次郎」を参照下さい。

大佛次郎の活躍
・1936年(昭和11)、久米正雄の呼びかけによって結成された「鎌倉ペンクラブ」のメンバーとなり、彼らは「鎌倉文士」と呼ばれ、活躍しました。
・映画監督小津安二郎は、大佛次郎、川端康成、里見クら鎌倉文士と交流があり、互いに影響を受けたということです。
・鎌倉での活躍は幅広く、現在の草野球の草分けともいえる野球チーム「鎌倉老童軍」の発案者です。
・久米正雄らと共に、1934年(昭和9)に始まった鎌倉夏の風物詩「鎌倉カーニバル」を発案しました。

 ※「鎌倉カーニバルの壁画」(横山隆一作:鎌倉駅地下連絡通路に掲載)
 ・文化人を中心とした「鎌倉カーニバル」は、「海の銀座」とまでいわれた鎌倉の浜辺
  と同様に、鎌倉の夏の風物詩として全国的に知られるようになりました。
 鎌倉カーニバル.JPG

鎌倉市景観重要建築物等の一つ「野尻邸<旧大佛次郎茶亭>」(雪ノ下)
 ・友人を招いたり、執筆の合間に休息をとっていたといわれる和風平屋建築の邸宅。
野尻邸説明板.JPG

 野尻邸1.JPG

 野尻邸2.JPG

「古都保存法」制定のきっかけとなった「御谷騒動」
・1964年(昭和39)、鶴岡八幡宮の後背部の緑地開発をめぐって、開発側と反対派の攻防が繰り広げられ、「御谷騒動(おやつそうどう)」と呼ばれました。
・鶴岡八幡宮の裏山はかつて八幡宮寺の御坊があったところで、この御谷を宅地開発する企てが持ち上がりました。これに対して、大佛次郎ら著名人をはじめ多くの市民が、開発反対、旧跡、緑地保全運動に加わりました。
・同年発足した「鎌倉風致保存会」は、「御谷騒動」の舞台となった緑地を買い取り、これによって緑が守られ、これが日本で初めての「ナショナルトラスト運動」となりました。
・「御谷騒動」は、1966年(昭和41)の「古都保存法」制定のきっかけとなりました。

鶴岡八幡宮寺の御坊「二十五坊旧蹟の石碑」
二十五坊旧蹟2.JPGこの地は、源頼朝の時代以来、八幡宮の僧侶が住む二十五坊と別当坊があった所です。
あの別当公暁が実朝の首を手にして潜んだという後見人の備中阿闍利の住居もまたこの地にありました。
応永中(1394〜1428年)、院宣により坊の呼び名を院に変えました。
戦国時代に入ってからは、鎌倉管領の衰えと共に各院とも次第に廃絶し、天正の末(1592年)にはわずか7院だけになりました。
文禄中(1592〜1596年)に、徳川家康が5院を再興して12院になりましたが、 明治維新の後はついに全て無くなりました。

「二十五坊跡」と呼ばれる国の史跡が残る「御谷」の場所
 ・鶴岡八幡宮の西北、小袋坂の曲がり角辺りの一帯は、江戸幕末まで鶴岡八幡宮の社役
  を務める供僧達の僧坊(供僧坊)がありました。
 御谷地図.jpg

二十五坊跡説明板.JPG

 二十五坊跡.JPG

円覚寺の塔頭・佛日庵境内に咲く「ハクモクレン」
 ・『阿Q正伝』で知られる中国の作家・魯迅から贈られた株ですが、大佛次郎
  『帰郷』にも描かれています。
 佛日庵ハクモクレン.JPG
『帰郷』のあらすじ
 公金横領の罪で責任をとり、妻子を日本に残して海外に潜伏していた元軍人の守屋恭吾が、スパイ容疑で逮捕される。
 やがて終戦により釈放され、妻子のいる日本に帰国するが、祖国の状況に幻滅し、再び日本を去っていく物語。
 鎌倉円覚寺周辺など日本の風景の描写が作品の中に出て来る。

壽福寺の本堂裏手にある「大佛次郎の墓」
 大佛次郎墓.JPG

 
posted by トシ999 at 08:00| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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