2018年08月31日

鎌倉ゆかりの人物―後醍醐天皇のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「第96代天皇・後醍醐天皇」です。

後醍醐天皇(1288〜1339年)
 ・鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇。
  名は尊治。南朝の初代天皇。
  後宇多天皇の第2皇子。1318年、花園天皇の譲位を受けて31歳で即位。
 ・鎌倉幕府を倒して「建武新政」を実施したが、足利尊氏の離反に遭ったために吉野へ
  入り、南朝政権を樹立しました。

皇室関係図
皇室関係図2.jpg

鎌倉幕府の滅亡
・1318年、後醍醐天皇は即位後、天皇親政を復活させ改革に努めたが、天皇政治をはばむ鎌倉幕府に敵意を抱き、日野資朝・俊基らの公卿とともに討幕計画を進めました。
・「正中の変」(1324年)と「元弘の変」(1331年)の2度の鎌倉幕府打倒計画は失敗に終わりました。

・1333年、後醍醐天皇は、配流された隠岐島から脱出し、挙兵しました。
 鎌倉幕府は、後醍醐天皇とそれに呼応する多くの武士たちを押えるため足利高氏(尊氏)と名越高家を大将とする軍勢を上洛させました。
 しかし、足利高氏は丹波篠村で北条氏へ反旗を翻し、六波羅探題を攻略しました。新田義貞もまた上野で挙兵し、高氏の子・千寿王(後の義詮)を擁して鎌倉へ向かい、鎌倉が戦場となり、鎌倉幕府は滅亡しました。

「正中の変」と「元弘の変」とは何か?
・1324年、六波羅探題への密告により、倒幕計画が発覚しました(正中の変)。
 後醍醐天皇は、釈明のために、勅使万里小路宣房を鎌倉に派遣。10月には、倒幕計画に参加した日野資朝・俊基らが鎌倉に護送され、翌年、日野資朝は佐渡に配流。
 後醍醐天皇は、宣房の告文によって罪に問われず、虎視眈々と次の機会をうかがうことになりました。

・1331年、吉田定房の密告により、再度、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚しました(元弘の変)。
 後醍醐天皇は、御所を脱出するが捕えられ、翌年、隠岐島に配流、日野俊基も葛原ヶ岡で処刑され、日野資朝も配流先の佐渡で処刑されました。
・南北朝の争乱期の物語・歴史を後醍醐天皇や楠正成の活躍などを中心に描く『太平記』には、日野俊基が捕らわれて鎌倉に送られる様子が紀行文で描かれています。

 ※葛原ヶ岡にある「日野俊基の墓」と「俊基朝臣墓所」の石碑
 日野俊基の墓.JPG

俊基朝臣墓所の石碑.JPG 藤原俊基朝臣は、朝廷の権力を取り戻そうと計画しましたが、成功しませんでした。

 元弘二年(1332)六月三日に、北条高時の命令により処刑されました。

 「秋を待たで葛原岡に消ゆる身の露の恨や世に残るらん」と詠んで、永く恨みを留めているところが、この場所です。


室町幕府の成立
・1334年、後醍醐天皇による「建武の新政」が始まり、鎌倉には足利尊氏の弟の直義がいました。
 1335年、北条高時の遺児時行が幕府復活を計って挙兵し、一時鎌倉を占拠しました(中先代の乱)。

・足利尊氏は、直義敗北を聞き、後醍醐天皇の許可を得ないまま、京都を発して鎌倉を奪回しました。
 後醍醐天皇は、尊氏を討つために新田義貞を派遣しましたが、尊氏はこれを撃破して上洛し、勝利しました。
 1336年、足利尊氏は、「建武式目」によって新しい幕府の政治方針を定めました。(室町幕府の成立
 ※1388年、足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が名実ともに成立したという説もあります。
 
・1337年、後醍醐天皇の命を受けた北畠顕家は、朝夷奈切通から鎌倉に入り、斯波家長の守る杉本城を攻めて落城させて鎌倉を攻略しましたが、翌年、幕府軍に敗れ、討ち死にしました。

金龍山宝戒寺(小町):「徳崇大権現堂」と「北条執権邸旧蹟」の石碑
 ・1335年、後醍醐天皇が北条一族の霊を弔うため、足利尊氏に命じて北条氏の執権屋敷
  跡に建立させました。天台宗。本尊は「子育経読地蔵大菩薩」。

 ・北条高時は鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇から「徳崇大権現」という神号を下賜され、
  宝戒寺本堂右前にある徳崇大権現堂に祀られています。
 徳崇大権現堂.JPG

北条執権邸旧蹟.JPG 昔この場所に北条氏の小町亭がありました。北条義時以後歴代の執権は概ね皆ここに住みました。
 かの相模入道高時が、朝夕に宴会をして、時には田楽法師に対し列席の重臣と共に、直垂や袴を競い合って脱ぎ、褒美の山を築いたというのもこの場所です。
 元弘三年(1333)、新田義貞が鎌倉に攻め入った時、戦火で焼けて灰になってしまいました。
 現在の宝戒寺は、建武二年(1335)に足利尊氏が、高時一族の怨魂を弔うために、北条氏の菩提寺であった東勝寺をこの屋敷跡に再興し、その寺号を改めたものです。

 ※このお寺については、「鎌倉小町のお寺を見る(金龍山)」を参照。

後醍醐天皇には、多くの皇子・皇女がいますが、何人かを紹介します
 ●用堂尼(?〜1396年)
  東慶寺五世用堂尼は、後醍醐天皇の皇女。
  東慶寺は、用堂尼入寺以後、松ヶ岡御所と称され、高い寺格を誇りました。

 ●護良親王(1308〜1335年)
  11歳で比叡山延暦寺の大塔に入室したことから「大塔宮」と称されました。
  後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕で功績を挙げたが、倒幕後、足利尊氏と対立し、
  「東光寺」に幽閉され、殺害されました。

 ●成良親王(1326〜1344年)
  1333年、鎌倉幕府滅亡後、足利直義に奉じられて関東統治を目的に鎌倉へ下向。
  浄光明寺(扇ガ谷)は、成良親王の祈願所となりました。
  1335年、「中先代の乱」で、足利直義らとともに鎌倉を出て京に戻りました。

 
posted by トシ999 at 08:00| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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