
今回は「鎌倉幕府滅亡の立役者・新田義貞」です。
◎新田義貞(1301〜1338年)
・上野国の河内源氏一門、新田庄の領主。鎌倉〜南北朝時代の御家人。
・鎌倉へ進軍し、稲村ヶ崎から突破して鎌倉幕府を滅亡させました。
・後醍醐天皇の建武の新政で重用されたが、足利尊氏と対立。朝廷軍の大将となって
尊氏軍討伐を目指したが、越前の藤島の戦いで討ち死にしました。
※「鎌倉幕府の滅亡」
→「鎌倉検定−蒙古の襲来(1333年5月22日)を読む(21)」を参照。
<新田義貞軍の出陣>
・1333年、後醍醐天皇の挙兵にあわせ、新田義貞もまた上野で挙兵し、足利高氏
(尊氏)の子・千寿王(後の義詮)を擁して鎌倉へ向かい、鎌倉が戦場となり、
鎌倉幕府は滅亡しました。
・新田義貞の鎌倉攻めのルートは、「上の道」です。
鎌倉・仮粧坂→藤沢→町田→府中→狭山→碓井峠と、群馬県方面に続いています。
<「龍神に祈った新田義貞」の伝説>
『太平記』によれば、新田義貞は大軍を率いて鎌倉に迫った。ところが稲村ヶ崎から鎌倉につづく道は狭く、波打際には逆茂木が並べられ、沖合いには北条軍の大船数百隻が、横矢を射かけて侵入を防ぐために並んでいたという。 とても突破できるような状況ではなかったが、義貞は腰に差していた黄金造りの太刀を抜いて海中に投げ込み、海に向かって「わが軍のために道を開き給え」と龍神に祈った。 するとその日の夜、二十町余りも潮が引き、横矢を射かけようとしていた船も遥か遠くへ行ってしまった。 軍勢はなだれをうったように干潟を渡り、鎌倉へ攻め入ったと伝えられている。 |
・稲村ヶ崎には、「新田義貞徒渉伝説地」の石碑が建っています。
<数々の戦いの跡と関連寺院や史跡>
小動神社 (腰越) | ・1333年、新田義貞は鎌倉攻めの際に戦勝祈願し、後に社殿を再興しました。 |
小動山浄泉寺(腰越) | ・真言宗。819年創建。開山は空海(弘法大師)。 ・かつて八王子社(小動神社)と一緒にあり、新田義貞が鎌倉攻めの途中で八王子社に奉納した剣が一時保管されていたといわれています。 |
十一人塚 (稲村ヶ崎) | ・大舘宗氏(おおだち むねうじ)は、義兄弟にあたる新田義貞と共に鎌倉幕府に対し挙兵し、宗氏主従11人が戦死しました。 ・その遺体をここに埋め、十一面観音の像を建ててその魂を弔いました。 |
普明山成就院(極楽寺) | ・1219年、北条泰時が創建。1333年、新田義貞の鎌倉攻めで焼失したが、江戸時代に再建されました。 |
「洲崎古戦場」の石碑と 「泣塔」 (寺分) | ・湘南モノレールの湘南深沢駅近くに、新田軍と赤橋守時率いる北条勢との間で激戦が繰り広げられた「洲崎古戦場」の石碑があります。 ・またその近くには、付近のやぐらの被葬者に対する供養塔といわれる「泣塔」(宝筺印塔)が建立されています。 |
乱橋(材木座) | ・材木座の水道路交差点から海の方へ少し行ったところに架かる橋。 ・新田義貞の軍勢が鎌倉に攻め入った時、北条幕府軍の防御線がくずれはじめたのがこの橋の辺りだったことから、「乱橋」と呼ばれるようになったということです。 |
仮粧坂 (扇ガ谷) | ・藤沢を経て武蔵方面に通じる、戦略上きわめて重要な拠点だったことは、新田義貞が鎌倉攻めの際に、この「仮粧坂」に軍の主力を向け、激戦地となったことからも推測されます。 |
休場山等覚寺(梶原) | ・創建は応永年間(1394〜1428年)。開山は秀恵僧都。 ・新田義貞の鎌倉攻めで死んだ武士を供養する五輪塔や宝筺印塔、無縁塔が祀られています。 |
<「新田義貞」が鎌倉に唯一建立した寺、「内裏山九品寺」(材木座)>
・1336年創建。浄土宗。山号は内裏山。開山は風航順西。本尊は阿弥陀三尊。
・新田義貞は、北条方の戦死者を弔うため、材木座にある鎌倉攻めの折の本陣跡に建立
しました。
・山門に掲げられた「内裏山」の額の字と、本堂に掲げられた「九品寺」の額の字は、
義貞の筆を写したもので、直筆の額は本堂に保存されています。
・3月に、紅白の花が混じって咲く「サラサボケ」や真っ赤な紅色の「ヒボケ」も開花
します
・5月に、野性味あふれる「ナニワイバラ」が一重の白い花弁を開きます。
・「鎌倉三十三観音霊場」の第16番目の札所で、観音様は、「聖観世音菩薩」です。
<新田義貞の最後>
・1334年、後醍醐天皇による「建武の新政」の後、1335年に北条高時の遺児時行が起こした「中先代の乱」の制圧のため、足利尊氏は後醍醐天皇の許可を得ないまま、京都を発して鎌倉を奪回しました。 ・後醍醐天皇は、足利尊氏を討つために「新田義貞」を派遣しましたが、義貞は敗れ、京都に帰還しました。京都では新田軍は足利軍を打ち破り、足利尊氏は一度は九州へ逃げたが巻き返しを図り、再度上洛し、新田軍と足利軍との戦いはさらに続いていきました。 ・そして、1338年、ついに「新田義貞」は、越前の藤島の戦いで敗れて、討ち死にしました。 |