
今回は「8代執権、北条時宗」です。
◎北条時宗 1251 〜1284年 | ・鎌倉幕府8代執権。北条時頼の次男。安達氏の甘縄邸に生まれる。 ・文永の役・弘安の役で元軍を撃退。その後、宋より無学祖元を招き、円覚寺を創建。 ・独裁化を深め「寄合」を開き、「深秘のご沙汰」で政治を進めました。 |
<北条氏の系図(執権8代)>

<「北条時宗」の主な功績や執権時代の出来事>
1268年、8代執権に就任 | ・鎌倉幕府5代執権・北条時頼は、子の時宗がまだ幼少であったため、長時に執権を譲り、その後、長時は政村に執権を譲りました。 ・1268年、7代執権北条政村は時宗に執権を譲り、自らは連署となりました。 |
田辺が池の雨乞い伝説 ※「鎌倉ゆかりの人物―日蓮と忍性のあれこれ」を参照。 | ・1271年、大干ばつに襲われたため、時宗は極楽寺の「忍性」に雨乞い祈祷を命じたが、雨はついに降らなかった。 ・代わって「日蓮」が法華経を唱え始めると、大雨が降り始め、この勝負は日蓮の勝利に終わったという伝説です。 |
1274年、文永の役 | ・度重なる元からの国書を幕府・朝廷は黙殺したため、元軍は博多に押し寄せました。 ・元軍は博多湾に上陸し、集団戦法で幕府を翻弄しましたが、突然撤退しました。 |
1281年、弘安の役 | ・時宗は、博多湾の沿岸防衛のため石築地建造を九州の御家人に命じるなど、2度目の蒙古襲来に備えていました。 ・やがて、元軍は、暴風雨のため、甚大な被害を受けて撤退しました。 |
1277年、阿仏尼の鎌倉下向 | ・阿仏尼は、時宗に所領相続の正当性を訴えるために、京から下向し、その旅日記と鎌倉滞在記を『十六夜日記』に著しました。 |
1282年、一遍の鎌倉入りを拒否 ※「鎌倉検定−蒙古の襲来(1282年3月1日)を読む(7)」を参照。 | ・一遍は踊り念仏を行いながら全国を行脚し、常陸・武蔵を経て、鎌倉の北の入り口の巨福呂坂(北鎌倉付近)から鎌倉に入ろうとしましたが、木戸で時宗に出会い阻止されました。 ・一遍一行がその晩野宿した場所が、「光照寺」のある場所だったと伝えられています。 この様子を描いたのが「一遍聖絵(ひじりえ)」(国宝:「一遍上人絵伝」)です。 ※『「一遍聖絵」第5巻第5段』→「ココ」参照。 |
1282年、円覚寺創建 ※「北鎌倉のお寺を見る(瑞鹿山)」を参照。 | ・時宗は、蒙古襲来の戦没者供養のため、無学祖元を開山として、「瑞鹿山円覚寺」を建立しました。 ・1284年、時宗は、元寇という国難との戦いに疲れたのか、33歳という若さで、その短い生涯を閉じました。 |
1282年頃、太平寺創建 | ・時宗の招きにより宋から来朝した大休正念を導師として仏殿供養を行ったのが始まりです。 |
明月院の前身である禅興寺を創建 | ・北条時頼が最明寺を創建したが廃寺となり、その後、時宗が蘭渓道隆を開山として創建。 |
<北条時宗廟所の円覚寺塔頭「佛日庵」>
・時宗の命日4月4日に、開基毎歳忌が行われます。
<北条時宗の誕生の地にある甘縄神明神社境内の「北条時宗産湯の井」>
・北条時宗の祖母は安達景盛の娘の「松下禅尼」で、時宗夫人は安達泰盛の養女の
「覚山尼」です。
<円覚寺の伝説:「白鷺池」>
8代執権北条時宗は、二度にわたる蒙古襲来の敵味方すべての戦没者供養のために、1282年、新しい寺を創建しようと寺地を探していた。 なかなか適当な地が見つからないでいると、鶴岡八幡宮の神霊が白鷺に姿を変え、北鎌倉にある池に舞い降りて導いたという。 この鷺が舞い降りた場所が、今も円覚寺の門前にある「白鷺池」だといわれている。 |