
今回は「9代執権、北条貞時」です。
◎北条貞時 1272 〜1311年 | ・鎌倉幕府9代執権。北条時宗の嫡男。得宗専制体制を確立しました。 ・1284年に制定された「新御式目」38条により、得宗が「公方」として政治を進めていくことを求めました。 ・1285年、平頼綱の讒言により安達泰盛を滅ぼすと、1293年、平頼綱を誅殺し、1297年、御家人救済のため「徳政令」を発布しました。 |
<北条氏の系図(執権1〜9代)>

<「北条貞時」の主な功績や執権時代の出来事>
1284年、9代執権に就任 | ・北条時宗の死後、3ヶ月間空位となっていた執権の座に嫡子で14歳の北条貞時がつきました。 ・貞時執権就任を主導したのは、貞時の外祖父で有力御家人の安達泰盛といわれています。 |
1285年、霜月騒動 | ・御家人を中心とした政治改革推進派の安達泰盛と北条得宗独裁化を進める平頼綱(御内人)が対立。 ・安達泰盛と嫡子宗景が、内管領平頼綱の攻撃をうけて滅びました。 |
1289年、7代将軍惟康親王の鎌倉追放 | ・将軍は、惟康親王→久明親王へ。 ・後深草院二条が鎌倉に来ており、日記「とはずがたり」に惟康親王の惨めな帰洛を記しています。 |
1293年、平禅門の乱 | ・北条貞時は、内管領の平頼綱が権力を持ちすぎ、独断・専横を止めるため、誅殺しました。 |
1296年、鷲峰山覚園寺を建立 | ・真言宗。開山は智海心慧、開基は北条貞時。 ・1218年、北条義時が創建した大倉薬師堂を前身とし、北条貞時は、再度の元軍の来襲を退けることを祈願して、寺に改めました。 |
1297年、徳政令を定める | ・当時は元寇の処理の影響もあり、御家人の所領に関する紛争が増大していた。 ・この「徳政令」は、源頼朝以来の幕府の基盤である御家人体制を維持するための苦肉の策ともいわれています。 |
1301年、円覚寺梵鐘を寄進 | ・鎌倉三名鐘(建長寺・円覚寺・常楽寺の梵鐘)の一つ。鎌倉で最大の梵鐘で、「洪鐘」(おおがね)と呼ばれています。 ・大檀那は北条貞時、撰文は西澗子曇、鋳物師は物部国光。 |
<円覚寺梵鐘「洪鐘」鋳造の伝説>
鋳造師「物部国光」は、鋳造がうまくいかず失敗を繰り返すが、北条貞時が七日間江の島弁財天に参詣したところ、ある夜、夢の中で白鷺池の底を掘ってみよというお告げがあり、池の底から金銅の塊を発見した。 それを鋳造して3回目で成功した北条貞時は、洪鐘鋳造の成功に感謝して弁天堂を建立したといいます。 |
<国宝 洪鐘の説明板>
<国宝 洪鐘>
<「弁天堂」とその内部の様子>