2018年11月12日

鎌倉ゆかりの人物―北条高時のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「14代執権・北条高時」です。

北条高時
1303
〜1333年
・鎌倉幕府14代執権。9代執権北条貞時の子。
・父と同じ14歳で執権となったが、実権は長崎円喜、高資父子、安達時顕が握っており、そのため、闘犬、田楽、飲酒などにふけり、政治をおろそかにしました。
・新田義貞の鎌倉攻めによって、一族とともに東勝寺で自刃。
 鎌倉幕府は滅亡しました。

北条氏の系図(執権1〜14代)
 北条師時から高時の系図.jpg

「北条高時」の主な功績や執権時代の出来事
1316年、14代執権に就任・1311年、北条貞時が死去した時、高時はまだ9歳でした。貞時は、得宗高時の後見を、内管領長崎円喜と安達時顕に託しました。
・執権は北条師時→宗宣→煕時→基時と推移し、高時が14歳になると、正式に執権として就任しました。
1301年、北条貞時の出家に伴い、10代執権に「北条師時」・北条師時は、北条時宗の弟、北条宗政の子。
北条高時が成人するまでの中継ぎ役として期待されたが、実権は貞時に握られていました。
1327年、夢窓疎石が端泉院を建立夢窓疎石は、京・土佐などを転々としていましたが、北条高時の母覚海尼が、疎石の高名を聞き、懇請して鎌倉に入りました。
・その後、疎石は後醍醐天皇に招かれて、京都の南禅寺に滞在するが、再度、北条高時の懇請で鎌倉に入り、二階堂の地に瑞泉院を建てました。
 これが「瑞泉寺」の源です。
浄光明寺敷地絵図に登場する「北条高時」の屋敷

※「浄光明寺敷地絵図」は「ココ」を参照。
・この絵図は、鎌倉幕府滅亡の後に寺の関係者が寺領を保護してもらうため、足利直義の執事上杉重能に差し出し、その許可を得たものです。

・絵図の真ん中右側には、「北条(赤橋)守時」の屋敷区画があり、すぐ東側には「御中跡」とあり、「北条高時」の屋敷でした。
葛原ヶ岡にある「日野俊基の墓」

※「鎌倉ゆかりの人物―後醍醐天皇のあれこれ」を参照。
・後醍醐天皇は、日野俊基らの公卿とともに討幕計画を進めました。
 (1324年「正中の変」、1331年「元弘の変」)
・朝廷の権力を取り戻そうと計画したが成功せず、日野俊基は、1332年、北条高時の命令により処刑されました。
東勝寺

※執権の推移:
北条高時
→1326年2月金沢貞顕
→1326年4月赤橋守時
・開山は栄西の弟子、退耕行勇とされ、開基は北条泰時といわれるが、創建の時期など詳細は不明。
・1333年、北条一門がここに火を放ち、北条高時以下、総勢、約870人が自害したといわれます。
・15代執権金沢貞顕は、祖父の金沢実時が創設した「金沢文庫」を発展させましたが、北条高時らとともに東勝寺で最期を遂げました。
腹切りやぐら・宝戒寺(小町)後方の屏風山と小富士山に囲まれた葛西ヶ谷の奥、東勝寺跡内にあります。
・新田義貞の鎌倉攻めで自刃した北条高時はじめ、北条一族の屍を葬ったとされるが、実際の埋葬地は釈迦堂ヶ谷奥やぐら群と推定されています。
「貝吹地蔵」の伝説・新田義貞の鎌倉攻めの際、自害した北条高時の首を新田勢に渡すまいと高時の家来が持って逃げたが、埋める場所に窮し、その時、地蔵が貝を吹いて、夢窓疎石の建てた徧界一覧亭から天園に向かう谷間に導いてくれ、無事に首を埋められたということです。
・また一説には、新田勢が攻めてきた時に、ほら貝で知らせた地蔵であるともいうことです。
宝戒寺の徳崇大権現堂

※「鎌倉小町のお寺を見る(金龍山)」を参照。
・1335年、後醍醐天皇が北条一族の霊を弔うため、足利尊氏に命じて北条氏の執権屋敷跡に宝戒寺を建立させました。
北条高時は、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇から「徳崇大権現」という神号を下賜され、宝戒寺本堂右前にある徳崇大権現堂に祀られています。
北条高時の遺児時行による「中先代の乱」

※「鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1335年7月25日)を読む(2)」を参照。
・1335年、北条高時の遺児時行が幕府復活を計って、信濃国で反乱を起こし(中先代の乱)、足利直義軍を打ち破り、一時鎌倉を奪還したが、足利尊氏に奪回されました。
・その後、南朝に属して北畠顕家・新田義興らに従い、再度鎌倉を占領したが、1353年、足利氏に捕えられ殺害されました。
亀甲山成福寺
(小袋谷)
・鎌倉で唯一の浄土真宗
・開山は成仏で、北条泰時の子、泰次といわれています。1232年、親鸞に師事して成仏の名をもらい、天台宗から浄土真宗に改宗しました。
・鎌倉幕府が倒れたときの住職成円は、北条高時の実弟だったため寺を追われ、以後、70年ほど無住だったということです。

国指定史跡「東勝寺跡」
 東勝寺跡.JPG

腹切りやぐらの傍にある「東勝寺旧蹟」の石碑
東勝寺旧蹟の石碑.JPG元弘三年(1333)五月、新田義貞が鎌倉に攻め入ると、北条高時は小町の邸宅を出て、先祖代々の墓所である東勝寺にこもりました。

150年間、賑わい極めた鎌倉の町の邸宅や商店が一面に炎と煙に包まれている様子を遠く眺めながら、一族の者870人以上が共に自刃しました。

その北条執権政治の終局となる悲惨な場面は、実にこの場所で行われたのです。

祇園山ハイキングコースの登山口にある「腹切りやぐら」
 腹切りやぐら.JPG

瑞泉寺裏山にある「貝吹地蔵」
 貝吹地蔵.JPG

宝戒寺の「徳崇大権現堂」
 徳宗大権現堂.JPG

 
posted by トシ999 at 08:00| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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