
今回は「源頼家・実朝兄弟」です。
◎源頼家 1182 〜1204年 | ・鎌倉幕府2代将軍。源頼朝の長男。 ・1199年、頼朝の死後、嫡男頼家が頼朝の遺跡を相続するが、正式に征夷大将軍に任じられるのは、1202年のことです。 ・家督を継いでも、実権は北条氏に掌握され、最後は伊豆修禅寺に幽閉され、後に暗殺されました。 |
◎源実朝 1192 〜1219年 | ・鎌倉幕府3代将軍。源頼朝の次男で、頼家の弟。 ・鎌倉時代前期の万葉調の歌人として知られ、藤原定家に師事しました。 家集に『金槐和歌集』。 ・右大臣拝賀の儀の帰途、鶴岡八幡宮境内で甥の公卿に暗殺されました。 |
<源頼家・実朝の系図>

<「源頼家」の主な功績やその時代の出来事>
・源頼家は、妻の父である「比企能員」との関係を深めたため、北条時政や北条政子と
対立していました。
・1203年5月、頼家が、頼朝の弟阿野全成を謀反の疑いで捕え、6月に殺害しました。
全成の妻阿波局は、実朝の乳母で、北条政子の妹。
・1203年9月の「比企氏の乱」の後、将軍職を引退させられ、伊豆修禅寺に幽閉されま
した。
※「比企氏の乱」については、「鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1203年9月2日)を読む(20)」を参照。
<伊豆修禅寺の「源頼家の墓」>
<「源実朝」の主な功績やその時代の出来事>
・源実朝が第3代将軍に就任してから、北条氏の執権政治が始まり、やがて得宗専制
政治へと発展していきました。
<「源実朝」の主な功績やその時代の出来事>
1203年、第3代将軍に就任 | ・1203年9月に、源頼朝の二男千幡に実朝の名を与え、征夷大将軍に任ずる宣旨が鎌倉に到着しました。 |
1205年、畠山重忠の乱 | ・北条時政の後妻牧ノ方の女婿平賀朝雅が、畠山重保と口論したことを契機として、畠山重忠・重保親子が北条時政の命を受けた幕府軍に討たれました。 |
1211年、鴨長明が鎌倉に下向 | ・飛鳥井雅経の供として鎌倉に下向してきて、3代将軍源実朝と面談しました。 ・源頼朝の忌日にあたるとして、その墳墓堂である法華堂に参り、和歌一首を堂の柱に記しました。 |
「大慈寺」創建 | ・1212年、源実朝が父頼朝への感謝のために建てた寺です。 ・1214年に、大がかりな供養が行われ、北条政子と源実朝が参列しました。 |
1213年、和田合戦 | ・和田義盛とその一族が、北条氏打倒をめざして挙兵しましたが、敗れました。 ・将軍御所を攻められた源実朝は、頼朝法華堂に避難しました。 |
わが国最初の茶書『喫茶養生記』 | ・1214年、壽福寺長老の栄西が、二日酔いに悩む源実朝に対し、良薬と称して茶を勧め、また「茶徳を誉むるところの書」一巻を献上しました。 |
唐船の建造 | ・1216年、源実朝が宋の医王山参詣のため、宋人陳和卿に唐船の建造を命じました。 ・唐船は、翌年4月に完成したものの、なぜか進水には失敗しました。 |
「実朝祭」(鶴岡八幡宮白旗神社) (8月9日) | ・源実朝ゆかりの祭は、「実朝祭」の他に、10月28日に和歌などの文芸の才能にちなんで催される「白旗神社文墨祭」があります。 |
歌ノ橋(二階堂) | ・1213年、謀反の罪で捕えられた渋川刑部六郎兼守は、無実の罪を晴らすために十首の和歌を詠み荏柄天神社に奉納しました。 ・将軍源実朝は、その和歌を見て感心し、罪を許し釈放したので兼守は死刑を免れました。 そのお礼にと荏柄天神社の参道近くにこの橋を架けたので、歌ノ橋と呼ばれるようになりました。 |
1219年、源実朝の暗殺 | ・鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の式に出て退出の際、甥の鶴岡八幡宮別当公暁によって殺害されました。 ・公暁も乳母の夫三浦義村のもとへおもむく途中に殺され、頼朝の源家は断絶するところとなりました。 |
<「大慈寺跡」の石碑>
その後、正嘉元年(1257)、征夷大将軍宗尊親王の時、本堂、丈六堂、新阿弥陀堂、釈迦堂、三重ノ塔、鐘楼等ことごとく修理され、その美しさは創建当時以上であると東鑑(吾妻鏡)に記載されています。当時の盛観さを想い描くことができます。その後700年過ぎた現在、壮麗であったこの地は一片の礎石をも見付けることができません。桑滄の変化を思うところです。
<鎌倉国宝館前の「源実朝の歌碑」>
・関東大震災で倒壊した二ノ鳥居に刻まれた歌碑があります。
『山はさけ うみはあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも』
<鎌倉海浜公園(坂ノ下)の「源実朝の歌碑」>
・百人一首でおなじみの歌の歌碑があります。
『世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟の つなでかなしも』
<鶴岡八幡宮白旗神社の近くの源実朝を偲ぶ「菅裸馬の句碑」>
『歌あはれ その人あはれ 実朝忌』
<「源実朝の墓」(壽福寺境内)>