
今回は「真言宗の僧・文覚上人」です。
◎文覚上人(1139〜1203年)
・平安末から鎌倉時代初期の真言宗の僧、もとは武士。俗名は遠藤盛遠。
・伊豆国蛭ヶ小島で源頼朝の知遇を得、頼朝の鎌倉入りを扶けたといわれています。
・京都神護寺再興のために後白河法皇に勧進したものの、怒りを買い、伊豆に流され、
そこで源頼朝と出会い親交を深め、平家討伐の挙兵を勧めたといわれています。
・頼朝の死後、後鳥羽上皇に謀反の嫌疑をかけられ、対馬へ流罪となる途上、死亡しま
した。
<「文覚上人荒行像」(成就院)>
<南向山補陀洛寺(材木座)>
・真言宗。開山と伝えられる「文覚」は、元武士でした。
・1181年、源頼朝の祈願所として創建されました。
・江戸時代、たびたび竜巻に襲われたため、別名「竜巻寺」といわれています。
<源頼朝の父義朝を祀る「勝長寿院旧蹟」の石碑(雪ノ下)>
・1185年、源頼朝臨席のもと、「勝長寿院」の開堂供養が行われました。
・奈良から仏師成朝を招いて、黄金の阿弥陀像を造らせて安置したといわれています。
・また、文覚上人の弟子たちによって、京都で探し出された源義朝の首が鎌倉へ運ば
れ、埋葬されたということです。
<「文覚上人屋敷迹」の石碑(雪ノ下)>
・雪ノ下の「田楽辻子の道」の入口、滑川に架かる「大御堂橋」の傍らに、文覚が住ん
だといわれる「文覚上人屋敷迹」の石碑があります。
・大御堂橋の下を流れる滑川が、古くは「坐禅川」といわれたのは、文覚上人が近くに
屋敷を構えていたことにちなんでということです。
その修行は大変勇猛なもので、厳寒猛暑のなかでも林や草むらに露臥し、厳しい滝に打たれて何度も死にそうになりました。
養和二年(1182)四月、頼朝の本願として弁財天を江の島に勧請し、ここで三十七日の間籠もって、食を断って祈願を勤めました。
この場所がその当時文覚が住んでいた屋敷の跡です。