2018年11月23日

鎌倉ゆかりの人物―文覚のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「真言宗の僧・文覚上人」です。

文覚上人(1139〜1203年)
 ・平安末から鎌倉時代初期の真言宗の僧、もとは武士。俗名は遠藤盛遠。
 ・伊豆国蛭ヶ小島で源頼朝の知遇を得、頼朝の鎌倉入りを扶けたといわれています。
 ・京都神護寺再興のために後白河法皇に勧進したものの、怒りを買い、伊豆に流され、
  そこで源頼朝と出会い親交を深め、平家討伐の挙兵を勧めたといわれています。
 ・頼朝の死後、後鳥羽上皇に謀反の嫌疑をかけられ、対馬へ流罪となる途上、死亡しま
  した。

「文覚上人荒行像」(成就院)
 文覚上人荒行像.JPG

南向山補陀洛寺(材木座)
 ・真言宗。開山と伝えられる「文覚」は、元武士でした。
 ・1181年、源頼朝の祈願所として創建されました。
 ・江戸時代、たびたび竜巻に襲われたため、別名「竜巻寺」といわれています。
 補陀洛寺.JPG

源頼朝の父義朝を祀る「勝長寿院旧蹟」の石碑(雪ノ下)
 ・1185年、源頼朝臨席のもと、「勝長寿院」の開堂供養が行われました。
 ・奈良から仏師成朝を招いて、黄金の阿弥陀像を造らせて安置したといわれています。
 ・また、文覚上人の弟子たちによって、京都で探し出された源義朝の首が鎌倉へ運ば
  れ、埋葬されたということです。
 勝長寿院旧蹟.JPG

「文覚上人屋敷迹」の石碑(雪ノ下)
 ・雪ノ下の「田楽辻子の道」の入口、滑川に架かる「大御堂橋」の傍らに、文覚が住ん
  だといわれる「文覚上人屋敷迹」の石碑があります。
 ・大御堂橋の下を流れる滑川が、古くは「坐禅川」といわれたのは、文覚上人が近くに
  屋敷を構えていたことにちなんでということです。
 文覚上人屋敷跡.JPG

文覚上人屋敷迹の石碑.JPG文覚は俗称を遠藤盛遠といい、もとは院の警備をしていましたが、18歳の時に、左衛門尉源渡の妻袈裟御前に想いをよせ、源渡と間違って袈裟御前を殺してしまい、後悔の余り僧となりました。
その修行は大変勇猛なもので、厳寒猛暑のなかでも林や草むらに露臥し、厳しい滝に打たれて何度も死にそうになりました。
養和二年(1182)四月、頼朝の本願として弁財天を江の島に勧請し、ここで三十七日の間籠もって、食を断って祈願を勤めました。

この場所がその当時文覚が住んでいた屋敷の跡です。

 
posted by トシ999 at 14:55| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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