2019年05月07日

ふりかえり鎌倉―鎌倉幕府の開府(鎌倉検定:歴史・旧跡編(3))

鎌倉検定過去問を振り返り、鎌倉を楽しむ回として情報をお届けします。

今回は、「鎌倉幕府の開府について」です。
設問
@幕府跡の裏山にあった持仏堂に葬られ、武士として初めて幕府を開いた人物で、江戸時代に造られた墓所が現在も残る人物はだれか。
A源氏三代と尼将軍とも呼ばれた北条政子の時代の鎌倉幕府は、何幕府と呼ばれたか。
Bその幕府が置かれた場所とされる旧跡に建っている石碑は、何小学校付近にあるか。

解答と解説
@源頼朝
A大倉幕府
B清泉小学校


大倉幕府跡
・鎌倉幕府は、まず鶴岡八幡宮の東側、大倉の地に置かれ、のちに「大倉幕府」と呼ばれました。
・「源頼朝」は、はじめ亀ヶ谷にあった父義朝の旧跡に邸宅を構えようとしたが、土地が狭いことなどから大倉の地を選んだともいわれます。
・大倉幕府は、1180年から宇津宮辻子に移転する1225年までの45年間、大倉の地、現在の「清泉小学校」付近に置かれました。

清泉小学校付近の四つ角に建っている「大倉幕府旧蹟」の石碑
 大倉幕府跡.JPG

大倉幕府旧蹟の石碑.JPG今から737年前の昔、治承四年(1180年)、源頼朝邸をこの場所に造り、天下の政権を握るようになってからは、この邸宅に於いて政治を行いました。

いわゆるこれが大蔵幕府です。

以来、頼家、実朝を経て、嘉禄元年(1225年)、政子が亡くなり、幕府が宇津宮辻に移るまで、この地が幕府の中心であったのは実に46年間でした。

大倉幕府の東西南北の門のうち、今も地名に残る「西御門」、「東御門」の石碑
西御門の石碑.JPG
西御門は、法華堂の西の方の地を言います。

大蔵幕府の西門の前面に当たるため、この名前が付けられています。

かつてこの地域には、報恩寺、保寿院、高松寺、来迎寺等がありました。

今は、高松寺、来迎寺の二寺だけが存在しています。

東御門の石碑.JPG
大蔵幕府には、四つの門がありました。

その名前は、その方位で付けられていました。

大蔵幕府の東に位置するものを東御門といい、現在は地名となっています。

法華堂の東の方一帯の地域がすなわち東御門です。

大倉幕府跡の裏山にある源頼朝の持仏堂であった「法華堂跡」の石碑
法華堂跡石碑.JPG
堂はもと頼朝の持仏を祀っていましたが、頼朝の死後その廟所になりました。

建暦三年(1213年)5月、和田義盛が、反乱を起こし、火を幕府に放った時、将軍実朝が避難したのがこの場所です。

宝治元年(1247年)6月5日、三浦泰村がここにこもり、北条軍を迎え撃ったが、刀折れ矢尽きて一族郎党500人ばかり自殺し、庭一面を赤黒色に染めた場所でもあります。

「大倉幕府旧蹟」、「西御門」、「東御門」、「法華堂跡」の各石碑の場所
 西御門東御門.jpg

 
posted by トシ999 at 08:00| Comment(0) | 歴史・旧跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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