
今回は、「鎌倉幕府の開府について」です。
【設問】
@幕府跡の裏山にあった持仏堂に葬られ、武士として初めて幕府を開いた人物で、江戸時代に造られた墓所が現在も残る人物はだれか。 A源氏三代と尼将軍とも呼ばれた北条政子の時代の鎌倉幕府は、何幕府と呼ばれたか。 Bその幕府が置かれた場所とされる旧跡に建っている石碑は、何小学校付近にあるか。 |
【解答と解説】
@源頼朝
A大倉幕府
B清泉小学校
◎大倉幕府跡
・鎌倉幕府は、まず鶴岡八幡宮の東側、大倉の地に置かれ、のちに「大倉幕府」と呼ばれました。
・「源頼朝」は、はじめ亀ヶ谷にあった父義朝の旧跡に邸宅を構えようとしたが、土地が狭いことなどから大倉の地を選んだともいわれます。
・大倉幕府は、1180年から宇津宮辻子に移転する1225年までの45年間、大倉の地、現在の「清泉小学校」付近に置かれました。
<清泉小学校付近の四つ角に建っている「大倉幕府旧蹟」の石碑>
いわゆるこれが大蔵幕府です。
以来、頼家、実朝を経て、嘉禄元年(1225年)、政子が亡くなり、幕府が宇津宮辻に移るまで、この地が幕府の中心であったのは実に46年間でした。
<大倉幕府の東西南北の門のうち、今も地名に残る「西御門」、「東御門」の石碑>
西御門は、法華堂の西の方の地を言います。
大蔵幕府の西門の前面に当たるため、この名前が付けられています。
かつてこの地域には、報恩寺、保寿院、高松寺、来迎寺等がありました。
今は、高松寺、来迎寺の二寺だけが存在しています。
大蔵幕府には、四つの門がありました。
その名前は、その方位で付けられていました。
大蔵幕府の東に位置するものを東御門といい、現在は地名となっています。
法華堂の東の方一帯の地域がすなわち東御門です。
<大倉幕府跡の裏山にある源頼朝の持仏堂であった「法華堂跡」の石碑>
堂はもと頼朝の持仏を祀っていましたが、頼朝の死後その廟所になりました。
建暦三年(1213年)5月、和田義盛が、反乱を起こし、火を幕府に放った時、将軍実朝が避難したのがこの場所です。
宝治元年(1247年)6月5日、三浦泰村がここにこもり、北条軍を迎え撃ったが、刀折れ矢尽きて一族郎党500人ばかり自殺し、庭一面を赤黒色に染めた場所でもあります。
<「大倉幕府旧蹟」、「西御門」、「東御門」、「法華堂跡」の各石碑の場所>
