
今回は、「日本で最初の「ナショナルトラスト運動」について」です。
【設問】
@昭和30 年代後半に宅地開発計画が発覚し、鎌倉の風致保存活動の舞台となった鶴岡八幡宮の裏山を何というか。 Aこの騒動の舞台となった緑地を買い取り、日本で最初の「ナショナルトラスト運動」を行った組織を何というか。 B鎌倉の風致保存のために中心的に奔走し、「ナショナルトラスト運動」のさきがけとなった人物はだれか。 |
【解答と解説】
@御谷(おやつ)
A鎌倉風致保存会
B大佛次郎
◎御谷騒動(1964年)
・鶴岡八幡宮西北、小袋坂の曲がり角辺りの一帯は、古くから「御谷」と呼ばれ、幕末まで鶴岡八幡宮寺を管理する供僧が住し、供僧坊がありました。 ・1964年(昭和39)、この御谷の緑地開発として宅地開発する企てが持ち上がり、開発側と反対派の攻防が繰り広げられ、「御谷騒動(おやつそうどう)」と呼ばれました。 ・これに対して、大佛次郎ら著名人をはじめ多くの市民が、開発反対、旧跡、緑地保全運動に加わりました。 |
◎鎌倉風致保存会
・1964年(昭和39)に発足。 ・「鎌倉風致保存会」は、「御谷騒動」の舞台となった緑地を買い取り、これによって緑が守られ、これが日本で初めての「ナショナルトラスト運動」となりました。 ・「御谷騒動」は、1966年(昭和41)の「古都保存法」制定のきっかけとなりました。 ・現在、鎌倉市の緑地は市の面積の約4割です。 |
<「二十五坊跡」と呼ばれる国の史跡が残る「御谷」の場所>

<鶴岡八幡宮寺の御坊「二十五坊旧蹟の石碑」>
あの別当公暁が実朝の首を手にして潜んだという後見人の備中阿闍利の住居もまたこの地にありました。
応永中(1394〜1428年)、院宣により坊の呼び名を院に変えました。
戦国時代に入ってからは、鎌倉管領の衰えと共に各院とも次第に廃絶し、天正の末(1592年)にはわずか7院だけになりました。
文禄中(1592〜1596年)に、徳川家康が5院を再興して12院になりましたが、 明治維新の後はついに全て無くなりました。
◎大佛次郎(1897(明治30)〜1973年(昭和48))
・本名・野尻清彦。小説家。小説『鞍馬天狗』で知られ、1921年(大正10)、長谷の
大仏裏に移り住みました。
ペンネームの“大佛”(おさらぎ)はそこから付いたものです。
1929年(昭和4)から没年まで雪ノ下に居住しました。
・鎌倉の風致保存に力を注ぎ、鎌倉の旧跡・緑地の保全に力を尽くしました。
<壽福寺の本堂裏手にある「大佛次郎の墓」>