
◎源頼朝(1147〜1199年)
・53歳で死去後、自身の持仏堂であった法華堂に祀られ、墓所として信仰されました。
※功績については、「鎌倉ゆかりの人物―源頼朝のあれこれ」を参照。
◎源頼朝の墓(西御門)
・「源頼朝の墓」は、江戸時代に頼朝の子孫と称した薩摩藩主・島津重豪が建てたもの
で、この辺りが法華堂跡とされ、もとは頼朝の持仏堂でした。
<「源頼朝の墓」へ通じる53段の階段下にある「源頼朝の墓の案内板」>
<島津重豪が建てた多層塔の「源頼朝の墓」>
・墓は、同じ石を何層にも重ね、その上に相輪を立てた形をしています。
<墓がある平場に立つ「法華堂跡の説明板」>
・この平場は、源頼朝の「法華堂(墳墓堂)」が建っていた跡です。
<墓の隣に置かれた「希義公の土と石の説明板」と「土と石」>
・「頼朝」と弟「希義」の墓所の土と石を交換し、再会を実現させたもの。
◎「方丈記」の作者、鴨長明(1155年〜1216年)の鎌倉訪問
・1211年、飛鳥井雅経(あすかいまさつね)の供として鎌倉に下向してきて、3代将軍源実朝と面談しました。 ・鴨長明が鎌倉に下向してきた日は、源頼朝の命日なので、頼朝の墳墓堂である法華堂にお参りしました。 読経が終わった後、鴨長明は、下の和歌を詠んだといいます。 「草も木も 靡きし秋の 霜消えて 空しき苔を 払う山風」 →草木もなびくほどの権力を持っていた源頼朝も、秋の霜のように消えてしまい、今では墓の苔に、むなしく風が吹きぬけてゆく。 ・江戸時代、林羅山も「源頼朝の墓」を訪れて、鴨長明のこの歌を想いました。 |
※飛鳥井雅経とは
・鎌倉幕府政所別当・大江広元の娘を妻とし、蹴鞠の名手としても歌人としても知られています。 ・「参議雅経」の名で、百人一首にも歌が採られています。 「みよしのの やまのあきかぜ さよふけて ふるさとさむく ころもうつなり」 →吉野の山から秋風が吹き降ろし、夜更けの古都の里の寒々としたなか、衣を柔らかくするために打つ音が聴こえてきます。 |
◎白旗神社(西御門)
・祭神は源頼朝。古くは頼朝を祀る法華堂がありました。 ・『吾妻鏡』によると法華堂の創建は1189年。鎌倉幕府の保護も厚く、崇敬されました。 ・江戸時代には、鶴岡八幡宮の供僧相承院が兼務。明治の神仏分離で、堂は廃され、1872年、「白旗神社」となりました。境内は国指定史跡。 ・4月13日に源頼朝公墓前祭が行われます。 |
<「源頼朝の墓」へ向かう階段下に建つ「白旗神社」>
<「白旗神社」の由緒記>
<白旗神社前に建っている「法華堂跡」の石碑>
・宝治合戦で、幕府の重臣だった三浦泰村の一族は北条時頼に敗れ、500人あまりが
法華堂で自害しました。
・堂はもと頼朝の持仏を祀っていましたが、頼朝の死後その廟所になりました。 ・建暦三年(1213年)5月、和田義盛が、反乱を起こし、火を幕府に放った時、将軍実朝が避難したのがこの場所です。 ・宝治元年(1247年)6月5日、三浦泰村がここにこもり、北条軍を迎え撃ったが、刀折れ矢尽きて一族郎党500人ばかり自殺し、庭一面を赤黒色に染めた場所でもあります。 |
◎鎌倉ものがたり:西御門
・西御門は、かつて源頼朝が御所を建てた「大蔵」の地の西側に位置しています。