
来迎寺(材木座)には、相模国の武将「三浦大介義明(みうらおおすけよしあき)」の五輪塔の墓があります
◎三浦大介義明(1092〜1180年)
・平安時代末期の相模国三浦郡衣笠城の武将。 ・1180年の源頼朝の挙兵に呼応して一族を衣笠城から出撃させたが、雨による増水のため酒匂川を渡ることができず、石橋山の戦いには間に合いませんでした。 ・三浦軍は、頼朝の敗北を知り、衣笠へ引き返す途中、由比ヶ浜で畠山重忠軍と遭遇しました。義明と重忠とは親戚関係にあり、お互い了解の上で戦わずにやり過すはずでした。 ・ところが、杉本城にいた三浦一族の和田義茂は、三浦軍が重忠に追われていると勘違いをして、重忠を攻めたため、小坪口での合戦へと発展してしまいました。 ・三浦軍は衣笠城に引き返しましたが、すぐに重忠軍が衣笠城を攻めたため衣笠城合戦となり、義明は子義澄らの一族を海上から頼朝のもとに逃げさせ、自らは衣笠城に籠り、戦死しました。 ・義明は89歳で戦死しましたが、源頼朝は、義明が17回忌まで生きたものとみなすよう伝えたため、「百六つ義明公」とも呼ばれました。 ・源義朝の長男義平は、「三浦大介義明」の娘との間に生まれた子で、「鎌倉悪源太」と称したと伝えられています。これは武勇に優れ強いという意味で「悪源太」と呼ばれました。 ・今の壽福寺付近にあった源義朝供養のための堂「鎌倉之楯」を建てた岡崎義実は、三浦大介義明の弟です。 |
<三浦大介義明の系図>

<本堂右手前に建つ「三浦大介義明の五輪塔の墓」>
<三浦大介義明の墓の隣に建つ孫の「多々良重春の墓」(左の五輪塔)>
・17歳の重春は、畠山重忠との戦い(小坪口での合戦)で戦死しました。

<境内裏手には、百余基の五輪塔の三浦一族「三浦大介公家来の墓」が並んでいます>
◎随我山来迎寺(材木座)
・時宗。開山は音阿。
・1194年、源頼朝が三浦大介義明の菩提を弔うため建立した能蔵寺がはじまりです。
1335年、音阿上人が時宗に改宗し、現在の名前に改名しました。
・本堂には本尊である「阿弥陀三尊像」と、「子育て観音」といわれる聖観音が祀られ
ています。
本尊の「阿弥陀三尊像」は運慶作とされています。
