
今回は、「北条時政」です。
※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。
◎北条時政(1138年〜1215年)

・北条政子やその弟、北条義時の父で、源頼朝の鎌倉幕府創設に貢献しました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・第3代将軍源実朝の時に、初代執権となり、実権を握りました。
・後に、北条政子や義時と対立し出家。伊豆に追放されました。
<北条時政の年表>
1138年 | ・伊豆国の在地豪族北条氏の子として生まれる。 |
1160年 | ・「平治の乱」で敗れて伊豆の蛭が小島へ配流となった「源頼朝」の監視役を任された。 |
1177年頃 | ・娘の北条政子と源頼朝との結婚に、初めは反対したが、結局結婚を認め、源頼朝の後ろ盾になった。 |
1180年 | ・源頼朝の挙兵に力を貸し参戦したが、石橋山の戦いで嫡男、北条宗時を失った。 |
1185年 | ・「壇ノ浦の戦い」で平氏が滅び、源頼朝を助けて鎌倉幕府の創立に貢献した。 |
1199年 | ・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。 |
1203年 | ・対立していた比企能員を自邸に招いて殺害し、北条氏の軍勢は比企氏一族を滅ぼした。(比企氏の乱) |
1203年 | ・源実朝が第3代将軍に就任すると、政所の別当として実朝を補佐し、初代執権となった。 |
1205年 | ・「畠山重忠の乱」の後、源実朝を殺害し後妻牧ノ方の女婿平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、北条政子と義時らに阻止され失脚し、伊豆に追放された。 |
1215年 | ・伊豆国で隠居後、死去。墓所は「願成就院」(伊豆の国市)にある。 |