2022年10月08日

鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(北条義時)

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来月の鎌倉検定に向けて、今年のトピックスとして「鎌倉殿の13人」をテーマに取り上げていきます。

今回は、「北条義時」です。
 ※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。

北条義時(1163年〜1224年)
北条義時_R.jpg・北条時政の次男。北条政子の弟。
・父時政と共に、源頼朝の鎌倉幕府創設に貢献しました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・第3代将軍源実朝の時に、父時政を追放し、2代執権となりました。
・承久の乱を鎮圧。後鳥羽上皇らを流罪にし、幕府軍が勝利を収めました。

北条義時の年表
1163年・「北条時政」の次男として生まれる。
1180年・「治承・寿永の乱」では、父時政と共に従軍。源頼朝の家臣として篤い信頼を得た。
1199年・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。
1203年・「比企氏の乱」で比企氏一族を滅ぼした。
1205年・「畠山重忠の乱」で畠山重忠を討伐したが父時政への不信感が募った。
・第3代将軍源実朝の時に、父時政と対立し伊豆に追放。2代執権となった。
1213年・侍所別当であった和田義盛を挑発し、「和田合戦」にて討伐した。
・これにより、政所別当の他、義盛に代わって侍所別当も兼任することになった。
1219年・第3代将軍源実朝が暗殺され、その時に参列していたが、難を逃れた。
1221年・「承久の乱」が勃発したが、姉の政子や子の泰時らとともに鎮圧。
・後鳥羽上皇らを流罪にし、京都に六波羅探題を設置した。
1224年・病気で死去。没後、供養のために源頼朝の法華堂の東に、「墳墓堂(法華堂)」が建てられた。
・伊豆の国市の「北條寺」の境内にも「北条義時とその後妻の墓」が建てられている。

「北条義時」創建の大倉薬師堂を前身とする「鷲峰山覚園寺(二階堂)」
 ・1296年、9代執権北条貞時が創建。真言宗。開山は智海心慧。
 覚園寺山門_R.JPG

法華堂跡(北条義時墓)(西御門)とされる平場
 ・源頼朝の法華堂の東の山上にあったと推定されています。(吾妻鏡による)
 法華堂跡_R.JPG

北条義時の戌神将伝説
・1218年7月、将軍源実朝の鶴岡八幡宮参拝に従っていた二代執権「北条義時」は、その晩、夢の中で、薬師如来に従う十二神将のうちの「戌神将」が現れ、「今年の将軍の参拝は無事であったが、来年の拝賀の日には供奉しないように」 と告げたという。
 夢から覚めた「義時」は、大倉郷に薬師堂を建立して、薬師如来像を安置した。

・1219年1月、鶴岡八幡宮で源実朝の右大臣拝賀の式が行われた。
 式に参列していた「義時」は、楼門に入るときに「白い犬」が楼門の傍らに見え、気分が悪くなり、その役を源仲章に譲って小町の屋敷に帰った。
 その後、実朝は甥の公暁によって暗殺された。「義時」の代役となった仲章も一緒に斬殺された。

・「戌神将」が白い犬に姿を変えて楼門に現れ、「義時」の命を救ったということのようである。

 
posted by トシ999 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・旧跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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