
今回は、「比企能員」です。
※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。
◎比企能員:(?〜1203年)

・源頼家が誕生した際には、乳父に抜擢されました。
・源頼朝の死後、頼家と結び、権力を振るいました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・源頼家の後継問題で北条氏と対立し、北条時政に討たれました。
<比企能員の年表>
?年 | ・生まれは不明だが、源頼朝の乳母である比企尼は、甥の「比企能員」を養子として迎えて、比企氏の家督を継がせた。 | 1182年 | ・源頼朝の嫡男「源頼家」が誕生した際には、乳父となり、源頼朝の信頼を獲得していった。 | 1184年 | ・源平合戦では、平氏追討に従軍し活躍した。 | 1198年 | ・娘の「若狭局」が頼家の側室となり、長男・一幡を産むと外戚として権勢を振った。 | 1199年 | ・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。 ・和田義盛ら有力御家人とともに、梶原景時糾弾の訴状を提出した。 | 1203年 | ・病床の源頼家の相続を巡って北条時政と対立し、名越の北条邸にて謀殺され、比企一族は滅亡した。(比企氏の乱) ・比企一族の墓は、大町にある「妙本寺」にある。 |
<比企能員の系図>

◎比企氏の乱(1203年)
・源頼家は病床にあり、様態が悪化する中で、関東28か国の地頭職を長子一幡(6歳)に、関西38か国地頭職を弟千幡(12歳、実朝)に譲る。 ・頼家の意向は一幡にすべてを相続させるというものであったが、北条時政らによって阻まれた。 ・北条時政は、一幡の外祖父で有力御家人の比企能員の勢力拡大を恐れていた。 ・比企能員とその一族は、この相続内容に激怒していた。 ・北条時政は、9月に薬師如来像の供養にかこつけて、比企能員を自邸に招いて殺害した。 ・さらに、北条氏の軍勢は、頼家の長子一幡の館にたてこもる比企氏一族・郎従らを襲い、比企氏一族は滅ぼされた。 |
◎長興山妙本寺(大町)
・1260年創建。開山は日蓮。開基は比企能員の子、比企能本。
・山号の「長興」は比企能本の父能員の法号、寺号の「妙本」は母の法号。
・1203年、比企一族は北条時政に滅ぼされましたが、京都にいた比企能員の末子能本は
生き残り、後に比企氏の館の跡地に法華堂を建立しました。
・境内には、比企能員夫妻らの墓、源頼家の嫡男の一幡(若狭局の子)の袖塚、竹御所
(源媄子(よしこ))の墓などがあります。
<比企氏の館の跡地に建てられた妙本寺の参道入口>
<比企一族の供養塔(比企能員夫妻らの墓)>
<一幡の袖塚>
<竹御所(源媄子(よしこ))の墓>
◎蛇苦止堂
・「比企ヶ谷」の妙本寺にあり、源頼家の妻・若狭局(比企能員の娘)を祀っています。 ・1203年、比企氏の乱で比企一族は北条時政に滅ぼされ、若狭局の子で6歳の一幡も殺害され、若狭局は家宝を抱いて井戸に飛び込んだということです。 ・1260年、北条政村の娘に突然「讃岐局」を名乗る怨霊が乗り移り、娘は錯乱して大蛇となって苦しんでいるというのです。 ・その後、政村は、大蛇となって娘に乗り移った若狭局(=讃岐局)の怨霊を鎮めるため、蛇苦止明神として祀り、若狭局(=讃岐局)を供養し加持祈祷をした結果、政村の娘は癒したといいます。 |