2022年10月24日

鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(安達盛長)

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来月の鎌倉検定に向けて、今年のトピックスとして「鎌倉殿の13人」をテーマに取り上げていきます。

今回は、「安達盛長」です。
 ※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。

安達盛長:(1135年〜1200年)
安達盛長_R.jpg・出自の詳細は不明だが、源頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流されていた頃からその側近として仕えました。
・源平合戦で活躍し、源頼朝との篤い信頼関係を構築。
・源頼朝の死去の後、出家しました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・病気で死去しました。

安達盛長の年表
1135年・この年の生まれだが、出自の詳細は不明。
・正室「丹後内侍」(たんごのないし)が、源頼朝の乳母を務めた比企尼の長女であった縁から、頼朝の側近として仕えた。
1180年・源頼朝の挙兵に従い、使者として各地の関東武士の糾合に活躍し、信頼を獲得していった。
1184年・上野国における奉行人に任じられた。
1189年・奥州合戦において、源頼朝に付き従い活躍した。
・有力御家人のひとりとして幕政の中枢でその手腕を振るった。
1199年・源頼朝が急死すると、出家して「蓮西」(れんさい)と号した。
・頼朝の跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。
・和田義盛ら有力御家人とともに、梶原景時糾弾の訴状を提出した。
1200年・66歳で死去した。
・安達盛長の物と伝わる墓所は、日本全国に複数ある。その中でも伊豆「修禅寺」の宝篋印塔が有名。

安達盛長一族の系図
 安達盛長一族系図.jpg

「甘縄神明神社」と、鳥居の傍にある「安達盛長邸址の石碑」
 甘縄神明神社_R.JPG

安達盛長邸址石碑_R.JPG盛長は藤九郎と称します。初め源頼朝が蛭ヶ小島にいた頃、力を合わせてその計画に協力しました。

石橋山の一戦で、源氏の運命が暗澹たる状況になったときも、盛長は頼朝と共に小船で安房に逃れ、そこで離散した兵を集めて挽回策を計画しました。
源氏の白旗が鎌倉に帰り、天下を風靡すると、その功績により重要な地位に就きました。
盛長の子の弥九郎盛景、孫の秋田城介義景が家を継ぎました。
頼朝以来、将軍がしばしば訪れました。
この地がその屋敷のあった場所です。


 ※なお、近年の調査で、今小路西遺跡群で、安達泰盛の屋敷跡の可能性を持つ、大規模
  な建築遺構郡が現れました。
  近年の研究では、安達盛長の屋敷は扇ガ谷の無量寺谷付近と考えられています。

 
posted by トシ999 at 15:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・旧跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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