
今回は、「安達盛長」です。
※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。
◎安達盛長:(1135年〜1200年)

・源平合戦で活躍し、源頼朝との篤い信頼関係を構築。
・源頼朝の死去の後、出家しました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・病気で死去しました。
<安達盛長の年表>
1135年 | ・この年の生まれだが、出自の詳細は不明。 ・正室「丹後内侍」(たんごのないし)が、源頼朝の乳母を務めた比企尼の長女であった縁から、頼朝の側近として仕えた。 | 1180年 | ・源頼朝の挙兵に従い、使者として各地の関東武士の糾合に活躍し、信頼を獲得していった。 | 1184年 | ・上野国における奉行人に任じられた。 | 1189年 | ・奥州合戦において、源頼朝に付き従い活躍した。 ・有力御家人のひとりとして幕政の中枢でその手腕を振るった。 | 1199年 | ・源頼朝が急死すると、出家して「蓮西」(れんさい)と号した。 ・頼朝の跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。 ・和田義盛ら有力御家人とともに、梶原景時糾弾の訴状を提出した。 | 1200年 | ・66歳で死去した。 ・安達盛長の物と伝わる墓所は、日本全国に複数ある。その中でも伊豆「修禅寺」の宝篋印塔が有名。 |
<安達盛長一族の系図>

<「甘縄神明神社」と、鳥居の傍にある「安達盛長邸址の石碑」>
石橋山の一戦で、源氏の運命が暗澹たる状況になったときも、盛長は頼朝と共に小船で安房に逃れ、そこで離散した兵を集めて挽回策を計画しました。
源氏の白旗が鎌倉に帰り、天下を風靡すると、その功績により重要な地位に就きました。
盛長の子の弥九郎盛景、孫の秋田城介義景が家を継ぎました。
頼朝以来、将軍がしばしば訪れました。
この地がその屋敷のあった場所です。
※なお、近年の調査で、今小路西遺跡群で、安達泰盛の屋敷跡の可能性を持つ、大規模
な建築遺構郡が現れました。
近年の研究では、安達盛長の屋敷は扇ガ谷の無量寺谷付近と考えられています。