
今回は、「足立遠元」です。
※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。
◎足立遠元:(1130年代前半〜1207年以降)

・奥州合戦で活躍し、源頼朝との篤い信頼関係を構築。
・公文所が設置されると、大江広元のもとで働くようになりました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・没年は不詳。
<足立遠元の年表>
?年 | ・生まれは不明だが、武蔵国足立郡を本拠とした在地豪族。 ・1159年の平治の乱で、源義朝の陣に従い、源義平率いる軍勢として戦った。 | 1180年 | ・源頼朝が伊豆で挙兵し、頼朝の配下となったが、石橋山の戦いには間に合わなかった。 ・下総から武蔵に入った源頼朝を、誰よりも早く出迎え、信頼を獲得していった。 | 1184年 | ・公文所が設置され、その長官である「別当」には大江広元が任じられ、足立遠元は中原親能や二階堂行政らと共に、同所の「寄人」に選ばれた。 | 1189年 | ・奥州合戦で活躍し、源頼朝から左衛門尉に任ぜられた。 | 1199年 | ・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。 ・和田義盛ら有力御家人とともに、梶原景時糾弾の訴状を提出した。 | ?年 | ・没年は不詳。 ・吾妻鏡の1207年3月の闘鶏会参加の記事を最後に史料から姿を消している。 |
<足立遠元の系図>
・足立氏は、武蔵国足立郡を本拠とした在地豪族。 ・足立遠元の父・藤原遠兼が武蔵国足立郡に土着し、遠元から足立を名乗ったとされる。 ・「尊卑分脈」によると、安達盛長は、父・藤原遠兼の弟であり、年下の叔父に当たるとされている。 |