2022年10月25日

鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(足立遠元)

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来月の鎌倉検定に向けて、今年のトピックスとして「鎌倉殿の13人」をテーマに取り上げていきます。

今回は、「足立遠元」です。
 ※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。

足立遠元:(1130年代前半〜1207年以降)
足立遠元_R.jpg・出自の詳細は不明だが、源頼朝が伊豆で挙兵後、頼朝の配下となりました。
・奥州合戦で活躍し、源頼朝との篤い信頼関係を構築。
・公文所が設置されると、大江広元のもとで働くようになりました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・没年は不詳。

足立遠元の年表
?年・生まれは不明だが、武蔵国足立郡を本拠とした在地豪族。
・1159年の平治の乱で、源義朝の陣に従い、源義平率いる軍勢として戦った。
1180年・源頼朝が伊豆で挙兵し、頼朝の配下となったが、石橋山の戦いには間に合わなかった。
・下総から武蔵に入った源頼朝を、誰よりも早く出迎え、信頼を獲得していった。
1184年・公文所が設置され、その長官である「別当」には大江広元が任じられ、足立遠元は中原親能や二階堂行政らと共に、同所の「寄人」に選ばれた。
1189年・奥州合戦で活躍し、源頼朝から左衛門尉に任ぜられた。
1199年・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。
・和田義盛ら有力御家人とともに、梶原景時糾弾の訴状を提出した。
?年・没年は不詳。
・吾妻鏡の1207年3月の闘鶏会参加の記事を最後に史料から姿を消している。

足立遠元の系図
・足立氏は、武蔵国足立郡を本拠とした在地豪族。
・足立遠元の父・藤原遠兼が武蔵国足立郡に土着し、遠元から足立を名乗ったとされる。
・「尊卑分脈」によると、安達盛長は、父・藤原遠兼の弟であり、年下の叔父に当たるとされている。


 
posted by トシ999 at 16:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・旧跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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