2022年10月26日

鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(八田知家)

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来月の鎌倉検定に向けて、今年のトピックスとして「鎌倉殿の13人」をテーマに取り上げていきます。

今回は、「八田知家」です。
 ※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。

八田知家:(1142年?〜1218年?)
八田知家_R.jpg・下野国を本拠とした「宇都宮氏」の出身。源頼朝が伊豆で挙兵後、頼朝の配下となりました。
・源平合戦、奥州合戦で活躍し、源頼朝との篤い信頼関係を構築。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・源頼家の命で、源頼朝の異母弟の阿野全成を謀殺しました。
・没年は不詳。

八田知家の年表
1142年?・下野国を本拠とした「宇都宮氏」2代当主「宇都宮宗綱」:別称[八田宗綱]の四男として誕生という史料がある。
・「尊卑分脈」では、「源義朝」の実子とする伝承を載せている。
・姉妹に源頼朝の乳母のひとりである「寒河尼」がいる。
1180年・源頼朝が伊豆で挙兵し、頼朝の配下となり、各地の合戦で活躍した。
1185年・源範頼の軍勢に付き従い、「壇ノ浦の戦い」で活躍した。
1193年・同じ常陸国の武士の多気義幹(たけよしもと)が謀反を起こそうとしていると鎌倉幕府に報告した。
・多気義幹の所領であった常陸国は没収され、八田知家は、自身の本拠を下野国から常陸国へ移動した。
1199年・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。
1203年・謀反の疑いで宇都宮氏に預けられていた源頼朝の異母弟・阿野全成を、頼家の命で下野国で誅殺した。
1218年?・源義朝の時から源氏に仕えたが、没年は不詳。1218年死去という史料もある。
・墓は、茨城県笠間市の「宍戸清則家」の墓地内に、五輪塔が建てられたと伝えられている。

八田知家の系図
・父は、下野国を本拠とした「宇都宮氏」2代当主「宇都宮宗綱」(うつのみやむねつな:別称[八田宗綱])。
・姉妹に源頼朝の乳母のひとりである寒河尼がいる。

 
posted by トシ999 at 17:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・旧跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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