
今回は、「大江広元」です。
※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。
◎大江広元:(1148年〜1225年)

・鎌倉に下向し源頼朝の側近となり、公文所、政所別当として活躍。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・承久の乱では、主戦論を御家人達に説き、勝利に大きく貢献。
・鎌倉幕府草創期に大きく貢献し、その発展の基礎を築き死去。
<大江広元の年表>
1148年 | ・京都で誕生。大江家から中原広季のもとで育てられ、中原姓を名乗った。 | 1184年 | ・源頼朝の伊豆で挙兵後、兄・中原親能の仲介により、源頼朝から招かれて鎌倉へと下向。公文所、別当に就任した。 | 1185年 | ・公文所が「政所」に改称され、政所別当となる。 ・源義経が鎌倉入りを許されないため、腰越から大江広元に対し、兄頼朝へのとりなしを依頼する書状(腰越状)が送られた。 | 1199年 | ・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。 ・和田義盛に強く迫られて、源頼家に梶原景時糾弾の訴状を提出した。 | 1213年 | ・「和田合戦」では、和田義盛の軍勢により大江広元邸が襲撃された。 ・北条義時を陰ながら支えることで、その覇権維持に協力する姿勢を貫いた。 | 1221年 | ・「承久の乱」では、北条政子と共に主戦論を唱え、幕府軍の勝利に大きく貢献した。 | 1225年 | ・死去。 ・墓は、「西御門の源頼朝墓の東の山上(江戸時代建立)」と「十二所の明王院裏山(鎌倉時代建立)」の2カ所にある。 |
<大江広元の系図>
・「大江家」は、もともと平安時代から続く学問の家柄。 ・一説には、大江広元は「大江維光」の子として京都で誕生。その後、「中原広季」のもとで育てられた。源頼朝の側近、中原親能の弟にあたる。 ・大江広元の四男「大江季光」は名字を「毛利」と改め、安芸国の戦国大名として活躍した「毛利家」を興した。 |
◎「大江広元」の2つの墓
<西御門の三つあるやぐらの中央の五輪塔>
<十二所の明王院裏山にある層塔>
◎大江広元の屋敷跡
・源頼朝は、大江広元に「相模の国の毛利の荘」を与えました。
・そのため、広元の子孫は「毛利氏」を名乗っています。
<「大江広元邸址」石碑>
広元は頼朝に招かれて鎌倉に来てからは、幕府を創るのに当っての功績は大きかった。そして「相模の国の毛利の荘」をもらって、毛利を名乗った。
しかし皮肉にも、この鎌倉幕府を創った功績者の子孫は、700年後の明治維新の時、天皇制の復活運動に活躍している。
この場所がその毛利の先祖の邸宅の跡である。