
今回は、「三善康信」です。
※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。
◎三善康信:(1140年〜1221年)

・伊豆国へ配流されていた源頼朝のもとに、定期的に京都の情勢を伝えていました。
・鎌倉に下向し源頼朝の側近となり、初代問注所執事として活躍。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・問注所執事を辞任後、病気で死去。
<三善康信の年表>
1140年 | ・朝廷に仕えていた下級貴族の家柄で、三善康光または三善康久の子として生まれた。 ・母親が、源頼朝を育てた乳母の妹だった。 | 1180年 | ・以前より、伊豆国へ配流されていた源頼朝のもとに、月に3回京都の情勢を伝えていた。 ・以仁王が平家打倒の令旨を発した裏で、平清盛が源氏を討つように命じていたことを知り、源頼朝に奥州へ逃げるよう伝えた。 | 1184年 | ・源頼朝から鎌倉への下向を命じられた。 ・訴訟を裁許(判決)する「問注所」の初代執事として、裁判制度の整備を推し進めた。 | 1199年 | ・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。 | 1221年 | ・「承久の乱」では、病床に伏せていたが、その病を押して軍事会議に参加し、大江広元の即時出兵論を支持した。 ・その後、問注所執事を辞任し、病気で死去。 |
<三善康信の系図>
・父:三善康光または三善康久 ・母:源頼朝の乳母の妹 ・嫡男「三善康俊」は、問注所執事の役職を相続した。 ・それ以降も問注所執事の役職は、室町時代を通じて、三善家の子孫達が世襲していった。 |
◎御成小学校近くの角に建つ「問注所旧蹟」の石碑(御成町)
元暦元年、源頼朝は、大蔵幕府の建物の東西の庇の所を訴訟の受付、裁断する所とする。これを問注所といった。
問注所には人々が群れ集まって、時には喧騒になることもあった。そこで、二代将軍頼家は、正冶元年、問注所を大蔵幕府の外に遷した。
この地が、即ちその問注所があった所である。