
今回は、「中原親能」です。
※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。
◎中原親能:(1143年〜1209年)

・伊豆国へ配流されていた源頼朝と何らかの形で親交がありました。
・鎌倉に下向し源頼朝の側近となり、公文所の寄人に選ばれました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・朝廷と幕府間の折衝役として活躍したが、京都滞在中に死去。
<中原親能の年表>
1143年 | ・藤原光能の実子又は中原広季の実子(又は養子)。 ・幼少の頃は相模国で育てられたが、成人して京都に戻った。 | 1180年 | ・伊豆国へ配流されていた源頼朝と何らかの形で親交があった。 ・源頼朝の代理として京都に赴き、朝廷と幕府における折衝役であった。 | 1184年 | ・源頼朝から鎌倉への下向を命じられ、新設された公文所の寄人に選ばれた。 | 1185年 | ・源平合戦の主要な戦いに従軍し、「壇ノ浦の戦い」では平家軍を追い詰めて滅亡させる活躍をした。 ・鎌倉幕府の行政面と軍事面、その両方を補佐することで活躍した。 | 1199年 | ・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。 | 1209年 | ・朝廷と幕府間の折衝役として活躍していたが、京都滞在中に67歳で死去。 |
<中原親能の系図>
・父:藤原光能又は中原広季。 ・妻:源頼朝の次女三幡(乙姫)の乳母であった。 ・弟:大江広元(中原広季の養子)。 |
◎中原親能の鎌倉の屋敷があったとされる亀ヶ谷
<扇ガ谷(亀ヶ谷)には、源頼朝の長女大姫の墳墓堂といわれる「岩船地蔵堂」が建つ>
・三幡の死後、中原親能は出家し、屋敷があった亀谷堂の傍らに葬ったという。