
今回は、「十六夜日記」についてです。
[6]次の文の〔 @ 〕,〔 A 〕に最も適当な語句を書きなさい。 ただし,〔 @ 〕,〔 A 〕両方できて正解とする。 (56) 〔 @ 〕は漢字,〔 A 〕は4 字で書きなさい。 息子冷泉為相とその兄の領地相続争いについて,幕府に息子の正当性を訴えるため,『十六夜日記』の作者で知られる〔 @ 〕が鎌倉に下向し,〔 A 〕に滞在したといわれている。 |
・「十六夜日記」の作者は、藤原為家(定家の子)の側室で、冷泉為相の母です。
※十六夜日記は、「ふりかえり鎌倉―鎌倉の日記文学(鎌倉検定:芸術・文化編(8))」を参照。
正解は、「@阿仏尼、 A月影ヶ谷」です。 |
◎阿仏尼(1222?〜1283年)
・鎌倉時代中期の女流歌人。「十六夜日記」の作者。
・藤原為家(定家の子)の側室で、冷泉為相の母。
・為家の死後、領地相続をめぐって、息子為相の正当性を訴えるために鎌倉に下向。
・月影ヶ谷(現在の江ノ電「極楽寺駅」周辺)に、4年間住んだといわれています。
・最期は、帰京し没したという説もあります。
<阿仏尼邸跡>
<「阿佛邸舊蹟」の石碑>
為相の異母兄為氏が、為相に属すべき和歌所の所領播磨細川庄を奪ったので、この事を執権時宗に訴え、その裁決を願い出るために、建治三年(1277)に京都を出発して東へと下り、住居を月影ヶ谷に定めました。すなわちこの場所です。
その時の日記を十六夜日記と言って世に知られています。
裁判は長引き、決着が着かず、弘安四年(1281)、遂にここで亡くなりました。
<「十六夜日記」と訴訟の行方>
・「十六夜日記」は1283年ころ成立。 ・夫の藤原為家の死後、実子為相の義理の兄為氏が、播磨国にある為相の領地を奪い、所領相続問題が発生しました。 ・1277年、阿仏尼は、鎌倉幕府北条時宗に、相続の正当性を訴えるため、京から鎌倉に下りました。 ・「十六夜日記」はその旅の日記であり、鎌倉滞在記です。 ・なお、裁判は長引き、阿仏尼が生きている間には決着が着きませんでしたが、訴訟は為相に引継がれました。 ・訴訟は、阿仏尼が鎌倉に下向してから34年後の1313年に、為相側の勝訴で決着しました。 ・藤原為家の死後、三家(二条家(為氏)・京極家(為教)・冷泉家(為相))に分裂しましたが、後に二条家と京極家は断絶していまい、冷泉家だけが残りました。 |
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