2023年08月17日

2022年鎌倉検定1級の問題から見る鎌倉(56)―十六夜日記

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2022年11月に3年ぶりに行われた鎌倉検定の1級の問題から、鎌倉を振り返ってみましょう。

今回は、「十六夜日記」についてです。
[6]次の文の〔 @ 〕,〔 A 〕に最も適当な語句を書きなさい。
ただし,〔 @ 〕,〔 A 〕両方できて正解とする。
  (56) 〔 @ 〕は漢字,〔 A 〕は4 字で書きなさい。
   息子冷泉為相とその兄の領地相続争いについて,幕府に息子の正当性を訴えるため,『十六夜日記』の作者で知られる〔 @ 〕が鎌倉に下向し,〔 A 〕に滞在したといわれている。

 ・「十六夜日記」の作者は、藤原為家(定家の子)の側室で、冷泉為相の母です。
  ※十六夜日記は、「ふりかえり鎌倉―鎌倉の日記文学(鎌倉検定:芸術・文化編(8))」を参照。

正解は、「@阿仏尼、 A月影ヶ谷」です。

阿仏尼(1222?〜1283年)
 ・鎌倉時代中期の女流歌人。「十六夜日記」の作者。
 ・藤原為家(定家の子)の側室で、冷泉為相の母。
 ・為家の死後、領地相続をめぐって、息子為相の正当性を訴えるために鎌倉に下向。
 ・月影ヶ谷(現在の江ノ電「極楽寺駅」周辺)に、4年間住んだといわれています。
 ・最期は、帰京し没したという説もあります。

阿仏尼邸跡
 阿仏尼邸跡_R.JPG

 阿仏尼邸跡石碑_R.JPG

「阿佛邸舊蹟」の石碑
阿仏尼邸旧蹟石碑_R.JPG阿仏尼は、藤原定家の子・為家の妻であって、和歌の師範家である冷泉家の祖である為相の母です。

為相の異母兄為氏が、為相に属すべき和歌所の所領播磨細川庄を奪ったので、この事を執権時宗に訴え、その裁決を願い出るために、建治三年(1277)に京都を出発して東へと下り、住居を月影ヶ谷に定めました。すなわちこの場所です。
その時の日記を十六夜日記と言って世に知られています。
裁判は長引き、決着が着かず、弘安四年(1281)、遂にここで亡くなりました。

「十六夜日記」と訴訟の行方
・「十六夜日記」は1283年ころ成立。
・夫の藤原為家の死後、実子為相の義理の兄為氏が、播磨国にある為相の領地を奪い、所領相続問題が発生しました。
・1277年、阿仏尼は、鎌倉幕府北条時宗に、相続の正当性を訴えるため、京から鎌倉に下りました。
・「十六夜日記」はその旅の日記であり、鎌倉滞在記です。

・なお、裁判は長引き、阿仏尼が生きている間には決着が着きませんでしたが、訴訟は為相に引継がれました。
・訴訟は、阿仏尼が鎌倉に下向してから34年後の1313年に、為相側の勝訴で決着しました。
・藤原為家の死後、三家(二条家(為氏)・京極家(為教)・冷泉家(為相))に分裂しましたが、後に二条家と京極家は断絶していまい、冷泉家だけが残りました。


 
posted by トシ999 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定(過去問) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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