ナショナルトラスト運動のさきがけとなった鎌倉の風致保存活動において,中心的に奔走した人物はだれか。 1 堀辰雄 2 大佛次郎 3 立原正秋 4 高見順 |
正解は、<2 大佛次郎>です。
・1964年(昭和39)、鶴岡八幡宮の後背部の緑地開発をめぐって、開発側と反対派の攻防が繰り広げられ、「御谷騒動(おやつそうどう)」と呼ばれました。
・鶴岡八幡宮の裏山はかつて八幡宮寺の御坊があったところで、この御谷を宅地開発する企てが持ち上がりました。これに対して、「大佛次郎」ら著名人をはじめ多くの市民が、開発反対、旧跡、緑地保全運動に加わりました。
・同年発足した「鎌倉風致保存会」は、「御谷騒動」の舞台となった緑地を買い取り、これによって緑が守られ、これが日本で初めての「ナショナルトラスト運動」となりました。
・「御谷騒動」は、1966年(昭和41)の「古都保存法」制定のきっかけとなりました。
<御谷の場所>

<「二十五坊旧蹟」の石碑>
その左角に石碑は立っています。
石碑の左を入っていくと、二十五坊跡があります。
鶴岡八幡宮の西北、小袋坂の曲がり角辺りの一帯は、幕末まで鶴岡八幡宮の社役を務める供僧達の僧坊(供僧坊)がありました。
1191年に、供僧二十五口の制が定められたので、その地域一帯には、「二十五坊跡」と呼ばれる国の史跡が残っています。
◎大佛次郎(1897年(明治30)〜1973年(昭和48))
本名・野尻清彦。小説家。
小説『鞍馬天狗』で知られ、1921年(大正10)、長谷の大仏裏に移り住みました。
ペンネームの“大佛”(おさらぎ)はそこから付いたものです。
1929年(昭和4)から没年まで雪ノ下に居住しました。友人を招いたり、執筆の合間に休息をとっていたといわれる邸宅、「野尻邸(旧大佛次郎茶亭)」が、「景観重要建築物等」に指定されて残っています。
<野尻邸(旧大佛次郎茶亭)>
1936年(昭和11)、久米正雄の呼びかけによって結成された「鎌倉ペンクラブ」のメンバーとなり、彼らは「鎌倉文士」と呼ばれるようになりました。
→「鎌倉文士」については、「鎌倉検定2014年2級の問題から見た鎌倉(27)」を参照。
その他、鎌倉での活躍は幅広く、現在の草野球の草分けともいえる野球チーム「鎌倉老童軍」の発案者であり、また1934年(昭和9)に始まった鎌倉の夏の風物詩「鎌倉カーニバル」の発案者でもあります。
お墓は、壽福寺にあり、静かに鎌倉を見守っています。
<大佛次郎の墓>
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