2015年10月04日

鎌倉幕府3代執権、北条泰時の活躍

鎌倉検定の過去の問題に、次のようなものがあります。
北条泰時は幕府を大倉から〔 1 〕に移し,有力御家人の合議で重要政策を決定するために評定衆11 名を任命し,武家による最初の法令集〔 2 〕を定め,執権政治を確立した。 

正解は、<1 宇津宮辻子2 御成敗式目>です。

また,〔 3 〕に和賀江嶋を築港し,金沢街道に〔 4 〕を開き,通商路の整備を行うなど,鎌倉が経済的に繁栄するもととなる多くの功績を残した。 

正解は、<3 材木座4 朝夷奈切通>です。

泰時の墓は〔 5 〕にある。

正解は、<5 常楽寺>です。

北条泰時(1183年〜1242年):鎌倉幕府3代執権。
宇津宮辻子幕府跡:現在、宇都宮稲荷が祀られています>
 1225年、将軍御所を「大倉」から「宇津宮辻子」に移しました。「宇津宮辻子」は、若宮大路の東側に南北に通る小路とみなされています。
 宇津宮辻子幕府跡.JPG1224年に2代執権北条義時が亡くなり、1225年には頼朝の側近、大江広元が、また北条政子も亡くなり、泰時はこの続く不幸を断ち切ることが必要でした。

泰時は、大倉からこの地に幕府を移し、4代将軍藤原頼経を擁して、1225年〜1236年までの約11年間、執権として政務にあたりました。

<「御成敗式目」制定:1232年、武家による最初の法令集を定めました>
 源頼朝以来の先例や武家社会の慣習を基とした日本最初の武家成文法で、別名「貞永式目」とも言います。

和賀江嶋
 1232年、「材木座」に和賀江嶋を築港しました。
 和賀は、もともと材木座の古名ともいわれ、材木座の東南の端に位置します。
 和賀江嶋.JPG材木座は遠浅の海なので、大型船も安全に出入りできるよう港湾整備の必要がありました。

1232年、往阿弥陀仏という勧進僧が、船着場としての築島を幕府に申請し、北条泰時はこれを受け入れ、相模川や酒匂川などから運んだ石が積み上げられて約1ヵ月ほどで完成したといわれています。

朝夷奈切通
 1241年、金沢街道に「朝夷奈切通」を開きました。
 朝夷奈切通.JPG鎌倉と横浜の金沢を結ぶ切通。
六浦口とも呼ばれ、鎌倉の東側の守備と考えられ、鎌倉七口のなかで当時の姿を最も今に伝えています。

幕府は鎌倉と六浦の間に道を開くことを決め、北条泰時が指揮を執り、率先して工事にあたったことが『吾妻鏡』に記されています。

北条泰時の墓
 北条泰時の墓.JPG常楽寺」は、1237年、北条泰時が妻の母の供養のため粟船御堂を建て、退行行勇が供養の導師を務めたのが始まりとされています。

泰時の墓もここにあります。
(仏殿の裏に三体ある墓のうち、右側の墓)

posted by トシ999 at 15:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定(過去問) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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