鎌倉検定公式テキストブックには、次のように紹介されています。
鎌倉への出入り口は「鎌倉七口」と呼ばれて七つあり、出入り口として整備された。 室町時代中期の記録に見える「京都七口」を模した鎌倉名数の一つとされ、鎌倉七切通ともいう。 三方を山で囲まれた要害の地だった鎌倉は、外の地域との行き来には、険しい峠を越えなければならなかった。 「切通」とは文字通り、山や丘陵を切り開いて通した道のこと。 交通の要路であると同時に、外敵の侵攻から鎌倉を守るための防御拠点ともなった。 |
<鎌倉七口とは、次の七つです>

@名越(なごえ)切通
A朝夷奈(あさいな)切通
B巨福呂坂(こぶくろざか)
C亀ヶ谷坂(かめがやつざか)
D仮粧坂(けわいざか)
E大仏(だいぶつ)切通
F極楽寺(ごくらくじ)切通
<各所の拡大図と説明>
@名越切通

現在の名越トンネルの上を通っている。
道が険しく難路であったために「難越(なごし)」から「なごえ」という名が付いたといわれる。
「大切岸」「平場」など、複雑な防護の跡が残されている。
お猿畠とも呼ばれる日蓮ゆかりの法性寺(ほっしょうじ)のある山腹には、段状に岩が削り取られた300メートルにわたる大切岸がある。
A朝夷奈切通

1240年、幕府は鎌倉と六浦の間に道を開くことを決めた。
3代執権北条泰時が指揮を執り、率先して工事にあたったことが『吾妻鏡』に記されているが、鎌倉幕府の侍所の初代別当(長官)となった和田義盛の三男で豪傑だった、朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたとの伝承が存在し、朝比奈峠の名の起こりとなっている。
B巨福呂坂
旧道は北条泰時が造ったといわれ、鶴岡八幡宮脇から西側の尾根を越えて圓應寺の前から建長寺へ出る道だった。
現在は途中で寸断されている。
C亀ヶ谷坂
その名の由来には、亀もひっくり返るほどの急勾配の坂だったから、などの説が伝えられる。
現在でも生活道路として使用されている。
D仮粧坂

“平家の大将の首をこの坂で化粧して首実検したから”、“辺りに娼家があって化粧した女性たちがいたから”、“辺りの樹木が勢いよく生え繁っていたので、木生(きは)え、気勢(きはえ)といわれていたから”など。
『吾妻鏡』の建長三年(1251)12月3日条に「気和飛(けわひ)坂」という記載がある。
藤沢を経て武蔵方面に通じる、戦略上きわめて重要な拠点だったことは、1333年、新田義貞が鎌倉攻めの際に、この仮粧坂に軍の主力を向け、激戦地となったことからも推測される。
E大仏切通

険しい山道で、江戸時代から明治時代にかけて何度か整備されてきた。
F極楽寺切通

極楽寺の開山忍性によって切り開かれたと伝えられる。
当時の道は、坂の途中にある成就院の山門前の少し下方を通っていたようで、今よりもはるかに急傾斜の狭い峠道であった。
新田義貞の鎌倉攻めの時、この近くの霊山で激戦が行われた。