2016年08月19日

鎌倉の道、鎌倉七口についてのまとめ

 鎌倉市に関する知識の中で、鎌倉検定対策として「鎌倉七口(ななくち)」は大切です。
 鎌倉検定公式テキストブックには、次のように紹介されています。
 鎌倉への出入り口は「鎌倉七口」と呼ばれて七つあり、出入り口として整備された。
 室町時代中期の記録に見える「京都七口」を模した鎌倉名数の一つとされ、鎌倉七切通ともいう。

 三方を山で囲まれた要害の地だった鎌倉は、外の地域との行き来には、険しい峠を越えなければならなかった。
 「切通」とは文字通り、山や丘陵を切り開いて通した道のこと。
交通の要路であると同時に、外敵の侵攻から鎌倉を守るための防御拠点ともなった。

<鎌倉七口とは、次の七つです>
鎌倉七口地図.jpg
@名越(なごえ)切通
A朝夷奈(あさいな)切通
B巨福呂坂(こぶくろざか)
C亀ヶ谷坂(かめがやつざか)
D仮粧坂(けわいざか)
E大仏(だいぶつ)切通
F極楽寺(ごくらくじ)切通
 
<各所の拡大図と説明>
@名越切通 
名越切通地図.jpg名越切通は、鎌倉から三浦方面に通じる要路。
現在の名越トンネルの上を通っている。

道が険しく難路であったために「難越(なごし)」から「なごえ」という名が付いたといわれる。

「大切岸」「平場」など、複雑な防護の跡が残されている。

お猿畠とも呼ばれる日蓮ゆかりの法性寺(ほっしょうじ)のある山腹には、段状に岩が削り取られた300メートルにわたる大切岸がある。

A朝夷奈切通 
朝夷奈切通地図.jpg鎌倉と金沢(横浜市)を結ぶ切通。六浦口とも呼ばれ、鎌倉の東側の守備と考えられ、七口のなかで当時の姿を最も今に伝えている。

1240年、幕府は鎌倉と六浦の間に道を開くことを決めた。
3代執権北条泰時が指揮を執り、率先して工事にあたったことが『吾妻鏡』に記されているが、鎌倉幕府の侍所の初代別当(長官)となった和田義盛の三男で豪傑だった、朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたとの伝承が存在し、朝比奈峠の名の起こりとなっている。

B巨福呂坂 
巨福呂坂地図.JPG鶴岡八幡宮の裏手から北鎌倉へ抜ける現在の小袋坂(こぶくろざか)は、明治になって開かれた。

旧道は北条泰時が造ったといわれ、鶴岡八幡宮脇から西側の尾根を越えて圓應寺の前から建長寺へ出る道だった。

現在は途中で寸断されている。

C亀ヶ谷坂 
亀ヶ谷坂地図.JPG扇ヶ谷と山ノ内地区を結ぶ道で、岩船地蔵堂から北へ登る坂が亀ヶ谷坂で、ここを越えると長壽寺の脇で巨福呂坂に出る。

その名の由来には、亀もひっくり返るほどの急勾配の坂だったから、などの説が伝えられる。

現在でも生活道路として使用されている。

D仮粧坂 
仮粧坂地図.jpgその名の由来にはいくつも説がある。
“平家の大将の首をこの坂で化粧して首実検したから”、“辺りに娼家があって化粧した女性たちがいたから”、“辺りの樹木が勢いよく生え繁っていたので、木生(きは)え、気勢(きはえ)といわれていたから”など。

『吾妻鏡』の建長三年(1251)12月3日条に「気和飛(けわひ)坂」という記載がある。
藤沢を経て武蔵方面に通じる、戦略上きわめて重要な拠点だったことは、1333年、新田義貞が鎌倉攻めの際に、この仮粧坂に軍の主力を向け、激戦地となったことからも推測される。

E大仏切通 
大仏切通地図.jpg現在の大仏坂トンネルの上を通り常盤のバス停「火の見下」辺りまでで、梶原、山崎を経て藤沢方面につながる道だった。

険しい山道で、江戸時代から明治時代にかけて何度か整備されてきた。

F極楽寺切通
極楽寺切通地図.jpg坂ノ下から極楽寺の門前まで続く坂道で、七里ヶ浜、腰越、片瀬を経て東海道へと通じる鎌倉・京都往還の出発点であった。

極楽寺の開山忍性によって切り開かれたと伝えられる。

当時の道は、坂の途中にある成就院の山門前の少し下方を通っていたようで、今よりもはるかに急傾斜の狭い峠道であった。
新田義貞の鎌倉攻めの時、この近くの霊山で激戦が行われた。

 
posted by トシ999 at 14:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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