2017年10月21日

鎌倉検定−後北条氏の盛衰(1590年7月16日)を読む(9)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、最終回で、「豊臣秀吉の鎌倉入り」です。
(30)天正18年(1590)7月16日
 豊臣秀吉、小田原城を攻めて北条氏を滅ぼし、鎌倉に入る。
 天正18年2月、秀吉は徳川家康を先鋒として北条氏討伐の兵を発し、4月、小田原城を囲んだ。
 4月28日、玉縄城では、5代城主氏勝が籠城を決意するが、家康の説得に応じ開城した。
 7月5日、氏直が投降し、11日氏政・氏照が自害。
 13日、秀吉が小田原城に入城するに至り、北条氏は滅んだ。
 16日、秀吉は小田原城から奥州に向かう途中鎌倉に立ち寄り、鶴岡八幡宮に詣でて修理を命じた。

豊臣秀吉(1536〜1598年)
 秀吉は、鎌倉入りを果たすと、早速、「鶴岡八幡宮」の修理を命じ、指図(設計図)を作成させました。
 その造営にあったのは、徳川家康でした。
 鶴岡八幡宮・舞殿.JPG

鶴岡八幡宮の再建の歴史
 鶴岡八幡宮は、1063年、源頼義が源氏の守り神として、京都の石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請したことに始まります(由比若宮=元八幡)。

鶴岡八幡宮は、源氏のみならず、足利氏、豊臣氏、徳川氏からも篤く崇敬されました
 ・1180年に鎌倉入りした「源頼朝」が、現在の地に遷座して鶴岡若宮と称しました。
 ・「源頼朝」は、1191年、焼失した若宮(下宮)再建時に本宮(上宮)を創建し、現在のような上下両宮の姿としました。1193年には下拝殿(舞殿)が新造されました。
 ・現在の若宮は、1624年、徳川幕府2代将軍「徳川秀忠」によって再建造営されました。
 ・なお、本宮は1828年、11代将軍「徳川家斉」によって再建造営されました。


小田原北条氏・玉縄北条氏の系図
 小田原北条氏・玉縄北条氏系図.jpg

玉縄北条氏供養塔(龍寳寺)
 玉縄北条氏供養塔.JPG



 ※今回で、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)の全編が終了しました。

 「源頼朝が鎌倉入りを果たした治承4年(1180)10月」から「豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし鎌倉入りを果たす天正18年(1590)7月」まで、いろいろな出来事を見てきました。


 次回からは、鎌倉検定を11月に控え、過去の問題をピックアップして、今の鎌倉を見てみましょう。

 
posted by トシ999 at 15:02| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月20日

鎌倉検定−後北条氏の盛衰(1578年10月10日)を読む(8)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「上杉謙信の死去」です。
(29)天正6年(1578)10月10日
 上杉景虎(北条氏政の弟)、鶴岡八幡宮に戦勝・武運長久を祈願する。
 景虎は、北条氏康の子で氏政の弟氏秀であるが、初めは武田晴信(信玄)の養子となり、のちに上杉輝虎(謙信)の養子となって名を景虎と改めていた。
 天正6年3月、謙信が亡くなると養子の景勝と景虎がその跡目をめぐって争いになった。
 景虎は、翌7年3月景勝に攻められ御館城に籠って応戦し敗れて(御館の乱)、鮫ヶ尾城に逃れたが敗死した。

上杉謙信(長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→法号:謙信)
 1578年3月、上杉謙信が死去すると、跡目争い(御館の乱)が起きました。

御館の乱
 「上杉謙信」が死去すると、上田長尾氏から養子に入った「景勝」と、小田原北条氏から養子に入った「景虎」の間で相続をめぐって内紛が勃発しました。

御館城(新潟県上越市)
 1552年、「上杉謙信」が、北条氏康に攻められた関東管領上杉憲政を迎えたときに築いたとされる居館。(春日山城の城下に設けられました。)
 ※上杉謙信」は、春日山城で生まれ、生涯ここを本拠としました。

これまでの戦国時代の関東地方の出来事
 「応仁の乱(1467年)」に先駆けて、「享徳の乱(1454年)」で、関東は大動乱の時代に入りました。
  ※「享徳の乱」については、「鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1454年12月27日)を読む(13)」を参照。

・1455年、足利成氏が古河公方となり、鎌倉は上杉氏の支配へ。
・1458年、将軍足利義政の異母兄の足利政知が、鎌倉に入れず堀越公方となる。
・1486年、扇谷上杉定正の執事太田道灌が、主君定正に謀殺される。
・1512年、伊勢長氏(北条早雲)が、鎌倉に玉縄城を築城する。
・1520年、北条氏綱が、鎌倉検地を行う。
・1526年、安房の里見実尭が鎌倉を攻め、北条氏綱の兵と戦う。
・1547年、北条氏康が、鎌倉検地を行う。
・1556年、安房の里見義弘が鎌倉を攻め、太平寺住職の青岳尼を安房に連れ去ったため、寺は廃寺となる。
・1561年、長尾景虎(上杉謙信)が、鶴岡八幡宮で上杉氏を名乗る拝賀式を行う。 

<1560年ごろの関東地方勢力図イメージ>
 関東勢力イメージ1560年.jpg

 
posted by トシ999 at 12:24| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月19日

鎌倉検定−後北条氏の盛衰(1561年3月)を読む(7)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「長尾景虎(上杉謙信)の登場」です。
(17)永禄4年(1561)3月
 長尾景虎(上杉謙信)、関東管領山内上杉憲政から管領職と上杉の名跡を継ぎ、鶴岡八幡宮で拝賀の式を行う。
 天文21年(1552)正月、憲政は古河公方足利晴氏を奉じて北条氏康と戦闘状態にあったが、敗れて越後の守護代長尾景虎を頼った。
 永禄3年8月、景虎は憲政を奉じて上野に出陣し、翌4年3月上野から相模に入って、小田原城に迫ったが攻めきれず、軍勢を還して鎌倉に入っていた。
 景虎は、上杉姓を名乗ることで憲政から一字をもらい政虎と改名した。

上杉謙信(1530〜1578年)
 1530年、越後の守護代を務める上杉氏家臣長尾為景の末男として誕生した戦国武将。
 1552年、北条氏康に敗れた関東管領上杉憲政が長尾景虎を頼って越後に逃れた為、御館を建築しました。
 1560年、織田信長による桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、関東に侵攻し、1561年、鎌倉を占拠し、小田原城を攻めました。

名前の変遷
  長尾景虎―→上杉政虎―→上杉輝虎―→法号:謙信(1570年)  

 上杉謙信は、「越後の龍」や「軍神」とも呼ばれ、自身は毘沙門天を信仰し、本陣の旗印にも毘沙門天の「毘」の字を用いていました。

鶴岡八幡宮での拝賀式
 ・1561年、長尾景虎は、「鶴岡八幡宮」で関東管領就任の拝賀の式を行いました。
 ・武士政権の象徴である鶴岡八幡宮神前での礼拝式にこだわったのでした。
 鶴岡八幡宮本宮.JPG

光円山久成寺(植木)
 1520年創建。日蓮宗。
 小田原北条氏の家臣で玉縄城の武将梅田尾張守秀長が屋敷を寄進して、日舜(にっしゅん)上人を開山として建立。
 久成寺参道.JPG
 ・「徳川家康」が小田原に出陣した時、久成寺に立ち寄り祈祷を頼み、その恩賞に寺領3石を寄進したといいます。
 ・その後、鷹狩りの折、久成寺を訪れ、葵の紋の付いた弁当箱を授けました。(寺宝)

長尾定景一族の墓
 久成寺境内には、長尾景虎(上杉謙信)の祖先にあたるという「長尾定景一族の墓」があります。
 定景は、三代将軍源実朝を暗殺した公暁を討ったとされる人物です。
 長尾定景の墓.JPG

 
posted by トシ999 at 14:06| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする