2018年07月18日

鎌倉ゆかりの人物―梶原景時・景季父子のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「鎌倉時代初期の武将、梶原景時・景季父子」です。

梶原景時(?〜1200年)
・平氏方の武将でしたが、1180年、石橋山の戦いで源頼朝を助け、信任を得ました。
・景時は、源平の合戦で息子の「源太景季(かげすえ)」と共に活躍し、平家を滅ぼした後、朝廷の人気者になった源義経を頼朝に訴え出て追放する等、政治の裏で立ち回りました。
・頼朝の死後、結城朝光を讒言して弾劾にあい、失脚。三浦義村、和田義盛ら有力御家人たちに追われ、駿河で打たれました。

梶原景季(1162〜1200年)
・梶原景時の嫡男で、梶原源太景季(かげすえ)ともいいます。
・景季は、父景時とともに相模国を出て上洛を企てたが、途中、駿河国清見関で景時とともに戦い、一族とともに討たれました。

朝夷奈切通の太刀洗川に沿った岩肌から湧き出る「梶原太刀洗水」
 ・梶原景時は、1183年、源頼朝が幕府を開くにあたり大きな功績のあった上総介広常
  頼朝の命令で討ったあと、この水で太刀の血のりを洗い流したといわれています。
 ・「鎌倉五名水」の一つ。
 梶原太刀洗水.JPG

 ※「鎌倉五名水」については、「鎌倉五名水についてのまとめ」を参照。

鎌倉深沢小学校の裏庭にある「梶原景時の墓」
 ・頼朝の死後、御家人の反感を買い、1200年、京都に落ち延びる途中、駿河国で一族
  もろとも滅ぼされました。
 梶原景時の墓.JPG

 ※「鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1199年10月28日)を読む(17)」を参照。

建長寺の7月15日の行事「三門梶原施餓鬼会」
 ・建長寺では、梶原景時の慰霊のために、「三門梶原施餓鬼会」が行われます。

鎌倉笛田にある「仏行寺」の山の頂上にある「源太塚」
 ・梶原源太景季の片腕が埋められていると伝えられています。
 源太塚1.JPG

鎌倉山にある梶原源太景季の妻・信夫の「しのぶ塚」
 ・しのぶは、源太の死に嘆き悲しみ自害したということで、「源太塚」と向き合って
  建っています。
 しのぶ塚.JPG

 
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2018年07月10日

鎌倉ゆかりの人物―覚山尼・用堂尼・天秀尼のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「東慶寺歴代の住持「覚山尼・用堂尼・天秀尼」」です。

松岡山東慶寺(山ノ内)
 ・臨済宗。1285年、北条時宗夫人の覚山尼が創建。
  「縁切り寺」「駆け込み寺」の名で広く知られ、かつては尼寺として栄え、1871年
  (明治4)に「縁切寺法」が廃止されるまでの約600年間、多くの女性を救いました。
  ※縁切寺法:3年の修行で離縁を実現できる。

「山門」と本尊釈迦如来坐像が祀られている「本堂(泰平殿)」
 東慶寺山門.JPG

 東慶寺本堂.JPG
 ※このお寺については、「北鎌倉のお寺を見る(松岡山)」を参照。

歴代の住持
覚山尼(1252〜1306年)
 ・東慶寺開山。安達義景の娘で、安達泰盛の妹。
  生まれた翌年、父義景が死去したため、安達泰盛に養女として育てられ
  ました。
 ・北条時宗の正室。安達一族は、北条氏との結びつきを強めました。
 ・北条時宗とともに禅宗に帰依し、時宗の没後、慰霊のため東慶寺を開山
  しました。

用堂尼(?〜1396年)
 ・東慶寺五世用堂尼は、後醍醐天皇の皇女
  東慶寺は、用堂尼入寺以後、松ヶ岡御所と称され、高い寺格を誇りまし
  た。
 ・寺伝では、用堂尼は護良親王の菩提を弔うために入寺されたということ
  です。

天秀尼(1609〜1645年)
 ・東慶寺二十世天秀尼は、豊臣秀頼の娘で、徳川家康の孫娘千姫の養女
  江戸時代には徳川家の厚い庇護を受けました。 

東慶寺境内奥の右側の階段の上に並んでいる「歴代住持の墓」への石段と墓
 東慶寺歴代住持の墓への石段1.JPG

 東慶寺歴代住持の墓への石段2.JPG

 東慶寺歴代住持の墓.JPG

覚山尼の墓(五輪塔)
 覚山尼の墓.JPG

用堂尼の墓(五輪塔)
 用堂尼の墓.JPG

天秀尼の墓(無縫塔)
 天秀尼の墓.JPG
 
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2018年07月04日

鎌倉ゆかりの人物―大佛次郎のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「鎌倉文士の「大佛次郎」」です。

大佛次郎(1897(明治30)〜1973年(昭和48))
 ・本名・野尻清彦。小説家。小説『鞍馬天狗』で知られ、1921年(大正10)、長谷の
  大仏裏に移り住みました。
  ペンネームの“大佛”(おさらぎ)はそこから付いたものです。
  1929年(昭和4)から没年まで雪ノ下に居住しました。

 ・鎌倉の風致保存に力を注ぎ、鎌倉の旧跡・緑地の保全に力を尽くしました。
 ※「鎌倉文学館HP:大佛次郎」を参照下さい。

大佛次郎の活躍
・1936年(昭和11)、久米正雄の呼びかけによって結成された「鎌倉ペンクラブ」のメンバーとなり、彼らは「鎌倉文士」と呼ばれ、活躍しました。
・映画監督小津安二郎は、大佛次郎、川端康成、里見クら鎌倉文士と交流があり、互いに影響を受けたということです。
・鎌倉での活躍は幅広く、現在の草野球の草分けともいえる野球チーム「鎌倉老童軍」の発案者です。
・久米正雄らと共に、1934年(昭和9)に始まった鎌倉夏の風物詩「鎌倉カーニバル」を発案しました。

 ※「鎌倉カーニバルの壁画」(横山隆一作:鎌倉駅地下連絡通路に掲載)
 ・文化人を中心とした「鎌倉カーニバル」は、「海の銀座」とまでいわれた鎌倉の浜辺
  と同様に、鎌倉の夏の風物詩として全国的に知られるようになりました。
 鎌倉カーニバル.JPG

鎌倉市景観重要建築物等の一つ「野尻邸<旧大佛次郎茶亭>」(雪ノ下)
 ・友人を招いたり、執筆の合間に休息をとっていたといわれる和風平屋建築の邸宅。
野尻邸説明板.JPG

 野尻邸1.JPG

 野尻邸2.JPG

「古都保存法」制定のきっかけとなった「御谷騒動」
・1964年(昭和39)、鶴岡八幡宮の後背部の緑地開発をめぐって、開発側と反対派の攻防が繰り広げられ、「御谷騒動(おやつそうどう)」と呼ばれました。
・鶴岡八幡宮の裏山はかつて八幡宮寺の御坊があったところで、この御谷を宅地開発する企てが持ち上がりました。これに対して、大佛次郎ら著名人をはじめ多くの市民が、開発反対、旧跡、緑地保全運動に加わりました。
・同年発足した「鎌倉風致保存会」は、「御谷騒動」の舞台となった緑地を買い取り、これによって緑が守られ、これが日本で初めての「ナショナルトラスト運動」となりました。
・「御谷騒動」は、1966年(昭和41)の「古都保存法」制定のきっかけとなりました。

鶴岡八幡宮寺の御坊「二十五坊旧蹟の石碑」
二十五坊旧蹟2.JPGこの地は、源頼朝の時代以来、八幡宮の僧侶が住む二十五坊と別当坊があった所です。
あの別当公暁が実朝の首を手にして潜んだという後見人の備中阿闍利の住居もまたこの地にありました。
応永中(1394〜1428年)、院宣により坊の呼び名を院に変えました。
戦国時代に入ってからは、鎌倉管領の衰えと共に各院とも次第に廃絶し、天正の末(1592年)にはわずか7院だけになりました。
文禄中(1592〜1596年)に、徳川家康が5院を再興して12院になりましたが、 明治維新の後はついに全て無くなりました。

「二十五坊跡」と呼ばれる国の史跡が残る「御谷」の場所
 ・鶴岡八幡宮の西北、小袋坂の曲がり角辺りの一帯は、江戸幕末まで鶴岡八幡宮の社役
  を務める供僧達の僧坊(供僧坊)がありました。
 御谷地図.jpg

二十五坊跡説明板.JPG

 二十五坊跡.JPG

円覚寺の塔頭・佛日庵境内に咲く「ハクモクレン」
 ・『阿Q正伝』で知られる中国の作家・魯迅から贈られた株ですが、大佛次郎
  『帰郷』にも描かれています。
 佛日庵ハクモクレン.JPG
『帰郷』のあらすじ
 公金横領の罪で責任をとり、妻子を日本に残して海外に潜伏していた元軍人の守屋恭吾が、スパイ容疑で逮捕される。
 やがて終戦により釈放され、妻子のいる日本に帰国するが、祖国の状況に幻滅し、再び日本を去っていく物語。
 鎌倉円覚寺周辺など日本の風景の描写が作品の中に出て来る。

壽福寺の本堂裏手にある「大佛次郎の墓」
 大佛次郎墓.JPG

 
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