2017年10月19日

鎌倉検定−後北条氏の盛衰(1561年3月)を読む(7)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「長尾景虎(上杉謙信)の登場」です。
(17)永禄4年(1561)3月
 長尾景虎(上杉謙信)、関東管領山内上杉憲政から管領職と上杉の名跡を継ぎ、鶴岡八幡宮で拝賀の式を行う。
 天文21年(1552)正月、憲政は古河公方足利晴氏を奉じて北条氏康と戦闘状態にあったが、敗れて越後の守護代長尾景虎を頼った。
 永禄3年8月、景虎は憲政を奉じて上野に出陣し、翌4年3月上野から相模に入って、小田原城に迫ったが攻めきれず、軍勢を還して鎌倉に入っていた。
 景虎は、上杉姓を名乗ることで憲政から一字をもらい政虎と改名した。

上杉謙信(1530〜1578年)
 1530年、越後の守護代を務める上杉氏家臣長尾為景の末男として誕生した戦国武将。
 1552年、北条氏康に敗れた関東管領上杉憲政が長尾景虎を頼って越後に逃れた為、御館を建築しました。
 1560年、織田信長による桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、関東に侵攻し、1561年、鎌倉を占拠し、小田原城を攻めました。

名前の変遷
  長尾景虎―→上杉政虎―→上杉輝虎―→法号:謙信(1570年)  

 上杉謙信は、「越後の龍」や「軍神」とも呼ばれ、自身は毘沙門天を信仰し、本陣の旗印にも毘沙門天の「毘」の字を用いていました。

鶴岡八幡宮での拝賀式
 ・1561年、長尾景虎は、「鶴岡八幡宮」で関東管領就任の拝賀の式を行いました。
 ・武士政権の象徴である鶴岡八幡宮神前での礼拝式にこだわったのでした。
 鶴岡八幡宮本宮.JPG

光円山久成寺(植木)
 1520年創建。日蓮宗。
 小田原北条氏の家臣で玉縄城の武将梅田尾張守秀長が屋敷を寄進して、日舜(にっしゅん)上人を開山として建立。
 久成寺参道.JPG
 ・「徳川家康」が小田原に出陣した時、久成寺に立ち寄り祈祷を頼み、その恩賞に寺領3石を寄進したといいます。
 ・その後、鷹狩りの折、久成寺を訪れ、葵の紋の付いた弁当箱を授けました。(寺宝)

長尾定景一族の墓
 久成寺境内には、長尾景虎(上杉謙信)の祖先にあたるという「長尾定景一族の墓」があります。
 定景は、三代将軍源実朝を暗殺した公暁を討ったとされる人物です。
 長尾定景の墓.JPG

 
posted by トシ999 at 14:06| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月14日

鎌倉検定−後北条氏の盛衰(1542年4月6日)を読む(6)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「北条氏康の活躍」です。
(23)天文11年(1542)4月6日
 北条氏康、建長寺・円覚寺・東慶寺三か寺の行堂の諸公事を免除する。
 氏康は、氏綱の後継者として父とともに以前より政務に携わっていた。
 氏綱は天文10年7月19日に亡くなるが、病中にあった4月頃にはすでに家督を子の氏康に譲っていた。

北条氏康(1515〜1571年)
 小田原北条氏の第3代当主。北条氏綱の嫡男。
後北条氏(小田原北条氏)の系図(北条氏五代)
  北条早雲――氏綱――氏康――氏政――氏直  

 ・1544年、鶴岡八幡宮の法度を定めました。
  (掃除の場所や回数の規定、修理箇所の報告義務、落書き禁止等)
 ・1547年、相模・武蔵国など領国の経営に力を入れ、各地で検地を実施しました。
 ・1554年、古河公方足利晴氏と子の藤氏が謀叛を起こしたが、古河城を攻め落とし、晴氏・藤氏父子を幽閉しました。そして、晴氏の子で鎌倉の葛西ヶ谷に居た義氏に家督を安堵しました。

「日本三大奇襲」の一つ「河越夜戦」
 ・1546年、関東管領山内上杉家が、古河公方や今川氏と共に8万の大軍で北条氏に進攻。
 ・北条氏康は8千の精鋭を率いて夜襲をかけ、この10倍の敵軍を撃退。
 ・北条氏康は勝利し、上杉朝定の討死、古河公方の北条氏康への降伏等、この戦いによって、関東一帯の支配を確立します。

 ※その他の奇襲の戦い
   @厳島の戦い(1555年):毛利元就 対 陶晴賢で、毛利勢の勝利
   A桶狭間の戦い(1560年):織田信長 対 今川義元で、織田信長の勝利

松岡山東慶寺
 臨済宗。1285年創建。開基は、北条貞時、開山は、北条時宗夫人の覚山尼
 「鎌倉尼五山第二位」の寺として栄え、「縁切り寺」「駆け込み寺」の名で広く知られていました。
 明治4年に「縁切寺法」が廃止されるまでの約600年間、多くの女性を救いました。
本堂(泰平殿)
 東慶寺本堂(泰平殿.JPG
 ※このお寺については、「北鎌倉のお寺を見る(松岡山)」を参照。

鎌倉尼五山第一位は、「太平寺」です
 ・1282年ころ、相模の豪族の娘・妙法尼が釈迦如来像を祀り、8代執権北条時宗の招きにより宋から来日した「大休正念」を導師として仏殿供養を行ったのが始まりということです。
 ・室町時代初期に、足利基氏の未亡人「清渓尼」が中興し、「鎌倉尼五山第一位」となりました。

来迎寺(西御門)の脇に建つ「太平寺跡」の石碑
 太平寺跡石碑.JPG

 ・1556年、小田原北条氏との戦いで武勇を知られた「里見義弘」率いる水軍が、鎌倉に攻め込んだ際、里見義弘は住職の「青岳尼」(足利義明の娘)を安房に連れ去ったため、「太平寺」は住職を失い、北条氏康によって廃寺とされました。
 
 ・「青岳尼」が鎌倉を離れる際、一緒に「聖観音像」を持ち去ったが、のちに鎌倉に返され、現在は「東慶寺」に安置されています。

 ・また、円覚寺の「舎利殿」は、この「太平寺の仏殿」を移築したものといわれています。

 
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2017年10月13日

鎌倉検定−後北条氏の盛衰(1520年2月27日)を読む(5)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「北条氏綱の活躍」です。
P永正17年(1520)2月27日
 北条氏綱(早雲の子)の代官大道寺盛昌、鎌倉本覚寺に宛てて制札を下す。三浦氏滅亡後、早雲は鎌倉を直轄領とした。
 永正15年、早雲の跡を継いだ氏綱の鎌倉の代官として大道寺盛昌がいた。この制札には代官以外の者が、本覚寺に対して諸役を課した場合の規定が記されている。
 盛昌は早雲以来の重臣で、その後も鎌倉代官の職は大道寺家の世襲になっていた。

北条氏綱(1487〜1541年)
 後北条氏2代目。永正 15(1518) 年、父の跡を継ぎ、小田原城主。
 伊豆・相模・武蔵・下総などを制圧し、後北条氏の基礎を確立しました。

 ・関東支配の正当性を示すために、鎌倉時代の執権北条氏の後継者であるとして、「北条」への改名を行って後北条家が誕生しました。
後北条氏(小田原北条氏)の系図
  北条早雲――氏綱――氏康――氏政――氏直  

 ・1526年12月に、安房の「里見実尭」の軍勢が鎌倉に来襲し、鶴岡八幡宮の付近で北条方の軍と戦い、八幡宮以下諸堂社が焼失しました。
  ※曲亭馬琴作の『南総里見八犬伝』のモデルの「里見実尭」とは?
    新田義貞の鎌倉攻めに加わった里見氏の末裔といわれています。
    安房の国に一大勢力を築き、実尭はその第4代当主義豊の後見人とされています。

 ・1532年、北条氏綱は、鎌倉代官大道寺盛昌・笠原信為に鶴岡八幡宮再建を命じました。
 ・1540年、新しい鶴岡八幡宮が完成し、落慶式が行われました。
 ・北条氏康は、1541年7月に没しました。

妙厳山本覚寺
吽形像と阿形像が左右に安置されている仁王門
 本覚寺仁王門.JPG

 吽形像.JPG

 阿形像.JPG
 ※このお寺については、「鎌倉小町のお寺を見る(妙厳山)」を参照。

功臣山報国寺
 ・永正17年(1520)、北条氏綱の鎌倉小代官が、鎌倉報国寺に宛て敷地寄進に関する証文を与えました。
  北条氏の鎌倉への命令は、代官から小代官に伝えられて施行されていました。

報国寺の孟宗竹林の「竹の庭」
 報国寺竹の庭.JPG
 ※このお寺については、「鎌倉浄明寺のお寺を見る(功臣山)」を参照。

 
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