2017年06月16日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1281年閏7月9日)を読む(6)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「弘安の役」です。
H弘安4年(1281)閏7月9日
 幕府は、蒙古襲来に備えて、寺社や公家の荘園の荘官を軍事動員する許可を朝廷に申請した。しかし、この時すでに、閏7月1日、暴風雨のため、元軍は甚大な被害を受け撤退していた。(弘安の役)
 幕府は元軍撤退の報告を聞いても要求を取り下げず、要請を繰り返したため、朝廷は幕府の要求どおり、7月9日にさかのぼって20日付で宣旨を下した。
 蒙古襲来を機に、また、幕府の権限が拡大したことになる。

元寇―1274年「文永の役」、1281年「弘安の役」
 今回は、2度目の元軍の襲来です。
 1回目の襲来の後、北条時宗は、博多湾の沿岸防衛のため、「石築地」建造を九州の御家人に命じていました。
 ※石築地(いしついじ):1276年から博多湾周辺に築造が開始され、高さ3m、東西20kmに及びました。

 ※「文永の役」については、「鎌倉検定−蒙古の襲来(1274年11月1日)を読む(4)」を参照。

無学祖元(1226〜1286年)
 宋の禅僧。2度目の元軍の襲来の前に、北条時宗の招請によって、1279年に来日しました。
 時宗は、弟子の礼をもって無学祖元を迎え、その後、絶えず参禅したということです。

円覚寺の開山忌で、運び出される無学祖元像
 無学祖元像.JPG
 ※「開山忌」:10月3日に、開山無学祖元(仏光国師)に対する法要が営まれます。
  「4年に一度」、閏年に開山像を輿に乗せ、境内を巡堂します。(最近では、2016年。)

元寇のまとめ
 蒙古襲来すなわち「元寇」は、「北条時宗」が執権の時代に2度ありました。
 「文永の役」(1274年)と「弘安の役」(1281年)です。

元寇前後の幕府の状況
・1256年、5代執権北条時頼は、子の時宗がまだ幼少であったため、北条長時に執権を譲り、その後、長時は北条政村に執権を譲りました。

・1268年、7代執権北条政村は、北条時宗に執権を譲り、自らは連署となりました。蒙古襲来に対する危機管理のため、18歳になった時宗と政村を交代する人事刷新を行なったのでした。

北条時宗は、無学祖元の教えにより2回目の元寇も凌いだが、御家人からの恩賞請求などが殺到し、難題が山積みとなって、1284年、病床につくことになりました。

 
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2017年06月12日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1277年10月)を読む(5)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「阿仏尼の鎌倉下向」です。
F建治3年(1277)年10月
 阿仏尼が訴訟のために鎌倉へ下向する。
 阿仏尼は、歌人藤原為家との間に為相をもうけていた。為家の死後、播磨国細川荘の地頭職をめぐり、為相と異母兄二条為氏との間に相続争いがおきる。阿仏尼は幼い為相の代理として、裁判のために鎌倉に下向したのである。
 阿仏尼は月影が谷(極楽寺付近)に滞在して裁判に臨むが、裁判は長期にわたり、阿仏尼の死後、正和2年(1313)に、ようやく為相勝利の決着となる。

阿仏尼(?〜1283年)
 鎌倉時代中期の女流歌人。藤原為家(定家の子)の側室で、冷泉為相の母。
 為家の死後、領地相続をめぐって、息子為相の正当性を訴えるために鎌倉に下向しました。
 その旅の日記であり、鎌倉滞在記であるのが、「十六夜日記」です。

阿仏尼邸旧蹟の石碑
 江ノ電「極楽寺駅」を海側に向かった右手奥の踏切の脇に、石碑が建っています。
 阿仏尼が滞在したといわれる「月影が谷」について、「浦ちかき山もとにて風いとあらし。山寺(極楽寺)のかたはらなれば、のどかにすごくて、浪のあと、松の風たえず」と評しています。
 阿仏尼邸旧蹟2.JPG

「月影地蔵堂」と「月影地蔵」
 稲村ヶ崎小学校から西ヶ谷方面へ向かう山道にあるお堂に、「月影地蔵」が安置されています。
 かつては、極楽寺駅の先の月影ヶ谷にあったということです。
 現在は、江戸時代の木造地蔵菩薩立像ですが、子どもたちの健やかな成長を願う地蔵として、近隣の人々に守り継がれてきました。
 月影地蔵堂.JPG

 月影地蔵.JPG

阿仏尼の供養塔(扇ガ谷)
 鎌倉駅西口から今小路を北進して横須賀線沿いに歩き、英勝寺の少し先に、「阿仏尼の墓」といわれる供養塔があります。
 阿仏尼供養塔.JPG

冷泉為相(1263〜1328年)
 和歌の名門、冷泉家の祖。通称は藤谷(ふじがやつ)中納言。

藤谷黄門遺跡の石碑
 為相の墓といわれる宝篋印塔がある「浄光明寺(扇ガ谷)」の入り口に、石碑が建っています。
 藤谷黄門遺跡.JPG

冷泉為相の墓
 冷泉為相の墓.JPG

 ※浄光明寺については、「鎌倉扇ヶ谷のお寺を見る(泉谷山)」を参照。

藤原為家(1198〜1275年)
 和歌の家の中で、藤原俊成・定家にはじまる家系を御子左家といい、藤原為家は、その直系にあたります。
 御子左家系図.jpg

各史跡の場所
阿仏尼関連旧蹟の地図.jpg

 
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2017年06月11日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1274年11月1日)を読む(4)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「文永の役」です。
C文永11年(1274)11月1日
 幕府は、この日、中国・四国の守護に蒙古軍との戦闘への動員を命じた。
 去る10月20日、元・高麗連合軍は、すでに博多湾に上陸していた。(文永の役)
 幕府は非御家人にも動員を命じたが、上陸した元軍は、集団戦法で幕府軍を翻弄する。夕方、日本側は博多を放棄して撤退するが、夜、元軍もまた突然撤退した。

元寇―1274年「文永の役」、1281年「弘安の役」
 元軍の襲来は2度ありました。
・最初は、「文永の役」です。
・その翌1275年、肥後国御家人竹崎季長が、恩賞を求めて、直訴のため鎌倉に来ました。
・御恩奉行の安達泰盛に面会し、領地拝領の下文を獲得しました。
・竹崎季長の奮戦の模様は、「蒙古襲来絵巻」に描かれています。
 →「蒙古襲来絵詞」を参照。

杜世忠ら5人の元の使節
 1275年、元は使節を派遣し、日本の服従を求めました。
 しかし、杜世忠らは、捕えられた後、大宰府に送られ、その後、鎌倉へと護送され、龍ノ口で斬首されました。
 これにより、再度の元軍襲来は避けられなくなりました。

※「龍ノ口」といえば、日蓮の「龍ノ口法難」の場所です。
  →「鎌倉検定−蒙古の襲来(1271年9月12日)を読む(2)」を参照。

「常立寺」(藤沢)の元使塚
 龍口寺輪番八ヶ寺の一つである「常立寺」には、杜世忠ら元使の供養塔(五輪塔)が建てられています。
 元使塚.JPG

 ※「常立寺」については、「龍口寺輪番八ヶ寺の「常立寺」の梅は 2017.2」を参照。

 
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