2017年04月18日

鎌倉検定−天変地異起こる(1224年12月26日)を読む(3)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

E元仁元年(1224)12月26日
 北条泰時が疫病の流行により、四角四境の鬼気祭を修する。四境とは、東は六浦、南は小壺、西は稲村、北は山内といい、当時の鎌倉の外側の範囲を示している。
 中世の鎌倉では疫病流行にさいして、その消除祈願が由来とみられる祇園御霊会が天王社・祇園社・牛頭天王などで行われていた。

四境とはどこか
 四角四鏡地図.jpg

 ※四角四境祭
  陰陽道(おんようどう)で、疫神の災厄を払うために、家の四隅と国の四方の境で行った祭祀。

北条泰時(1183〜1242年)
 鎌倉幕府3代執権
 1221年、承久の乱で京都に攻め上り、初代六波羅探題北方に就任しました。
 泰時は、4代将軍藤原頼経を擁して、1224年〜1236年までの12年間、執権として政務にあたりました。
北条泰時の系図
 北条泰時系図.jpg
執権政治確立の流れ
・1224年6月13日に2代執権北条義時が亡くなり、6月28日に北条政子は「北条泰時」を新執権に指名しました。
・1225年7月11日に、「尼将軍」北条政子も亡くなりました。
・この後、北条泰時は幕府を大倉から「宇津宮辻子」に移し、有力御家人の合議で重要政策を決定するために評定衆11 名を任命し,武家による最初の法令集「御成敗式目」を定め、執権政治を確立しました。

粟船山常楽寺
 1237年創建の臨済宗のお寺で、開山は蘭渓道隆。
 「北条泰時」が妻の母の供養のため粟船御堂を建て、退耕行勇が供養の導師を務めたのが始まりとされています。
 ※このお寺については、「鎌倉大船のお寺を見る(粟船山)」を参照。

仏殿には、「阿弥陀三尊像」が祀られています
 常楽寺仏殿.JPG

 
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2017年04月08日

鎌倉検定−天変地異起こる(1221年5月19日)を読む(2)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

C承久3年(1221)5月19日
 去る15日、後鳥羽上皇が執権北条義時追討の命令を諸国の武士に下したことなどを伝える、上皇側・幕府側双方の急使が京都からあいついで到着した。
 これに対し、尼将軍と言われた北条政子は御家人を招集し、頼朝以来の御恩などを訓示して結束を固めた。
 翌6月には幕府軍18万騎が東海・東山・北陸の参道から京へ攻めのぼり、戦いは幕府方の圧倒的勝利をもって終わることになる(承久の乱)。

承久の乱(1221年)
 「北条政子・義時」VS「後鳥羽上皇」の戦いとも言える戦いで、政子の御家人への訓示で幕府は結束し勝利を収めました。

北条義時(1163〜1224年)
 鎌倉幕府2代執権。北条時政の次男。北条政子の弟。
 「和田合戦」(1213年)では和田義盛一族を滅ぼし、政所と侍所の両別当(長官)を兼ねて地位を固めました。
 「承久の乱」(1221年)では後鳥羽上皇らを流罪にし、京都に六波羅探題を設置しました。
 これにより、鎌倉幕府を安定させ、執権政治の土台を固めました。

北条政子(1157〜1225年)
 北条時政の長女、源頼朝の妻。頼朝の死後出家したが、源頼家、源実朝の後見として政務を担いました。北条執権政治の確立にも尽くし、「尼将軍」と称されました。
 勝長寿院に葬られたが、「壽福寺」に墓と伝えられる五輪塔が、また「安養院」にも供養塔があります。
 ※勝長寿院は、源頼朝が鎌倉で創建した「三大寺院」の一つです。
 勝長寿院については、「鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1185年10月24日)を読む(8)」を参照。

壽福寺にある「北条政子の墓(供養塔)」と伝わる五輪塔
 北条政子墓.JPG

※壽福寺については、「鎌倉扇ヶ谷のお寺を見る(亀谷山)」を参照。

安養院にある「北条政子の墓(供養塔)」と伝わる宝篋印塔
 北条政子の墓.JPG

※安養院については、「鎌倉大町のお寺を見る(衹園山)」を参照。

 
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2017年04月05日

鎌倉検定−天変地異起こる(1219年1月27日)を読む(1)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回から、「第一部 鎌倉幕府の興亡 第二章 天変地異起こる」を読むことになります。

@承久元年(1219)1月27日
 源実朝、鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の式に出て退出の際、源仲章とともに甥の鶴岡八幡宮別当公暁によって殺害される。公暁も乳母の夫三浦義村のもとへおもむく途中に殺され、頼朝の源家は断絶するところとなった。
 二月北条政子は、後鳥羽上皇の皇子を将軍として下向させることを申請するが拒否される。
 七月左大臣藤原(九条)道家の子三寅(二歳、のち頼経)が、頼朝の遠縁にあたることにより、将軍に後嗣として鎌倉に入っている。

源実朝(1192年〜1219年)
2010年まであった正月のころの鶴岡八幡宮大イチョウ
1月の大イチョウ.JPG・源実朝暗殺の場面
1219年、実朝はちらちらと粉雪が舞う中、右大臣拝賀のために鶴岡八幡宮参拝に向かっていました。正月酉の刻(午後六時)のことでした。

さて、拝賀式を終えて、実朝は、鶴岡八幡宮の石段に降り積もった雪を進んでいくその時、大イチョウの陰に潜んでいた公暁は、父の仇とばかり実朝に襲い掛かり首を討ちとりました。

執権北条義時は、実朝の太刀持ちを務めていたが、具合が悪くなり源仲章に太刀持ちを任せ、自分の館に引き返しており、難を逃れました。

 ※「北条義時の戌神将伝説」については、「鎌倉覚園寺についてのあれこれ」を参照。

実朝は、死を予知したかのような和歌を残していました
 「出ていなば 主なき宿と成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」

壽福寺にある「源実朝の墓(供養塔)」と伝わる五輪塔
 源実朝の墓.JPG

「源實朝をしのぶ」石碑
 壽福寺総門の手前右には、源実朝生誕八百年を記念し、平山郁夫氏の書による石碑が建っています。
 源実朝をしのぶ碑.JPG

公暁(1200〜1219)
 二代将軍頼家の次男。頼家の死後、北条政子の計らいにより、鶴岡八幡宮の僧籍に入り、その後別当を務める。
 父の死の原因が、実朝と北条氏の策謀によるものとして「父の仇」を討つ目的で凶刃をふるったといわれる。

九条(藤原)頼経(1218〜1256年)
 鎌倉幕府4代将軍。公家の九条家出身で、源頼朝の妹の曾孫にあたる。
 後に北条氏と対立し、1246年、京都に追放された。

「源頼朝」と「九条頼経」の関係図
 頼朝と九条頼経の関係図.jpg
 
posted by トシ999 at 11:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする