2017年10月14日

鎌倉検定−後北条氏の盛衰(1542年4月6日)を読む(6)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「北条氏康の活躍」です。
(23)天文11年(1542)4月6日
 北条氏康、建長寺・円覚寺・東慶寺三か寺の行堂の諸公事を免除する。
 氏康は、氏綱の後継者として父とともに以前より政務に携わっていた。
 氏綱は天文10年7月19日に亡くなるが、病中にあった4月頃にはすでに家督を子の氏康に譲っていた。

北条氏康(1515〜1571年)
 小田原北条氏の第3代当主。北条氏綱の嫡男。
後北条氏(小田原北条氏)の系図(北条氏五代)
  北条早雲――氏綱――氏康――氏政――氏直  

 ・1544年、鶴岡八幡宮の法度を定めました。
  (掃除の場所や回数の規定、修理箇所の報告義務、落書き禁止等)
 ・1547年、相模・武蔵国など領国の経営に力を入れ、各地で検地を実施しました。
 ・1554年、古河公方足利晴氏と子の藤氏が謀叛を起こしたが、古河城を攻め落とし、晴氏・藤氏父子を幽閉しました。そして、晴氏の子で鎌倉の葛西ヶ谷に居た義氏に家督を安堵しました。

「日本三大奇襲」の一つ「河越夜戦」
 ・1546年、関東管領山内上杉家が、古河公方や今川氏と共に8万の大軍で北条氏に進攻。
 ・北条氏康は8千の精鋭を率いて夜襲をかけ、この10倍の敵軍を撃退。
 ・北条氏康は勝利し、上杉朝定の討死、古河公方の北条氏康への降伏等、この戦いによって、関東一帯の支配を確立します。

 ※その他の奇襲の戦い
   @厳島の戦い(1555年):毛利元就 対 陶晴賢で、毛利勢の勝利
   A桶狭間の戦い(1560年):織田信長 対 今川義元で、織田信長の勝利

松岡山東慶寺
 臨済宗。1285年創建。開基は、北条貞時、開山は、北条時宗夫人の覚山尼
 「鎌倉尼五山第二位」の寺として栄え、「縁切り寺」「駆け込み寺」の名で広く知られていました。
 明治4年に「縁切寺法」が廃止されるまでの約600年間、多くの女性を救いました。
本堂(泰平殿)
 東慶寺本堂(泰平殿.JPG
 ※このお寺については、「北鎌倉のお寺を見る(松岡山)」を参照。

鎌倉尼五山第一位は、「太平寺」です
 ・1282年ころ、相模の豪族の娘・妙法尼が釈迦如来像を祀り、8代執権北条時宗の招きにより宋から来日した「大休正念」を導師として仏殿供養を行ったのが始まりということです。
 ・室町時代初期に、足利基氏の未亡人「清渓尼」が中興し、「鎌倉尼五山第一位」となりました。

来迎寺(西御門)の脇に建つ「太平寺跡」の石碑
 太平寺跡石碑.JPG

 ・1556年、小田原北条氏との戦いで武勇を知られた「里見義弘」率いる水軍が、鎌倉に攻め込んだ際、里見義弘は住職の「青岳尼」(足利義明の娘)を安房に連れ去ったため、「太平寺」は住職を失い、北条氏康によって廃寺とされました。
 
 ・「青岳尼」が鎌倉を離れる際、一緒に「聖観音像」を持ち去ったが、のちに鎌倉に返され、現在は「東慶寺」に安置されています。

 ・また、円覚寺の「舎利殿」は、この「太平寺の仏殿」を移築したものといわれています。

 
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2017年10月13日

鎌倉検定−後北条氏の盛衰(1520年2月27日)を読む(5)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「北条氏綱の活躍」です。
P永正17年(1520)2月27日
 北条氏綱(早雲の子)の代官大道寺盛昌、鎌倉本覚寺に宛てて制札を下す。三浦氏滅亡後、早雲は鎌倉を直轄領とした。
 永正15年、早雲の跡を継いだ氏綱の鎌倉の代官として大道寺盛昌がいた。この制札には代官以外の者が、本覚寺に対して諸役を課した場合の規定が記されている。
 盛昌は早雲以来の重臣で、その後も鎌倉代官の職は大道寺家の世襲になっていた。

北条氏綱(1487〜1541年)
 後北条氏2代目。永正 15(1518) 年、父の跡を継ぎ、小田原城主。
 伊豆・相模・武蔵・下総などを制圧し、後北条氏の基礎を確立しました。

 ・関東支配の正当性を示すために、鎌倉時代の執権北条氏の後継者であるとして、「北条」への改名を行って後北条家が誕生しました。
後北条氏(小田原北条氏)の系図
  北条早雲――氏綱――氏康――氏政――氏直  

 ・1526年12月に、安房の「里見実尭」の軍勢が鎌倉に来襲し、鶴岡八幡宮の付近で北条方の軍と戦い、八幡宮以下諸堂社が焼失しました。
  ※曲亭馬琴作の『南総里見八犬伝』のモデルの「里見実尭」とは?
    新田義貞の鎌倉攻めに加わった里見氏の末裔といわれています。
    安房の国に一大勢力を築き、実尭はその第4代当主義豊の後見人とされています。

 ・1532年、北条氏綱は、鎌倉代官大道寺盛昌・笠原信為に鶴岡八幡宮再建を命じました。
 ・1540年、新しい鶴岡八幡宮が完成し、落慶式が行われました。
 ・北条氏康は、1541年7月に没しました。

妙厳山本覚寺
吽形像と阿形像が左右に安置されている仁王門
 本覚寺仁王門.JPG

 吽形像.JPG

 阿形像.JPG
 ※このお寺については、「鎌倉小町のお寺を見る(妙厳山)」を参照。

功臣山報国寺
 ・永正17年(1520)、北条氏綱の鎌倉小代官が、鎌倉報国寺に宛て敷地寄進に関する証文を与えました。
  北条氏の鎌倉への命令は、代官から小代官に伝えられて施行されていました。

報国寺の孟宗竹林の「竹の庭」
 報国寺竹の庭.JPG
 ※このお寺については、「鎌倉浄明寺のお寺を見る(功臣山)」を参照。

 
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2017年10月12日

鎌倉検定−後北条氏の盛衰(1504年10月4日)を読む(4)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「北条早雲(伊勢長氏)の鎌倉入り」です。
L永正元年(1504)10月4日
 伊勢長氏(のちの北条早雲)、駿河守護今川氏親とともに鎌倉に入る。
 永正元年8月21日、山内上杉顕定は川越城に扇谷上杉朝良を攻めた。このため朝良は、援軍を伊豆の韮山城にいた伊勢長氏に求めた。9月半ばに入ると駿河の今川氏親も朝良の援軍に加わった。
 その結果、9月27日、立川原で開始された戦闘で顕定軍が大敗した。
 勝利した長氏と氏親は、10月に入って鎌倉入りした。

北条早雲(1432〜1519年)
 後北条氏の祖。初めは、「伊勢新九郎長氏(伊勢新九郎盛時)」と称していたが、出家して「伊勢宗瑞(いせ そうずい)」と呼ばれるようになりました。
  ※「北条」を名乗るようになったのは、2代・氏綱の時代からです。

 ・駿河今川氏の食客となり、1491年、堀越公方足利茶々丸を攻めて伊豆を制圧。
 ・1495 年、小田原城主を追出して城を奪いました。

 ・1512 年、相模岡崎城の三浦義同を破り、伊豆の住吉城に逃れた三浦勢を追撃するため鎌倉に入りました。
 ・1513年、鎌倉に「玉縄城」を築城し、北条氏の防衛拠点としました。
 ・1516年、新井城に三浦氏を滅ぼし、相模を手中に収め、後北条氏の基礎を築きました。

北条早雲が、戦乱で荒廃した鎌倉の復興を詠んだ歌
 ・1512年、小田原城を本拠とする「北条早雲」は、鎌倉を支配していた三浦義同を攻めて敗走させ、鎌倉に入ったとき、鎌倉の復興の意思を詠んだといいます。
  枯るる樹に また花の木を植えそへて もとの都になしてこそみめ 

玉縄城跡
 ・玉縄城は、永正9年(1512年)北条早雲によって築かれました。
 ・天然の要害となる丘陵に空堀や土塁、曲輪などを加えた戦国時代の広大な山城で、「東国無双の名城」でした。
 ・当時をしのぶ地形は、七曲り、太鼓櫓址、諏訪壇、ふわん坂などに残っています。

玉縄城を偲ぶコース案内図と城郭図
玉縄城址コース.JPG

玉縄城郭図.JPG

七曲坂と冠木門
 七曲坂看板.JPG

 冠木門.JPG

今川氏親(1473〜1526年)
 ・駿河今川家の7代当主。母北川殿は伊勢長氏(北条早雲)の姉といわれています。
 ・幼くして父が亡くなり、家督をめぐって争いが起こるが、伊勢長氏の助けを借りて今川家当主となりました。
 ・徐々に幕府の統制を離れ、独自の統制を行い、戦国大名の先駆けとなりました。

三浦義同(よしあつ)(?〜1516年)
 ・平安時代以来の相模の豪族・三浦氏の事実上最後の当主。
 ・宝治合戦で滅ぼされた三浦氏は、傍流から再興を遂げ、相模の地頭となっていました。
 ・そのころ、扇谷上杉氏の勢力下に置かれ、義同は扇谷上杉氏から三浦氏に養子として入ったということです。
 ※「宝治合戦」については、「鎌倉検定−天変地異起こる(1247年6月5日)を読む(12)」を参照。

 
posted by トシ999 at 12:08| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする