2017年10月12日

鎌倉検定−後北条氏の盛衰(1504年10月4日)を読む(4)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「北条早雲(伊勢長氏)の鎌倉入り」です。
L永正元年(1504)10月4日
 伊勢長氏(のちの北条早雲)、駿河守護今川氏親とともに鎌倉に入る。
 永正元年8月21日、山内上杉顕定は川越城に扇谷上杉朝良を攻めた。このため朝良は、援軍を伊豆の韮山城にいた伊勢長氏に求めた。9月半ばに入ると駿河の今川氏親も朝良の援軍に加わった。
 その結果、9月27日、立川原で開始された戦闘で顕定軍が大敗した。
 勝利した長氏と氏親は、10月に入って鎌倉入りした。

北条早雲(1432〜1519年)
 後北条氏の祖。初めは、「伊勢新九郎長氏(伊勢新九郎盛時)」と称していたが、出家して「伊勢宗瑞(いせ そうずい)」と呼ばれるようになりました。
  ※「北条」を名乗るようになったのは、2代・氏綱の時代からです。

 ・駿河今川氏の食客となり、1491年、堀越公方足利茶々丸を攻めて伊豆を制圧。
 ・1495 年、小田原城主を追出して城を奪いました。

 ・1512 年、相模岡崎城の三浦義同を破り、伊豆の住吉城に逃れた三浦勢を追撃するため鎌倉に入りました。
 ・1513年、鎌倉に「玉縄城」を築城し、北条氏の防衛拠点としました。
 ・1516年、新井城に三浦氏を滅ぼし、相模を手中に収め、後北条氏の基礎を築きました。

北条早雲が、戦乱で荒廃した鎌倉の復興を詠んだ歌
 ・1512年、小田原城を本拠とする「北条早雲」は、鎌倉を支配していた三浦義同を攻めて敗走させ、鎌倉に入ったとき、鎌倉の復興の意思を詠んだといいます。
  枯るる樹に また花の木を植えそへて もとの都になしてこそみめ 

玉縄城跡
 ・玉縄城は、永正9年(1512年)北条早雲によって築かれました。
 ・天然の要害となる丘陵に空堀や土塁、曲輪などを加えた戦国時代の広大な山城で、「東国無双の名城」でした。
 ・当時をしのぶ地形は、七曲り、太鼓櫓址、諏訪壇、ふわん坂などに残っています。

玉縄城を偲ぶコース案内図と城郭図
玉縄城址コース.JPG

玉縄城郭図.JPG

七曲坂と冠木門
 七曲坂看板.JPG

 冠木門.JPG

今川氏親(1473〜1526年)
 ・駿河今川家の7代当主。母北川殿は伊勢長氏(北条早雲)の姉といわれています。
 ・幼くして父が亡くなり、家督をめぐって争いが起こるが、伊勢長氏の助けを借りて今川家当主となりました。
 ・徐々に幕府の統制を離れ、独自の統制を行い、戦国大名の先駆けとなりました。

三浦義同(よしあつ)(?〜1516年)
 ・平安時代以来の相模の豪族・三浦氏の事実上最後の当主。
 ・宝治合戦で滅ぼされた三浦氏は、傍流から再興を遂げ、相模の地頭となっていました。
 ・そのころ、扇谷上杉氏の勢力下に置かれ、義同は扇谷上杉氏から三浦氏に養子として入ったということです。
 ※「宝治合戦」については、「鎌倉検定−天変地異起こる(1247年6月5日)を読む(12)」を参照。

 
posted by トシ999 at 12:08| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月10日

鎌倉検定−後北条氏の盛衰(1486年10月)を読む(3)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「太田道灌の死去」です。
H文明18年(1486)年10月
 相国寺の僧で詩人の万里集九、鎌倉に入り周遊する。集九は、扇谷上杉定正の執事太田道灌の招きにより前年の10月ごろ、江戸城に入った。
 道灌は18年7月26日に横死するが、集九は定正の許可を得て鎌倉に参り、諸寺を廻って遊び江戸城に戻った。長享2年(1488)8月、道灌の3回忌を終えてから城を去った。

太田道灌(1432〜1486年)
 ・古河公方「足利成氏」を迎え撃つために築いた江戸城の築城(1457年)で知られています。
 ・飛鳥井雅親、万里集九など歌人との交流が深く、歌人としても知られています。
 ・兵法に長じ、学問や和歌にもすぐれた人物でしたが、1486年、主君「上杉定正」により謀殺されました。

太田道灌の墓
 ・英勝寺の墓地の裏、壽福寺裏手から源氏山に登っていく道の途中に、道灌の墓があります。
 ・この墓は、1826年に水戸徳川家の子孫である英勝寺住職が以前の墓を再建したものということです。
 太田道灌の墓.JPG

太田道灌の伝説
 山中の狩りで時ならぬ雨に困った太田道灌が、蓑でも借りられないかと農家に立ち寄ったところ、一人の少女が出てきて「山吹の花」を差し出した。
 道灌は意味がわからず憮然として立ち去ったが、その話を家臣にしたところ、少女の意が山吹の花にちなんだ古歌「七重八重 花は咲けども 山吹の実(蓑)のひとつだになきぞ悲しき」にあったことを教えられた。
 「貧乏でお貸しできる蓑さえない。」という意味で、「実」と「蓑」をかけたのだった。
 道灌は自分の教養のなさを恥じ、その後学問に励み、文武両道を供えた名君になったという。

東光山英勝寺
 ・開山は、水戸家初代徳川頼房の息女玉峯清因(徳川光圀の姉)。
 ・開基は、英勝院。太田道灌から数えて4代の孫康資の娘で、頼房の猶母。
 ・1636年、太田道灌の土地に、この寺を建立しました。
運慶作と伝えられる阿弥陀三尊の安置された仏殿
 英勝寺仏殿.JPG
 ※このお寺については、「鎌倉扇ヶ谷のお寺を見る(東光山)」を参照。

万里集九(1428〜?)
 ・禅僧、歌人。京都相国寺で修行し、1485年には太田道灌の招きで江戸城に寄宿しました。
 ・その翌年には上杉定正の招きで鎌倉に入り、その時の紀行詩文が『梅花無盡蔵』としてまとめられました。

鎌倉高徳院の大仏殿倒壊の説
・『鎌倉大日記』:明応4年(1495)に津波で大仏殿が流されたという。
・『妙法寺記』:明応7年(1498)に津波で大仏殿が流されたという。
・しかし、万里集九が、文明18年(1486)年10月に鎌倉を訪れた時に、すでに大仏は露座であったと『梅花無盡蔵』に記している。

 果たして、大仏殿は一体いつ無くなっていたのでしょうか??
 高徳院鎌倉大仏.JPG

 
posted by トシ999 at 15:45| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月09日

鎌倉検定−後北条氏の盛衰(1463年12月15日)を読む(2)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「非力な堀越公方足利政知」です。
E寛正4年(1463)12月15日
 堀越公方足利政知、鎌倉五山の住持の任命を幕府に申請したが、関東管領山内上杉房顕の副状が無いため許可されなかった。
 鎌倉公方が事を幕府に申請する場合、関東管領の副状を必要とすることは、古河公方足利成氏の勢力を抑制するためであった。

堀越公方「足利政知」の動向
 1458年、「堀越公方」となって以降、次のような動きをしています。 
 ・1459年、関東の上杉房顕らの幕府連合軍が足利成氏軍に大敗したため、1460年、足利政知は年内に相模に入り、その後鎌倉を目指したが、将軍足利義政に制止されました。
 ・1461年、関東管領山内上杉房顕は、足利政知を通さずに被官に命令を出すなど、鎌倉公方と関東管領との関係は薄弱でした。
 ・1466年、足利政知は、円覚寺や壽福寺の住持の人事について幕府の許可を得るが、発給文書の多くは社寺に関するもので、政治的・軍事的なものはあまりありませんでした。
 
鎌倉五山
 ・後醍醐天皇、足利尊氏、足利義詮が決めてきましたが、最終的には、1342年、3代将軍「足利義満」によって現在の形になりました。
第一位 巨福山建長寺

1253年、北条時頼が創建。
※「北鎌倉のお寺を見る(巨福山)」を参照。
第二位 瑞鹿山円覚寺

1282年、北条時宗が創建。
※「北鎌倉のお寺を見る(瑞鹿山)」を参照。
第三位 亀谷山壽福寺

1200年、北条政子が創建。
※「鎌倉扇ヶ谷のお寺を見る(亀谷山)」を参照。   
第四位 金宝山浄智寺

1281年、北条宗政夫人と子の師時が創建。
※「北鎌倉のお寺を見る(金宝山)」を参照。
第五位 稲荷山浄妙寺

1188年、足利義兼が創建。
※「鎌倉浄明寺のお寺を見る(稲荷山)」を参照。

 ※創建された順序としては、「浄妙寺→壽福寺→建長寺→浄智寺→円覚寺」となります。

 
posted by トシ999 at 19:13| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする