2019年01月28日

2018年の鎌倉検定の受験動向はどうだったか?

第12回鎌倉検定の受験の状況を見てみましょう。

◎2018年11月実施の結果が、「鎌倉検定公式HP」で紹介されています。
 2018年は、全部で685名の人が受験しています。(2017年は740名)
 受験者数の推移を下記グラフに示します。

 これからもさらに新たな鎌倉ファンが増えることを期待します。

 なお、各級とも前回の合格率を上回っており、受験者の努力の結果が出ています。

 合格の秘訣は、公式テキストブックをしっかり読んで、過去問を解いて、鎌倉をあちこち散策しましょう
 
受験者数の推移
 2018鎌倉検定受験者数.jpg

 
ラベル:鎌倉 鎌倉検定
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2018年11月24日

鎌倉ゆかりの人物―和田義盛のあれこれ・・・・・最終回

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「御家人・和田義盛」です。
まだまだ、たくさんの人がいると思いますが、これで「鎌倉ゆかりの人物」の紹介は終ります。

和田義盛(1147〜1213年)
 ・鎌倉幕府初代の侍所別当。
 ・三浦氏の一族で、平家追討や奥州合戦に参加し、源頼朝に信頼されました。 
 ・1213年、北条義時と対立した和田合戦で敗れ、一族は滅亡。
 ・江ノ電和田塚駅の南側に「和田一族の墓」があり、「和田塚」と呼ばれています。

和田義盛の系図
 和田義盛と三浦義村関係図.jpg

和田義盛の動向
 ・1180年、源頼朝の鎌倉入りに大いに貢献し、最初に設置された侍所の別当が和田義盛
  です。
 ・1189年、奥州から藤原泰衡の使者が源義経の首を腰越浦に持参したときに、満福寺で
  和田義盛・梶原景時がこれを実検したといいます。
 ・源頼家が2代将軍になると義盛は宿老として十三人の合議制の一員となりました。
 ・「比企氏の乱」や「畠山重忠の乱」などの御家人の乱では、北条氏に味方しました。

「和田合戦」の経緯と遺跡
 ・和田義盛の軍勢は、現在の清泉小学校付近に位置していた大倉御所を、南門から攻撃
  しました。
 ・義盛の子の「朝比奈三郎義秀」の軍勢が、大倉御所に突入して放火したため、御所は
  焼失しました
 ・翌日には、由比ヶ浜や若宮大路で戦闘が行われましたが、従兄弟の三浦義村の裏切り
  もあって、義盛らが戦死して、和田方の敗北により合戦は終結しました。
  ※「和田合戦」の詳細は「鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1213年5月2日)を読む(23)」を参照。

 和田塚駅.JPG

 和田塚入り口.JPG

 和田塚説明板.JPG

 和田一族戦没地の碑.JPG

 和田義盛一族の墓.JPG

 和田一族の碑.JPG 

北条氏に滅ぼされた御家人
 ・梶原景時→比企能員→畠山重忠→和田義盛と、有力者が排除されていきました。 

朝夷奈切通の伝説
 ・和田義盛の三男で豪傑だった朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたとの伝承が存在
  し、朝比奈峠の名の起こりとなっています。
 朝夷奈切通.JPG

朝夷奈切通石碑.JPG鎌倉七口の一つで、鎌倉より六浦へ通じる重要な道で、大切通、小切通の二つがあります。土地の人の話では、朝夷奈三郎義秀が、一夜の内に切り抜いたのでその名前が付いたと伝えられています。
東鑑(吾妻鏡)によると、仁治元年(1240)十一月に、鎌倉六浦間の道路を切開くことが決まり、翌二年(1241)四月に工事が開始され、執権北条泰時もそこに出かけて監督しており、多くの人が集まって土石を運んだことが書かれています。
この切通は、その当時に開通したものと思われます。



11月25日(日)は、鎌倉検定の日です。

 受験される方には、健闘をお祈りいたします。

 
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2018年11月23日

鎌倉ゆかりの人物―文覚のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「真言宗の僧・文覚上人」です。

文覚上人(1139〜1203年)
 ・平安末から鎌倉時代初期の真言宗の僧、もとは武士。俗名は遠藤盛遠。
 ・伊豆国蛭ヶ小島で源頼朝の知遇を得、頼朝の鎌倉入りを扶けたといわれています。
 ・京都神護寺再興のために後白河法皇に勧進したものの、怒りを買い、伊豆に流され、
  そこで源頼朝と出会い親交を深め、平家討伐の挙兵を勧めたといわれています。
 ・頼朝の死後、後鳥羽上皇に謀反の嫌疑をかけられ、対馬へ流罪となる途上、死亡しま
  した。

「文覚上人荒行像」(成就院)
 文覚上人荒行像.JPG

南向山補陀洛寺(材木座)
 ・真言宗。開山と伝えられる「文覚」は、元武士でした。
 ・1181年、源頼朝の祈願所として創建されました。
 ・江戸時代、たびたび竜巻に襲われたため、別名「竜巻寺」といわれています。
 補陀洛寺.JPG

源頼朝の父義朝を祀る「勝長寿院旧蹟」の石碑(雪ノ下)
 ・1185年、源頼朝臨席のもと、「勝長寿院」の開堂供養が行われました。
 ・奈良から仏師成朝を招いて、黄金の阿弥陀像を造らせて安置したといわれています。
 ・また、文覚上人の弟子たちによって、京都で探し出された源義朝の首が鎌倉へ運ば
  れ、埋葬されたということです。
 勝長寿院旧蹟.JPG

「文覚上人屋敷迹」の石碑(雪ノ下)
 ・雪ノ下の「田楽辻子の道」の入口、滑川に架かる「大御堂橋」の傍らに、文覚が住ん
  だといわれる「文覚上人屋敷迹」の石碑があります。
 ・大御堂橋の下を流れる滑川が、古くは「坐禅川」といわれたのは、文覚上人が近くに
  屋敷を構えていたことにちなんでということです。
 文覚上人屋敷跡.JPG

文覚上人屋敷迹の石碑.JPG文覚は俗称を遠藤盛遠といい、もとは院の警備をしていましたが、18歳の時に、左衛門尉源渡の妻袈裟御前に想いをよせ、源渡と間違って袈裟御前を殺してしまい、後悔の余り僧となりました。
その修行は大変勇猛なもので、厳寒猛暑のなかでも林や草むらに露臥し、厳しい滝に打たれて何度も死にそうになりました。
養和二年(1182)四月、頼朝の本願として弁財天を江の島に勧請し、ここで三十七日の間籠もって、食を断って祈願を勤めました。

この場所がその当時文覚が住んでいた屋敷の跡です。

 
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