2017年10月03日

鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1455年6月16日)を読む(14)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「古河公方の始まり」です。
(39)康正元年(1455)6月16日
 幕府の命を受け、錦旗を掲げて足利成氏討伐のため東下した駿河守護今川範忠が、成氏を破って鎌倉に入る。殺害された関東管領上杉憲忠の後継となった上杉房顕(憲忠弟)を援護するためである。
 今川軍に敗北し鎌倉を落ち延びた成氏は、下総古河に奔る(古河公方の始)。
 7月、京都では康正と改元したが成氏は用いず、その後20年以上にわたり享徳の年号を使い続ける。

古河公方
 「永享の乱」によって自害した鎌倉公方「足利持氏」の四男「足利成氏」は、関東管領上杉氏と抗争を続け、1455年に鎌倉から古河の地に移り、「古河公方」と称しました。

 茨城県の指定文化財に、「古河公方足利成氏館跡」があります。
 現在も、「古河公方足利成氏館跡」の石碑の西側には堀跡・土塁が明瞭に残っているとのことです。
 ※「古河公方足利成氏館跡」については、「茨城県古河市HP」を参照。

古河の場所
 鎌倉ー古河地図.jpg

鎌倉公方から古河公方への系図
・1252年、宗尊親王が鎌倉下向時に、公家の「上杉重房」も従って下向。
 この出来事から、やがて「鎌倉公方と関東管領」の歴史が始まります。
鎌倉公方と関東管領の系図1.jpg
足利基氏:初代鎌倉公方
 上杉憲顕(山内家)が初代関東管領。
 瑞泉寺が代々の鎌倉公方の菩提寺。

足利氏満:2代鎌倉公方
 上杉憲方(憲顕の子)が関東管領。
 1380年、禅興寺の中興を憲方に命じる。(明月院の前身)

足利満兼:3代鎌倉公方
 上杉憲定(憲方の子)が関東管領。

足利持氏:4代鎌倉公方
 上杉氏憲(犬懸家)が関東管領。
 1416年、上杉禅秀(氏憲)の乱。
 1438年、永享の乱。関東管領の上杉憲実と対立。
 1439年、永享の乱。足利義教と対立し、持氏は自害。

足利成氏:初代古河公方
 上杉憲忠が関東管領。
 1454年、享徳の乱。上杉憲忠を謀殺。
 1455年、今川範忠が上杉氏を支援。 下総に移り古河公方に。

今川範忠(1408〜?)
 駿河今川氏の第5代当主。
 幕府の助力により家督を継いだため、将軍足利義政への忠誠心が強く、古河公方足利成氏と対立しました。

 
posted by トシ999 at 14:42| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月26日

鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1454年12月27日)を読む(13)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「享徳の乱」です。
(38)享徳3年(1454)12月27日
 足利成氏が、上杉憲忠を鎌倉公方の御所に招いて謀殺する。憲忠が、成氏の父持氏を死に追いやった上杉憲実の子であったためといわれる。
 以後、成氏軍と上杉軍の間で合戦が始まり(享徳の乱の始)、後に京都で起こる応仁・文明の乱よりも13年先んじて、関東は大動乱の時代に入る。

享徳の乱(1454〜1482年)
 ・鎌倉公方が「足利基氏→氏満→満兼→持氏」と変わっていく中で、京都と鎌倉の関係は悪化していきました。
 また、鎌倉府の中でも、「鎌倉公方足利氏」と「関東管領上杉氏」との対立が起こっていました。

 ・そして、1454年、ついに「足利成氏」が「上杉憲忠」を謀殺したことにより、1482年まで続く長い戦いの幕が切って落とされたわけです。

 ・京都で勃発した「応仁の乱(1467年)」は、将軍家をはじめとする幕府勢力の内乱で、室町幕府の統治体制は崩壊へと向かい、戦国時代へとつながって行きました。

鎌倉公方に関わるこれまでの戦乱のまとめ
1399年
 応永の乱

1416年
 上杉禅秀の乱

1438年
 永享の乱


1440年
 嘉吉の変

1450年
 江の島合戦

1454年
 享徳の乱
・大内義弘が足利義満に反乱を起こし、討伐された事件。
 「足利満兼」がこれに呼応しようとしたが、上杉憲定の諫言により思いとどまった。
足利満隆(満兼の弟)と上杉禅秀(氏憲)が、「足利持氏」に反乱を起こし、2人とも自害した事件。

・「足利持氏」が関東管領上杉憲実と不仲になり、争乱が勃発し、幕府が持氏を討伐する事件。
 持氏は1439年、幕府に支援された上杉氏を中心とした幕府軍との戦いに敗れ、自害した。
・幕府が反乱を起こした結城氏朝を討伐したのち、6代将軍足利義教が赤松満祐に暗殺される事件。

・上杉氏の被官である長尾景仲・太田資清らが、「足利成氏」の鎌倉御所を襲い、成氏は江の島に退避して抗戦する事件。

・「足利成氏」が、上杉憲忠を謀殺したことで、成氏軍と上杉軍の間で合戦が始まり、関東を二分しての全面対決が起こる事件。

 
posted by トシ999 at 19:54| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月23日

鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1447年3月)を読む(12)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「足利成氏の鎌倉公方就任」です。
(35)文安4年(1447)3月
 このころ、幕府は足利持氏の遺児(成氏)が鎌倉公方となることを認める。
 さらに7月4日、後花園天皇の綸旨をもって、上杉憲忠が関東管領に任じられる。その1ヶ月後の8月27日、成氏が鎌倉に迎えられる。
 また、この年の11月以前に、上杉憲実が伊豆へ隠遁している。

足利成氏(しげうじ)(1434〜1497)
 4代鎌倉公方「足利持氏」の四男で、幼名永寿王。
 1449年、成氏が元服し(8代将軍足利義成(後の義政)の偏諱を受ける)、鎌倉公方が復活するも、上杉氏被官(反成氏派)との対立が深刻化していきました。

 成氏は、父持氏を死に追いやった「上杉憲実および憲忠」の父子を憎んでいました。
 1450年に山内上杉家家宰「長尾景仲」が、扇谷上杉家家宰「太田資清」らと、成氏の鎌倉御所を襲う事件(江の島合戦)や、1454年に成氏が憲忠を鎌倉公方の御所で殺すなど、混乱の時代となっていきます。

「扇谷上杉管領屋敷遺迹」の石碑
扇谷上杉管領屋敷迹の石碑.JPG内大臣藤原高藤13代の子孫に、重房という人がいました。
宗尊親王に従って鎌倉に来て、丹波国上杉庄を拝領したところから、始めて上杉氏を名乗りました。
その曾孫の憲顕足利基氏の執事となってからは、一族は関東に大きな勢力を持つようになりました。
さらに重房から5代後の顕定は、扇谷家を起こしました。
文明の頃、扇谷家の6代目の定正は、賢臣の太田道灌を起用して扇谷上杉家の名を高めました。
世間の人々は、山内家と共に、両上杉または両管領といいました。
この場所がその屋敷の跡です。

上杉家 扇谷家の系図
 上杉家 扇谷家の系図.jpg

※「太田資清」は、上杉持朝に仕えて家宰職と共に相模守護代を務めました。
 その子に、「太田道灌」がいます。

太田道灌屋敷跡に建てられた「英勝寺」の惣門
 英勝寺総門.JPG

 
posted by トシ999 at 12:51| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする