2017年06月10日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1272年2月15日)を読む(3)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「二月騒動」です。
B文永9年(1272)2月15日
 二月騒動おこる。
 幕府は、2月11日、名越時章と弟教時を殺害する。さらにその4日後、京都では、時宗の庶兄で六波羅探題南方の北条時輔が討たれた。しかし、騒動後に、名越時章は無罪として、逆に討手が斬罪になっている。
 日蓮が「国内に叛逆が起こる難」と予言したのはこの事件といわれる。
 事件の真相は謎につつまれている。

名越氏の系図
 名越氏の系図.jpg

名越教時(1235〜1272年)
 北条朝時の子。宗尊親王と親しい関係にあり、反得宗勢力と目されました。
 「名越時章・教時」の兄は、1246年の「宮騒動」で失脚した「名越光時」です。
・1246年5月25日、「宮騒動」が勃発しました。
・藤原(九条)頼経の側近で北条氏の一門の「名越光時」が、北条時頼を討とうとする計画を立てたとの嫌疑をかけられ、出家するという事態が発生。
・時頼は反対勢力を一掃し、7月11日に、藤原(九条)頼経を京都に強制送還しました。

 また、1266年7月4日、宗尊親王の京都送還の時に、「名越教時」は騒動を起こして、時宗に制せられました。
 →「鎌倉検定−天変地異起こる(1266年7月4日)を読む(17)」を参照。

名越切通
 「鎌倉七口」の一つで、鎌倉時代以降、鎌倉から三浦方面に通じる要路でした。
 道が険しく難路であったために「難越(なごし)」から「なごえ」という名が付いたということです。
 名越切通.JPG

 
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2017年06月09日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1271年9月12日)を読む(2)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「龍ノ口の法難」です。
A文永8年(1271)9月12日
 日蓮が龍ノ口の法難後、佐渡へ配流となる。
 日蓮は、忍性を批判したことで、逆に忍性から「日蓮は武器を蓄え凶徒を集めている」と告発されていた。
 御内人平頼綱らは、日蓮の草庵を襲い捕縛し、龍ノ口(藤沢市片瀬)まで連行した。この日、処刑されるはずであったが、御家人が刀を振り上げると、光り物が飛んでくるという奇端によって執行は中止となり、赦されて佐渡へ配流となったという。
 ※御内人(みうちびと):得宗の家臣で、権勢を持ち、その筆頭を内管領(うちかんれい)と呼ぶ。

龍ノ口法難刑場跡が残る龍口寺藤沢)
場所
 龍ノ口法難刑場跡地図.jpg

龍口寺仁王門
 龍口寺仁王門.JPG

龍口寺輪番八ヶ寺
 日蓮ゆかりの「龍ノ口法難」の地に建立された龍口寺(藤沢)には、かつて住職がおらず、次の八つの寺が順番に霊場を守っていました。
 「@本成寺 A勧行寺 B妙典寺 C東漸寺 D本龍寺 E法源寺 F本蓮寺(藤沢) G常立寺(藤沢)
 龍口寺各寺地図.jpg

刑場跡の石碑
 龍ノ口刑場跡.JPG

 龍ノ口刑場跡石碑.JPG

※「日蓮四大法難」は「鎌倉検定−天変地異起こる(1260年7月16日)を読む(16)」を参照。

龍口寺の前は、江ノ電と車が行き交う交差点です
 龍口寺前の江ノ電.JPG

 
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2017年06月08日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1268年3月5日)を読む(1)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回から、「第一部 鎌倉幕府の興亡 第三章 蒙古の襲来」を読むことになります。

 まず最初は、「北条時宗の第8代執権就任」です。
@文永5年(1268)3月5日
 北条時宗が第8代執権に、北条政村が連署となる。
 この年、1月、高麗の使節潘阜が大宰府に到着し、蒙古の国書を届けた。閏1月この国書は幕府にもたらされる。
 北条時頼の死後、嫡男の時宗はいまだ14歳であったため、暫定的な人事として、長老の政村が執権、時宗が連署となっていたが、この異国襲来に対する危機管理のため、18歳になった時宗と政村を交代する人事刷新を行ったのである。

北条時宗(1251〜1284年)
 北条時頼の二男。安達氏の甘縄邸に生まれる。
 禅宗に帰依し、蘭渓道隆、兀菴普寧、大休正念から教えを受けました。
 宋より無学祖元を招き、元軍襲来の際の戦没者慰霊のために、1282年に円覚寺を創建しました。

北条時宗の系図
 北条時宗系図.jpg
北条時頼(1227〜1263年)は、病気のため、1256年、北条長時に執権を譲りました。
・1264年、長時が出家して北条政村が7代執権となり、1268年、時宗が第8代執権となりました。
・兄に時輔がいたが、側室の子(庶子)であったため、時宗が後継者となりました。
・1266年の連署時代には、幕府転覆を計画していたとのことで、「宗尊親王の京都送還」を行いました。 →「鎌倉検定−天変地異起こる(1266年7月4日)を読む(17)」を参照。

北条時宗の廟所である「円覚寺佛日庵」の時宗像
 佛日庵には、北条時宗、貞時、高時の棺が安置してある開基廟があり、3人の木像坐像が祀られています。
 佛日庵廟所.JPG

 北条時宗像.JPG

北条時宗産湯の井
 時宗の祖母は安達景盛の娘の「松下禅尼」で、時宗夫人は安達泰盛の養女の「覚山尼」です。
 安達家は時宗夫人「覚山尼」の実家で、時宗もこの甘縄の地で生まれました。
 甘縄神明神社境内.JPG

 北条時宗産湯の井.JPG

北条時頼の墓(福源山明月院)
 時頼のお墓が、明月院の境内左手奥にあります。
 ※明月院については、「北鎌倉のお寺を見る(福源山)」を参照。
 北条時頼の墓.JPG

 
posted by トシ999 at 13:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする