2018年11月24日

鎌倉ゆかりの人物―和田義盛のあれこれ・・・・・最終回

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「御家人・和田義盛」です。
まだまだ、たくさんの人がいると思いますが、これで「鎌倉ゆかりの人物」の紹介は終ります。

和田義盛(1147〜1213年)
 ・鎌倉幕府初代の侍所別当。
 ・三浦氏の一族で、平家追討や奥州合戦に参加し、源頼朝に信頼されました。 
 ・1213年、北条義時と対立した和田合戦で敗れ、一族は滅亡。
 ・江ノ電和田塚駅の南側に「和田一族の墓」があり、「和田塚」と呼ばれています。

和田義盛の系図
 和田義盛と三浦義村関係図.jpg

和田義盛の動向
 ・1180年、源頼朝の鎌倉入りに大いに貢献し、最初に設置された侍所の別当が和田義盛
  です。
 ・1189年、奥州から藤原泰衡の使者が源義経の首を腰越浦に持参したときに、満福寺で
  和田義盛・梶原景時がこれを実検したといいます。
 ・源頼家が2代将軍になると義盛は宿老として十三人の合議制の一員となりました。
 ・「比企氏の乱」や「畠山重忠の乱」などの御家人の乱では、北条氏に味方しました。

「和田合戦」の経緯と遺跡
 ・和田義盛の軍勢は、現在の清泉小学校付近に位置していた大倉御所を、南門から攻撃
  しました。
 ・義盛の子の「朝比奈三郎義秀」の軍勢が、大倉御所に突入して放火したため、御所は
  焼失しました
 ・翌日には、由比ヶ浜や若宮大路で戦闘が行われましたが、従兄弟の三浦義村の裏切り
  もあって、義盛らが戦死して、和田方の敗北により合戦は終結しました。
  ※「和田合戦」の詳細は「鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1213年5月2日)を読む(23)」を参照。

 和田塚駅.JPG

 和田塚入り口.JPG

 和田塚説明板.JPG

 和田一族戦没地の碑.JPG

 和田義盛一族の墓.JPG

 和田一族の碑.JPG 

北条氏に滅ぼされた御家人
 ・梶原景時→比企能員→畠山重忠→和田義盛と、有力者が排除されていきました。 

朝夷奈切通の伝説
 ・和田義盛の三男で豪傑だった朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたとの伝承が存在
  し、朝比奈峠の名の起こりとなっています。
 朝夷奈切通.JPG

朝夷奈切通石碑.JPG鎌倉七口の一つで、鎌倉より六浦へ通じる重要な道で、大切通、小切通の二つがあります。土地の人の話では、朝夷奈三郎義秀が、一夜の内に切り抜いたのでその名前が付いたと伝えられています。
東鑑(吾妻鏡)によると、仁治元年(1240)十一月に、鎌倉六浦間の道路を切開くことが決まり、翌二年(1241)四月に工事が開始され、執権北条泰時もそこに出かけて監督しており、多くの人が集まって土石を運んだことが書かれています。
この切通は、その当時に開通したものと思われます。



11月25日(日)は、鎌倉検定の日です。

 受験される方には、健闘をお祈りいたします。

 
posted by トシ999 at 08:00| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月23日

鎌倉ゆかりの人物―文覚のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「真言宗の僧・文覚上人」です。

文覚上人(1139〜1203年)
 ・平安末から鎌倉時代初期の真言宗の僧、もとは武士。俗名は遠藤盛遠。
 ・伊豆国蛭ヶ小島で源頼朝の知遇を得、頼朝の鎌倉入りを扶けたといわれています。
 ・京都神護寺再興のために後白河法皇に勧進したものの、怒りを買い、伊豆に流され、
  そこで源頼朝と出会い親交を深め、平家討伐の挙兵を勧めたといわれています。
 ・頼朝の死後、後鳥羽上皇に謀反の嫌疑をかけられ、対馬へ流罪となる途上、死亡しま
  した。

「文覚上人荒行像」(成就院)
 文覚上人荒行像.JPG

南向山補陀洛寺(材木座)
 ・真言宗。開山と伝えられる「文覚」は、元武士でした。
 ・1181年、源頼朝の祈願所として創建されました。
 ・江戸時代、たびたび竜巻に襲われたため、別名「竜巻寺」といわれています。
 補陀洛寺.JPG

源頼朝の父義朝を祀る「勝長寿院旧蹟」の石碑(雪ノ下)
 ・1185年、源頼朝臨席のもと、「勝長寿院」の開堂供養が行われました。
 ・奈良から仏師成朝を招いて、黄金の阿弥陀像を造らせて安置したといわれています。
 ・また、文覚上人の弟子たちによって、京都で探し出された源義朝の首が鎌倉へ運ば
  れ、埋葬されたということです。
 勝長寿院旧蹟.JPG

「文覚上人屋敷迹」の石碑(雪ノ下)
 ・雪ノ下の「田楽辻子の道」の入口、滑川に架かる「大御堂橋」の傍らに、文覚が住ん
  だといわれる「文覚上人屋敷迹」の石碑があります。
 ・大御堂橋の下を流れる滑川が、古くは「坐禅川」といわれたのは、文覚上人が近くに
  屋敷を構えていたことにちなんでということです。
 文覚上人屋敷跡.JPG

文覚上人屋敷迹の石碑.JPG文覚は俗称を遠藤盛遠といい、もとは院の警備をしていましたが、18歳の時に、左衛門尉源渡の妻袈裟御前に想いをよせ、源渡と間違って袈裟御前を殺してしまい、後悔の余り僧となりました。
その修行は大変勇猛なもので、厳寒猛暑のなかでも林や草むらに露臥し、厳しい滝に打たれて何度も死にそうになりました。
養和二年(1182)四月、頼朝の本願として弁財天を江の島に勧請し、ここで三十七日の間籠もって、食を断って祈願を勤めました。

この場所がその当時文覚が住んでいた屋敷の跡です。

 
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2018年11月21日

鎌倉ゆかりの人物―源頼家・実朝のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「源頼家・実朝兄弟」です。

源頼家
1182
 〜1204年
・鎌倉幕府2代将軍。源頼朝の長男。
・1199年、頼朝の死後、嫡男頼家が頼朝の遺跡を相続するが、正式に征夷大将軍に任じられるのは、1202年のことです。
・家督を継いでも、実権は北条氏に掌握され、最後は伊豆修禅寺に幽閉され、後に暗殺されました。
源実朝
1192
 〜1219年
・鎌倉幕府3代将軍。源頼朝の次男で、頼家の弟。
・鎌倉時代前期の万葉調の歌人として知られ、藤原定家に師事しました。
 家集に『金槐和歌集』。
・右大臣拝賀の儀の帰途、鶴岡八幡宮境内で甥の公卿に暗殺されました。

源頼家・実朝の系図
 源頼家・実朝の系図.jpg

「源頼家」の主な功績やその時代の出来事
 ・源頼家は、妻の父である「比企能員」との関係を深めたため、北条時政や北条政子と
  対立していました。
 ・1203年5月、頼家が、頼朝の弟阿野全成を謀反の疑いで捕え、6月に殺害しました。
  全成の妻阿波局は、実朝の乳母で、北条政子の妹。
 ・1203年9月の「比企氏の乱」の後、将軍職を引退させられ、伊豆修禅寺に幽閉されま
  した。
  ※「比企氏の乱」については、「鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1203年9月2日)を読む(20)」を参照。

伊豆修禅寺の「源頼家の墓」
 修禅寺源頼家の墓.JPG

 源頼家の墓.JPG

「源実朝」の主な功績やその時代の出来事
 ・源実朝が第3代将軍に就任してから、北条氏の執権政治が始まり、やがて得宗専制
  政治へと発展していきました。

「源実朝」の主な功績やその時代の出来事
1203年、第3代将軍に就任・1203年9月に、源頼朝の二男千幡に実朝の名を与え、征夷大将軍に任ずる宣旨が鎌倉に到着しました。
1205年、畠山重忠の乱・北条時政の後妻牧ノ方の女婿平賀朝雅が、畠山重保と口論したことを契機として、畠山重忠・重保親子が北条時政の命を受けた幕府軍に討たれました。
1211年、鴨長明が鎌倉に下向・飛鳥井雅経の供として鎌倉に下向してきて、3代将軍源実朝と面談しました。
・源頼朝の忌日にあたるとして、その墳墓堂である法華堂に参り、和歌一首を堂の柱に記しました。
「大慈寺」創建・1212年、源実朝が父頼朝への感謝のために建てた寺です。
・1214年に、大がかりな供養が行われ、北条政子と源実朝が参列しました。
1213年、和田合戦・和田義盛とその一族が、北条氏打倒をめざして挙兵しましたが、敗れました。
・将軍御所を攻められた源実朝は、頼朝法華堂に避難しました。
わが国最初の茶書『喫茶養生記』・1214年、壽福寺長老の栄西が、二日酔いに悩む源実朝に対し、良薬と称して茶を勧め、また「茶徳を誉むるところの書」一巻を献上しました。
唐船の建造・1216年、源実朝が宋の医王山参詣のため、宋人陳和卿に唐船の建造を命じました。
・唐船は、翌年4月に完成したものの、なぜか進水には失敗しました。
「実朝祭」(鶴岡八幡宮白旗神社)
(8月9日)
源実朝ゆかりの祭は、「実朝祭」の他に、10月28日に和歌などの文芸の才能にちなんで催される「白旗神社文墨祭」があります。
歌ノ橋(二階堂)・1213年、謀反の罪で捕えられた渋川刑部六郎兼守は、無実の罪を晴らすために十首の和歌を詠み荏柄天神社に奉納しました。
・将軍源実朝は、その和歌を見て感心し、罪を許し釈放したので兼守は死刑を免れました。
 そのお礼にと荏柄天神社の参道近くにこの橋を架けたので、歌ノ橋と呼ばれるようになりました。
1219年、源実朝の暗殺・鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の式に出て退出の際、甥の鶴岡八幡宮別当公暁によって殺害されました。
・公暁も乳母の夫三浦義村のもとへおもむく途中に殺され、頼朝の源家は断絶するところとなりました。

「大慈寺跡」の石碑
大慈寺跡石碑.JPG大慈寺は、建暦二年(1212)源実朝が創建し新御堂といいます。建保二年(1214)7月27日に大供養が行われ、尼御台政子及び将軍実朝が格式のある儀礼にて参列しました。
その後、正嘉元年(1257)、征夷大将軍宗尊親王の時、本堂、丈六堂、新阿弥陀堂、釈迦堂、三重ノ塔、鐘楼等ことごとく修理され、その美しさは創建当時以上であると東鑑(吾妻鏡)に記載されています。当時の盛観さを想い描くことができます。その後700年過ぎた現在、壮麗であったこの地は一片の礎石をも見付けることができません。桑滄の変化を思うところです。

鎌倉国宝館前の「源実朝の歌碑」
 ・関東大震災で倒壊した二ノ鳥居に刻まれた歌碑があります。
 『山はさけ うみはあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも』
 国宝館前源実朝歌碑.JPG

鎌倉海浜公園(坂ノ下)の「源実朝の歌碑」
 ・百人一首でおなじみの歌の歌碑があります。
 『世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟の つなでかなしも』
 坂ノ下源実朝歌碑.JPG

鶴岡八幡宮白旗神社の近くの源実朝を偲ぶ「菅裸馬の句碑」
 『歌あはれ その人あはれ 実朝忌』
 菅裸馬句碑.JPG

「源実朝の墓」(壽福寺境内)
 壽福寺源実朝の墓.JPG

 
posted by トシ999 at 08:00| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする