
「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。
今回は「
御家人・和田義盛」です。
まだまだ、たくさんの人がいると思いますが、これで「
鎌倉ゆかりの人物」の紹介は終ります。
◎
和田義盛(1147〜1213年) ・鎌倉幕府初代の侍所別当。
・三浦氏の一族で、平家追討や奥州合戦に参加し、
源頼朝に信頼されました。
・1213年、北条義時と対立した
和田合戦で敗れ、一族は滅亡。
・江ノ電和田塚駅の南側に「
和田一族の墓」があり、「
和田塚」と呼ばれています。
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和田義盛の系図>

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和田義盛の動向>
・1180年、源頼朝の鎌倉入りに大いに貢献し、最初に設置された侍所の別当が
和田義盛 です。
・1189年、奥州から藤原泰衡の使者が源義経の首を腰越浦に持参したときに、満福寺で
和田義盛・梶原景時がこれを実検したといいます。
・源頼家が2代将軍になると
義盛は宿老として十三人の合議制の一員となりました。
・「比企氏の乱」や「畠山重忠の乱」などの御家人の乱では、北条氏に味方しました。
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「和田合戦」の経緯と遺跡>
・
和田義盛の軍勢は、現在の清泉小学校付近に位置していた大倉御所を、南門から攻撃
しました。
・
義盛の子の「
朝比奈三郎義秀」の軍勢が、大倉御所に突入して放火したため、御所は
焼失しました
・翌日には、由比ヶ浜や若宮大路で戦闘が行われましたが、従兄弟の
三浦義村の裏切り
もあって、
義盛らが戦死して、和田方の敗北により合戦は終結しました。
※「和田合戦」の詳細は「
鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1213年5月2日)を読む(23)」を参照。
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北条氏に滅ぼされた御家人>
・梶原景時→比企能員→畠山重忠→
和田義盛と、有力者が排除されていきました。
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朝夷奈切通の伝説>
・
和田義盛の三男で豪傑だった
朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたとの伝承が存在
し、朝比奈峠の名の起こりとなっています。


鎌倉七口の一つで、鎌倉より六浦へ通じる重要な道で、大切通、小切通の二つがあります。土地の人の話では、
朝夷奈三郎義秀が、一夜の内に切り抜いたのでその名前が付いたと伝えられています。
東鑑(吾妻鏡)によると、仁治元年(1240)十一月に、鎌倉六浦間の道路を切開くことが決まり、翌二年(1241)四月に工事が開始され、執権北条泰時もそこに出かけて監督しており、多くの人が集まって土石を運んだことが書かれています。
この切通は、その当時に開通したものと思われます。

11月25日(日)は、鎌倉検定の日です。
受験される方には、健闘をお祈りいたします。
posted by トシ999 at 08:00|
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