2017年07月25日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1327年8月)を読む(19)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「瑞泉寺の起源」です。
(32)嘉暦2年(1327)8月
 夢窓疎石が端泉院を建立する。
 疎石は、かつて建長寺・円覚寺で一山一寧に参禅したこともあったが、その後、甲斐・美濃・京・土佐と転々とすごしていた。北条高時の母覚海尼が、疎石の高名を聞き、懇請して鎌倉に遇する。
 その後、まもなく、疎石は後醍醐天皇に招かれて、京都の南禅寺に滞在するが、再度、高時の懇請で鎌倉に入り、このたび二階堂の地に瑞泉院を建てる。これが瑞泉寺の源になる。
 翌年、疎石は、寺域にあらたに観音堂や山頂に徧界一覧亭をもうける。

夢窓疎石(夢窓国師)(1275〜1351年)
 足利尊氏らの信仰が厚く、瑞泉寺の開山に迎えられた後、京都・天龍寺などの開山ともなる。
 造園の設計でも知られ、五山文学の発展にも寄与した。

 ※円覚寺には、五山文学の隆盛に貢献した夢窓疎石の塔頭「黄梅院」があります。
  「黄梅院」は、のちに足利義詮の遺骨が分骨され、足利氏の菩提寺の性格も帯びました。

瑞泉寺本堂には、右に開山「夢窓国師像」が祀られています
瑞泉寺本堂内説明板.JPG

 瑞泉寺本堂内部.JPG

 夢窓国師像.JPG

錦屏山瑞泉寺
 「足利基氏」をはじめ、代々の鎌倉公方の菩提寺として、塔頭も十を超え、関東十刹第一位の格式を誇りました。
本堂
 瑞泉寺本堂.JPG

国の名勝「瑞泉寺庭園」:「徧界一覧亭」は、この岩崖の上の方にあります
 瑞泉寺庭園.JPG
 ※このお寺については、「鎌倉二階堂のお寺を見る(錦屏山)」を参照。

瑞泉寺案内板
瑞泉寺案内板.JPG

瑞泉寺境内図
瑞泉寺境内図.JPG

 
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2017年07月22日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1324年9月23日)を読む(18)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「正中(しょうちゅう)の変」です。
(30) 元亨4年(1324)9月23日
 六波羅探題への密告により、倒幕計画が発覚する(正中の変)。
 後醍醐天皇は、この日、釈明のために、勅使万里小路宣房を鎌倉に派遣する。10月には、倒幕計画に参加した日野資朝・俊基らが鎌倉に護送される。翌年、日野資朝は佐渡に配流となる。
 後醍醐天皇は、宣房の告文によって罪に問われず、虎視眈々と次の機会をうかがうことになる。

日野資朝(1290〜1332年)・日野俊基(?〜1332年)
 いずれも、1318年に即位した後醍醐天皇の親政に参加し、討幕計画に加わった公卿。
 日野家は代々天皇に仕える名家。資朝の父俊光は持明院統の重臣であったので、大覚寺統の後醍醐天皇に従った資朝に怒り、親子の縁を切ったといわれています。

後醍醐天皇(1288〜1339年)
 鎌倉時代後期から南北朝時代初期の第96代天皇。名は尊治。後宇多天皇の第2皇子。
 1318年に即位後、天皇親政を復活させ改革に努めたが、天皇政治をはばむ鎌倉幕府に敵意を抱き、日野資朝・俊基らの公卿とともに討幕計画を進めました。

 「正中の変」(1324年)と「元弘の変」(1331年)の2度の鎌倉幕府打倒計画は失敗に終わったが、流罪から復帰して、1333年、鎌倉幕府を滅亡させました。

鎌倉幕府もいよいよ大詰めです!!
鎌倉幕府滅亡までの権力者の変遷
・将軍の推移 久明親王→1308年「守邦親王」  
・執権の推移 北条高時→→→→1326年2月「金沢貞顕」→1326年4月「赤橋守時」  
・天皇の推移 花園天皇→→1318年「後醍醐天皇」  

 ※「守邦親王」は、将軍在位期間が最長の25年です。
 ※「金沢貞顕」は、執権在任期間が最短の2ヶ月です。
  →「鎌倉検定−蒙古の襲来(1285年11月17日)を読む(10)」を参照。

 
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2017年07月21日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1316年7月10日)を読む(17)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「北条高時の第14代執権就任」です。
(27)正和5年(1316)7月10日
 北条高時が執権となる。
 応長元年(1311)北条貞時が死去した時、嫡子の高時はまだ9歳であった。貞時は、得宗高時の後見を、内管領長崎円喜と安達時顕(高時の舅)に託した。その後、執権は北条一族の大佛宗宣、煕時、基時と推移したが、これはあくまで高時の成長を待っての暫定的な措置であった。
 高時が14歳となったこの年、正式に執権として就任したのであるが、政務の実権は、長崎氏らが掌握することになる。

北条高時(1303〜1333年)
 第14代執権。9代執権北条貞時の子。
 父と同じ14歳で執権となったが、実権は長崎円喜、高資父子、安達時顕が握っていた。
 そのため、闘犬、田楽、飲酒などにふけり、政治をおろそかにしました。

宝戒寺 徳崇大権現堂
 北条高時は、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇から「徳崇大権現」という神号を下賜され、宝戒寺本堂右前にある徳崇大権現堂に祀られています。
 徳崇大権現.JPG

長崎円喜(?〜1333年)
 北条高時の執権就任と同時に内管領となりました。
 子高資(たかすけ)とともに幕府の実権を掌握、鎌倉幕府滅亡時に自刃しました。

文保元年(1317年)の「文保の和談」
 後嵯峨天皇以降、朝廷は皇位をめぐり、両統迭立による「持明院統」と「大覚寺統」の対立抗争が長期化していました。
 幕府は、「持明院統」と「大覚寺統」に対して、仲裁案を提案し、今後の皇太子の順序を示唆するも不調に終わっています。(この時は、花園天皇の時代)

皇室関係図(後醍醐天皇まで)
 皇室関係図.jpg

北条師時から高時までの執権の推移
 北条師時から高時の系図.jpg
 
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