2017年06月02日

鎌倉の観光客数―2016年はどうだったか?

鎌倉の観光客は、平日でも多く、年々増えているような気がします。
  統計上はどうでしょうか。2016年(平成28)全体としては増えているのでしょうか?

 2016年(平成28)、鎌倉の延入込観光客数2128万人と発表されました。
 2015年(平成27)年は、2292万人でしたので、164万人下回っているということでした。

 減少した主な要因は、平成27年に公開された鎌倉を舞台とした映画の影響で平成27年は観光客数が増大し、相対的に平成28年が減少したこと、及び熊本地震よる旅行客の減少によるものと思われるとのことです。

 市から発表された「場所別観光客数のベスト5」は、次の通りです。
 1 鶴岡八幡宮  1184万人 
 2 各寺社(有料)合計   582万人 
 3 鎌倉海岸   164万人 
 4 銭洗弁財天   120万人 
 5 天園ハイキングコース      36万人 

 全体で2000万人を維持しましたが、2013年(平成25)年は、2308万人でしたので、今後どうなっていくのでしょうか。

場所別観光客数の推移
2016観光客数.jpg

 
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2017年05月31日

鎌倉検定−天変地異起こる(1266年7月4日)を読む(17)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「宗尊親王の京都送還」です。
(41)文永3年(1266)7月4日
 宗尊親王が将軍を廃され、京都に送還される。
 宗尊の妻近衛宰子と護持僧良基の密通事件を受けて、6月20日に時宗邸で、北条時宗・北条政村・金沢実時・安達泰盛による「深秘の御沙汰」が行われる。
 23日には鎌倉で騒動。7月4日に、名越教時は軍兵数十騎を率いて宿所に駆けつけ、時宗に制せられる。
 宗尊は、4日に鎌倉を出発して、20日に京都に到着する。
 7月24日、宗尊の子惟康親王が将軍に任官する。

宗尊親王(1242〜1274年)
 将軍就任は、「鎌倉検定−天変地異起こる(1252年4月1日)を読む(14)」で紹介したとおりです。
 5代執権北条時頼の時に、13歳で将軍として鎌倉に入ってから14年、8代執権時宗の時代にその座を追われました。
 その後の将軍の継承は、「宗尊親王→惟康親王→久明親王→守邦親王」で、次の通りの系図になっています。
将軍の系図
 将軍系図.jpg

本蓮寺(藤沢)
 595年創建。日蓮宗。藤沢市片瀬にあり、「龍口寺輪番八ヶ寺」の一つ。
 1400年以上の歴史を持ち、源頼朝、日蓮、西行、宗尊親王にゆかりのある歴史的な古刹です。
 本蓮寺(藤沢).JPG
 ※「龍口寺輪番八ヶ寺」については、「龍口寺輪番八ヶ寺の「常立寺」の梅は 2017.2」を参照。

「宗尊親王の歌碑」があります
 宗尊親王が、解任されて、帰京の途で読んだ歌です。
 宗尊親王歌碑1.JPG

 「帰り来て又見ん事も固瀬川 濁れる水のすまぬ世なれば
 宗尊親王歌碑2.JPG

上杉重房
 藤原重房は、1252年、宗尊親王に従って鎌倉に下向しました。そして、京都の上杉に領地をもらったので名前を上杉としました。
 上杉重房から3代目の憲顕が、1363年、鎌倉公方の補佐役として「関東管領」に任じられて以降、上杉氏が世襲しました。
 「上杉重房」――頼重――憲房――「憲顕」 



これで、「第一部 鎌倉幕府の興亡 第二章 天変地異起こる」は終わりです。
次回から、「第三章 蒙古の襲来」を読みます。

 
posted by トシ999 at 17:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月29日

鎌倉検定−天変地異起こる(1260年7月16日)を読む(16)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「松葉ヶ谷法難」です。
(38)文応元年(1260)7月16日
 日蓮が『立正安国論』を北条時頼に提出する。『立正安国論』は、法華経の信仰や念仏の禁止による国土の安穏を説いたもの。
 日蓮は、宿屋西信を介して、『立正安国論』を前執権で得宗の北条時頼に提出するが、日蓮の献策は幕府に受け入れられなかった。
 この後、日蓮は、松葉ヶ谷の草庵を襲撃され(松葉ヶ谷法難)、翌年5月には、伊豆国の伊東に流される。

日蓮(1222〜1282年)
 日蓮宗の開祖。過激な他宗批判、政治批判を行い、4回の法難に会いました。
 1253年、日蓮は安房国から名越切通を越えて鎌倉に入り、その地「松葉ヶ谷」に庵を結びました。それが、「安國論寺」とも「妙法寺」ともいわれていますが、はっきりしません。

 「松葉ヶ谷法難」は、「日蓮四大法難」の最初の法難です。
 ※「日蓮の「松葉ヶ谷の法難」を知る」を参照。

日蓮四大法難
松葉ヶ谷法難
(1260年)
 
北条時頼へ「立正安国論」を提出し、宗教政策の転換を促す内容であったため、松葉ヶ谷の草庵にいた日蓮が念仏者に夜間襲撃され、草庵を焼き討ちにされた事件。
伊豆法難
(1261年)
 
伊豆へ流罪となった日蓮が、伊豆に到着前に伊東沖の「まないた岩」という岩礁に置き去りにされたが、漁師の舟守弥三郎に助けられた事件。
のちに舟守弥三郎の子(一説には本人)が、鎌倉で妙長寺(材木座)を創建。
小松原法難
(1264年)
 
日蓮一行が小松原(現千葉県鴨川市)に差し掛かった際に、襲撃された事件。
龍ノ口法難
(1271年)
 
日蓮が平頼綱によって捕えられ、龍ノ口刑場(現藤沢市)に護送されたが、江ノ島方面から光が発せられ、討手の太刀が折れるなどの怪奇現象が起きたため、奇跡的に処刑は免れ、佐渡流罪となった事件。

妙法華経山安國論寺(大町)
 1253年創建。開山は日蓮。
 安國論寺山門.JPG
 ※このお寺については、「鎌倉大町のお寺を見る(妙法華経山)」を参照。

楞厳山妙法寺(大町)
 1253年創建。日蓮が草庵を結んだ地で、「松葉ヶ谷法難」の舞台となった地の一つ。
 1357年、日叡が、亡き父、護良親王の菩提を弔い、寺を再興した。
 妙法寺山門.JPG
 ※このお寺については、「鎌倉大町のお寺を見る(楞厳山(りょうごんざん))」を参照。

四条山収玄寺(長谷)
 1271年の「龍ノ口法難」の際に、日蓮とともに殉死の覚悟を決した四条金吾の屋敷跡です。
 収玄寺境内.JPG
 ※このお寺については、「鎌倉長谷のお寺を見る(四条山)」を参照。

行時山光則寺(長谷)
 1274年創建。開基は宿谷光則。開山は日朗。
 宿谷光則は、北条時頼の家臣で、日蓮が迫害を受け佐渡流罪になったとき、ともに捕えられた日朗を、自宅のあったこの地で監視する任につきました。
 自らの不運を嘆くことなく弟子の身を案ずる日蓮に心打たれ、のちに帰依して自邸を寺にしました。
 光則寺山門.JPG
 ※このお寺については、「鎌倉長谷のお寺を見る(行時山)」を参照。

石井山長勝寺(材木座)
 日蓮宗。1263年創建。
 日蓮に帰依していた石井藤五郎長勝が、流されていた伊豆から鎌倉に戻った日蓮のために結んだ庵が寺の起源。
 長勝寺境内.JPG
 ※このお寺については、「鎌倉材木座のお寺を見る(石井山)」を参照。

 
posted by トシ999 at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする