2018年11月21日

鎌倉ゆかりの人物―源頼家・実朝のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「源頼家・実朝兄弟」です。

源頼家
1182
 〜1204年
・鎌倉幕府2代将軍。源頼朝の長男。
・1199年、頼朝の死後、嫡男頼家が頼朝の遺跡を相続するが、正式に征夷大将軍に任じられるのは、1202年のことです。
・家督を継いでも、実権は北条氏に掌握され、最後は伊豆修禅寺に幽閉され、後に暗殺されました。
源実朝
1192
 〜1219年
・鎌倉幕府3代将軍。源頼朝の次男で、頼家の弟。
・鎌倉時代前期の万葉調の歌人として知られ、藤原定家に師事しました。
 家集に『金槐和歌集』。
・右大臣拝賀の儀の帰途、鶴岡八幡宮境内で甥の公卿に暗殺されました。

源頼家・実朝の系図
 源頼家・実朝の系図.jpg

「源頼家」の主な功績やその時代の出来事
 ・源頼家は、妻の父である「比企能員」との関係を深めたため、北条時政や北条政子と
  対立していました。
 ・1203年5月、頼家が、頼朝の弟阿野全成を謀反の疑いで捕え、6月に殺害しました。
  全成の妻阿波局は、実朝の乳母で、北条政子の妹。
 ・1203年9月の「比企氏の乱」の後、将軍職を引退させられ、伊豆修禅寺に幽閉されま
  した。
  ※「比企氏の乱」については、「鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1203年9月2日)を読む(20)」を参照。

伊豆修禅寺の「源頼家の墓」
 修禅寺源頼家の墓.JPG

 源頼家の墓.JPG

「源実朝」の主な功績やその時代の出来事
 ・源実朝が第3代将軍に就任してから、北条氏の執権政治が始まり、やがて得宗専制
  政治へと発展していきました。

「源実朝」の主な功績やその時代の出来事
1203年、第3代将軍に就任・1203年9月に、源頼朝の二男千幡に実朝の名を与え、征夷大将軍に任ずる宣旨が鎌倉に到着しました。
1205年、畠山重忠の乱・北条時政の後妻牧ノ方の女婿平賀朝雅が、畠山重保と口論したことを契機として、畠山重忠・重保親子が北条時政の命を受けた幕府軍に討たれました。
1211年、鴨長明が鎌倉に下向・飛鳥井雅経の供として鎌倉に下向してきて、3代将軍源実朝と面談しました。
・源頼朝の忌日にあたるとして、その墳墓堂である法華堂に参り、和歌一首を堂の柱に記しました。
「大慈寺」創建・1212年、源実朝が父頼朝への感謝のために建てた寺です。
・1214年に、大がかりな供養が行われ、北条政子と源実朝が参列しました。
1213年、和田合戦・和田義盛とその一族が、北条氏打倒をめざして挙兵しましたが、敗れました。
・将軍御所を攻められた源実朝は、頼朝法華堂に避難しました。
わが国最初の茶書『喫茶養生記』・1214年、壽福寺長老の栄西が、二日酔いに悩む源実朝に対し、良薬と称して茶を勧め、また「茶徳を誉むるところの書」一巻を献上しました。
唐船の建造・1216年、源実朝が宋の医王山参詣のため、宋人陳和卿に唐船の建造を命じました。
・唐船は、翌年4月に完成したものの、なぜか進水には失敗しました。
「実朝祭」(鶴岡八幡宮白旗神社)
(8月9日)
源実朝ゆかりの祭は、「実朝祭」の他に、10月28日に和歌などの文芸の才能にちなんで催される「白旗神社文墨祭」があります。
歌ノ橋(二階堂)・1213年、謀反の罪で捕えられた渋川刑部六郎兼守は、無実の罪を晴らすために十首の和歌を詠み荏柄天神社に奉納しました。
・将軍源実朝は、その和歌を見て感心し、罪を許し釈放したので兼守は死刑を免れました。
 そのお礼にと荏柄天神社の参道近くにこの橋を架けたので、歌ノ橋と呼ばれるようになりました。
1219年、源実朝の暗殺・鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の式に出て退出の際、甥の鶴岡八幡宮別当公暁によって殺害されました。
・公暁も乳母の夫三浦義村のもとへおもむく途中に殺され、頼朝の源家は断絶するところとなりました。

「大慈寺跡」の石碑
大慈寺跡石碑.JPG大慈寺は、建暦二年(1212)源実朝が創建し新御堂といいます。建保二年(1214)7月27日に大供養が行われ、尼御台政子及び将軍実朝が格式のある儀礼にて参列しました。
その後、正嘉元年(1257)、征夷大将軍宗尊親王の時、本堂、丈六堂、新阿弥陀堂、釈迦堂、三重ノ塔、鐘楼等ことごとく修理され、その美しさは創建当時以上であると東鑑(吾妻鏡)に記載されています。当時の盛観さを想い描くことができます。その後700年過ぎた現在、壮麗であったこの地は一片の礎石をも見付けることができません。桑滄の変化を思うところです。

鎌倉国宝館前の「源実朝の歌碑」
 ・関東大震災で倒壊した二ノ鳥居に刻まれた歌碑があります。
 『山はさけ うみはあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも』
 国宝館前源実朝歌碑.JPG

鎌倉海浜公園(坂ノ下)の「源実朝の歌碑」
 ・百人一首でおなじみの歌の歌碑があります。
 『世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟の つなでかなしも』
 坂ノ下源実朝歌碑.JPG

鶴岡八幡宮白旗神社の近くの源実朝を偲ぶ「菅裸馬の句碑」
 『歌あはれ その人あはれ 実朝忌』
 菅裸馬句碑.JPG

「源実朝の墓」(壽福寺境内)
 壽福寺源実朝の墓.JPG

 
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2018年11月20日

鎌倉ゆかりの人物―源頼朝のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「鎌倉幕府初代将軍・源頼朝」です。

源頼朝
1147
〜1199年
・父は、源義朝、母は、藤原季範(熱田神宮の長官である大宮司)の娘。
・1159年に平治の乱で敗れ、伊豆蛭ヶ小島に流されたが、平家打倒の兵を挙げ、1185年、壇ノ浦で平家を滅亡させました。
・守護、地頭を設置、奥州藤原氏を滅亡させ、1192年に征夷大将軍。
・最初の妻は伊豆の豪族伊東祐親の娘。正妻は北条時政の長女北条政子。

源頼朝の系図
 源頼朝の父母妻子の系図.jpg

「源頼朝」の主な功績やその時代の出来事
1180年、鶴岡八幡宮寺遷移源頼朝は、かつて源頼義が創建した鶴岡若宮(由比若宮)を小林郷松ヶ岡に移しました。
1180年、最初の幕府「大倉幕府」・鎌倉幕府は鶴岡八幡宮の東側、大倉の地(現在の「清泉小学校」付近)に置かれました。
・「大倉幕府」は、1180年から宇津宮辻子に移転する1225年までの45年間、この地にありました。
1182年、「段葛」造営源頼朝が妻政子の安産を願い、鶴岡八幡宮社頭から由比浦まで一直線の参道(若宮大路)を造りました。
・頼朝自身がこれを指揮し、北条時政以下の人々も土石を運んだといいます。
1184年、「問注所」開設 ・訴訟を裁許(判決)する「問注所」の近くには、その名に由来する裁許橋があります。
・裁許橋は、1186年、西行が鎌倉に来たときの逸話を基に、別名「西行橋」ともいわれています。
「三大寺院」建立
・鶴岡八幡宮
・勝長寿院
・永福寺
・1191年、火災で焼けた「鶴岡八幡宮」を現在のような上下両宮の姿に再建しました。
・1185年、「勝長寿院」を建立し、平治の乱で敗死した父義朝の菩提を弔いました。
・平泉の藤原泰衡や源義経をはじめとする内乱での戦死者の鎮魂と慰霊のため、平泉中尊寺の二階大堂(大長寿院)を模して「永福寺」を創建し、1194年、中心伽藍が完成しました。
「白山神社」(今泉)創建 ・1191年、京都の鞍馬寺を詣でた源頼朝が、行基作といわれる毘沙門天像を賜り、今泉の地に勧請して創建しました。
補陀洛寺(材木座)・1181年、源頼朝の祈願所として創建されました。
・開山は文覚。
・江戸時代、たびたび竜巻に襲われたため、別名竜巻寺といいます。
随我山来迎寺(材木座)・1194年、源頼朝が三浦大介義明の菩提を弔うため、建立した真言宗能蔵寺がはじまりです。
・1335年、音阿上人が時宗に改宗し、現在の名前に改名しました。
大巧寺門前の「頼朝戦評定所」の石碑源頼朝がこの寺で軍議のあと、大勝を収めたことにちなみます。
国宝「籬菊螺鈿蒔絵硯箱」(鶴岡八幡宮)源頼朝が鶴岡八幡宮に奉納したと伝えられる硯箱で鎌倉時代を代表する漆工品の一つ。
後白河法皇から下賜されたともいわれます。
手斧始式(鶴岡八幡宮)
(1月4日)
・1191年の大火で焼けた社殿を源頼朝が再建する際、船から上げられた用材を由比ヶ浜より運んで木造りしたという御柱引きの故事に因む神事。
除魔神事(鶴岡八幡宮)
(1月5日)
源頼朝が幕府において「御的始」「御弓始」と称して行った武家の事始めを起源とします。
・大的の裏に「」という字を封じ込めて矢を射ることから、「大的式」とも呼ばれます。
御鎮座記念祭(鶴岡八幡宮)
(12月16日)
・1191年11月21日、大火後の再建にあたり、石清水八幡宮の神霊を迎える儀式を執り行いました。
この時、京都より招かれた楽人・多好方が「宮人曲」を唱えたところ、神感の瑞相があり源頼朝の感激はひとしおであったと伝えられています。
草鹿(鎌倉宮)
(5月5日)
・1194年、源頼朝が富士の裾野で巻狩を催した際、草を束ねて鹿の形を作り、稽古したのが起源。
・古式に則り2 組に分かれて鹿の形をした的に向かって矢を放ち、合計点数を競うもの。勝ち組の大将には神職から菖蒲が授与されます。
白旗神社(西御門)・祭神は源頼朝。古くは頼朝を祀る法華堂がありました。法華堂の創建は1189年。
・1月13日には、白旗神社例祭が行われます。
源頼朝の墓・1199年1月、源頼朝が死去(53歳)。
・4月13日に源頼朝公墓前祭が行われます。
・白旗神社(西御門)奥の山上に、鎌倉石の多層塔の「源頼朝の墓」があります。

11月の「鶴岡八幡宮本宮(上宮)」
 鶴岡八幡宮.JPG

「問注所旧蹟」の石碑
問注所旧蹟石碑.JPG元暦元年、源頼朝は、大蔵幕府の建物の東西の庇の所を訴訟の受付、裁断する所とする。これを問注所といった。

問注所には人々が群れ集まって、時には喧騒になることもあった。そこで、二代将軍頼家は、正冶元年、問注所を大蔵幕府の外に遷した。

この地が、即ちその問注所があった所である。

「白旗神社」(西御門)と「頼朝の墓」
 白旗神社.JPG

 源頼朝の墓.JPG

源頼朝にまつわる伝説
挙兵をすすめるかくれ里の稲荷・佐助稲荷・伊豆蛭ヶ小島に流されていた源頼朝は、挙兵をすすめる「かくれ里の稲荷」という神霊の託宣に従って挙兵したことから、畠山重忠に命じてその里で見つけた祠に社を建てさせたという。
隠れ里に湧く霊水・銭洗水・1185年巳年、巳の月、巳の日、巳の刻、宇賀福神が翁の姿で源頼朝の夢枕に立ち、そのお告げで発見した泉という。
(その後、北条時頼の銭洗いの伝説につながります。)
衣張山 源頼朝は、暑い夏のある日、この山を「白い絹」で覆わせ、雪山に見せることによって涼を楽しんだという。
目に魚の鱗をはめ込んだ男 ・「永福寺」建設の様子を見に出かけた源頼朝は、ふところに刀をしのばせ、左の眼には魚の鱗をはめ込み盲目を装っていた男を捕えた。
・上総五郎兵尉忠光と名乗り、頼朝の命を狙っていたことを白状したため処刑されたという。

 
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2018年11月15日

鎌倉ゆかりの人物―前田利為のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「旧加賀藩前田家16代当主・前田利為」です。

前田利為(1885〜1942年)
 ・貴族院議員を経て、陸軍大将となりました。
 ・鎌倉別邸が火災で焼失したため、洋風に改築。
  邸宅は後に鎌倉市に寄贈され、鎌倉文学館となりました。

「鎌倉文学館」(長谷)の説明板
 鎌倉文学館説明板.JPG
 この建物は、昭和11年(1936)旧加賀藩主前田家第16代当主前田利為(としなり)
氏が建築したもので、相模湾を見下ろす谷戸の中腹に位置しており、当時の鎌倉の
別荘建築を代表する建物の一つです。ノーベル平和賞受賞の佐藤栄作元首相が別荘
として利用したほか、作家三島由紀夫の小説「春の雪」の一場面として登場しています。
昭和58年(1983)7月、前田家より鎌倉市が譲り受け、昭和60年(1985)11月に
鎌倉文学館として公開されました。平成12年(2000)4月、国の登録有形文化財となりました。 

「鎌倉文学館」へのアプローチを本来の建物の「正門」付近で振り返り見る
 鎌倉文学館へのアプローチ1.JPG

 建物正門.JPG

「鎌倉文学館」への入館入り口
 鎌倉文学館へのアプローチ2.JPG

源頼朝が鶴を放ったという故事に由来する「招鶴洞」
 招鶴洞.JPG

「鎌倉文学館」の建物全景
 鎌倉文学館.JPG

5月のバラ園から見る「鎌倉文学館」
 バラ園からの鎌倉文学館1.JPG

 バラ園からの鎌倉文学館2.JPG

 バラ園からの鎌倉文学館3.JPG

 バラ園からの鎌倉文学館4.JPG

 
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