2017年09月21日

鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1438年6月)を読む(11)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「永享の乱」です。
(31)永享10年(1438)6月
 足利持氏の子賢王丸が鶴岡八幡宮で元服する。上杉憲実は持氏に対して、先例に従い室町将軍の偏諱を請うように勧める。
 しかし持氏は聞き入れず、将軍の通字を入れて「義久」と名付ける。
 8月、持氏が上野に退避した憲実を討とうとするに至って、幕府は持氏討伐を決定する。
 後花園天皇に治罰の綸旨と錦旗を要請し、駿河守護今川範忠・陸奥篠川御所満直らに出兵を命じる(永享の乱)。

永享の乱
 京都と鎌倉の関係は、最悪の事態を迎えました。
 賢王丸元服に際しては、将軍足利義教の「教」を付けた名前にしなければなりませんでした。
 永享11年(1439)2月10日、足利持氏は、幕府軍との戦いに敗れ、自害しました。

足利持氏の第4代鎌倉公方時代の事件簿
1409年 
1411年 
1415年 
1416年 
1418年 
1419年 
1422年 
1428年 
1434年 
1435年
1438年
1439年
持氏が鎌倉公方就任。
関東管領に、上杉憲定→上杉氏憲(禅秀)へ。
関東管領に、上杉氏憲→上杉憲基へ。
上杉禅秀の乱」。翌年、足利満兼・上杉禅秀が自害。
関東管領上杉憲基が死去し、養子の憲実が後を継ぐ。
関東管領に上杉憲実
持氏が京都扶持衆を討伐する。
持氏が京都進撃を計画したが、憲実に止められる。
持氏が鶴岡八幡宮に血書願文を捧げ、関東支配を祈願する。
持氏が陸奥の篠川御所足利満直に対して討伐軍を派遣する。  
永享の乱」。持氏が憲実を討とうとしたため、幕府は、持氏討伐を決定する。  
持氏は幕府軍との戦いに敗れ、自害する。
京都扶持衆:鎌倉公方の指揮下にありながら京都の幕府と通じ、支援を受けていた武士たち。

別願寺にある「足利持氏の供養塔」
 1282年、公忍が一遍に帰依し、真言宗から時宗に改宗し、「別願寺」としました。
 「別願寺」は、足利一族が信仰し、鎌倉公方代々の菩提寺として栄えました。
 ここに大きな石の宝塔の「足利持氏の供養塔」があります。
 別願寺足利持氏供養塔.JPG
 この供養塔には、持氏の怒りを静めるために四方に鳥居の浮彫りがあります。
 持氏供養塔鳥居.JPG

「永享の乱」の後の混乱
 ・鎌倉公方と関東管領が空位になりました。
 ・持氏の遺児安王丸・春王丸を擁して「結城氏朝」が反乱するも、幕府軍に討たれました。(結城合戦
 ・京都では、赤松満祐が、将軍足利義教を暗殺しました。(嘉吉の乱

 
posted by トシ999 at 14:13| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月20日

鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1416年10月2日)を読む(10)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「上杉禅秀の乱」です。
(22)応永23年(1416)10月2日
 足利満隆と上杉禅秀が足利持氏に反乱を起こす(上杉禅秀の乱)。
 鎌倉を奪われた持氏と上杉憲基は、駿河守護今川範政を頼る。幕府は、範政と越後守護上杉房方らを禅秀討伐のために派遣する。
 これによって、はじめ劣勢であった持氏方は息を吹き返し、禅秀の乱は翌応永24年正月、発生後3ヶ月あまりで終結する。
 満隆・禅秀ともに自害し、持氏は同月17日に鎌倉に帰還する。

足利満隆と上杉禅秀
 ・「足利満隆」は、3代鎌倉公方「足利満兼」の弟です。
 ・「上杉禅秀」は、犬懸家の「上杉朝宗」の子で、「上杉氏憲」のこと。法名を「禅秀」といいます。
  1411年に関東管領に就任し、若年であった「足利持氏」を補佐したが、持氏が山内家の上杉憲基を重用することに不満を募らせ、1415年、関東管領を辞任しています。
 関東管領は、上杉憲基が就任しています。

山内上杉家・犬懸上杉家の系図
 上杉家 山内・犬懸家の系図.jpg

浄明寺にある「上杉朝宗及氏憲邸址」の石碑
上杉朝宗及氏憲邸址の石碑.JPG上杉朝宗」は、足利氏満、満兼に仕え、出家してからは禅助といいました。
人々は、犬懸の管領(かんれい:将軍代理職)といいました。

その子の「上杉氏憲」が跡を継いで持氏の執事となり、出家してからは「禅秀」といいました。
しかし、持氏と不和になり、1416年に、氏憲は、持氏の叔父の満隆と共に計画して戦いを起したが失敗しました。
1417年1月に、一味と共に雪ノ下の鶴岡別当坊にて自害しました。
ここはその屋敷があった場所です。

 
posted by トシ999 at 17:52| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月10日

鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1409年7月22日)を読む(9)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「足利持氏の4代鎌倉公方就任」です。
S応永16年(1409)7月22日
 足利満兼が没し、子の幸王丸(持氏)が鎌倉公方となる。
 翌応永17年8月15日、足利満隆(満兼の弟)が陰謀を企てているという噂が立ち、持氏は山内の上杉憲定邸に移る。しかし陰謀は虚説であったとして、9月3日に御所へ戻る。
 翌応永18年正月に上杉憲定が関東管領を辞し、2月9日に犬懸家の上杉氏憲(法名禅秀。朝宗の子)が関東管領となる。

足利持氏(1398〜1439年)
 足利満兼の子で、第4代鎌倉公方。
 京都の将軍と鎌倉公方の対立は、足利氏満の時代にすでに始まっていたが、持氏の時代には、幕府側との対立は深刻化していきました。

稲荷山別願寺(大町)
 時宗。開山は覚阿公忍。
 1282年、公忍が一遍に帰依し、真言宗から時宗に改宗し、能成寺の寺号を、「別願寺」としました。
 鎌倉における時宗の中心となり、室町時代には足利一族が信仰し、鎌倉公方代々の菩提寺として栄えました。
 鎌倉三十三観音霊場の13番札所で、魚藍観音が祀られています。
 →「鎌倉三十三観音霊場めぐり」を参照。

本堂と扁額
 別願寺.JPG

 別願寺扁額.JPG

4月下旬から5月上旬には、フジがみごろです
 別願寺フジ.JPG

上杉氏憲(禅秀)(?〜1417年)
 犬懸上杉家の「上杉朝宗」の子。
 関東管領として、若年であった「足利持氏」を補佐しました。
 しかし持氏が山内上杉家の「上杉憲基」を重用することに不満を募らせ、1415年、関東管領を辞任。
 関東管領は、「上杉憲基」が就任することになります。

山内上杉家・犬懸上杉家の系図
 上杉家 山内・犬懸家の系図.jpg

 
posted by トシ999 at 10:58| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする