2017年07月20日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1308年12月22日)を読む(16)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「鎌倉五山の先駆け」です。
(26)延慶元年(1308)12月22日
 北条貞時の申請によって、建長寺、円覚寺を定額寺とする。
 定額寺になったことによって、両寺は、北条氏の私寺から、官寺に準じる寺格となり、これがのちの鎌倉五山の制度の先駆となる。

鎌倉五山とは
・五山制度はもともと中国南宋のもので、禅寺を格付けして官が任命
した住持を順次上位の寺に昇任させる制度。
 
・五山の僧は漢詩文をよくし、鎌倉時代の後期や南北朝期を中心に
数多くの作品を残し、それらは「五山文学」と称されます。

・後醍醐天皇、足利尊氏、足利義詮が決めてきましたが、最終的には、
1342年、三代将軍「足利義満」によって現在の形になりました。

第一位 巨福山建長寺

1253年、北条時頼が創建。
※「北鎌倉のお寺を見る(巨福山)」を参照。

 右:建長寺仏殿 
建長寺仏殿.JPG
第二位 瑞鹿山円覚寺

1282年、北条時宗が創建。
※「北鎌倉のお寺を見る(瑞鹿山)」を参照。

 右:円覚寺仏殿 
円覚寺仏殿.JPG
第三位 亀谷山壽福寺

1200年、北条政子が創建。
※「鎌倉扇ヶ谷のお寺を見る(亀谷山)」を参照。

 右:壽福寺仏殿
壽福寺仏殿.JPG
第四位 金宝山浄智寺

1281年、北条宗政夫人と子の師時が創建。
※「北鎌倉のお寺を見る(金宝山)」を参照。

 右:浄智寺仏殿(曇華殿) 
浄智寺曇華殿.JPG
第五位 稲荷山浄妙寺

1188年、足利義兼が創建。
※「鎌倉浄明寺のお寺を見る(稲荷山)」を参照。

 右:浄妙寺本堂 
浄妙寺本堂.JPG

 ※創建された順序としては、「浄妙寺→壽福寺→建長寺→浄智寺→円覚寺」となります。

 
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2017年07月19日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1305年4月23日)を読む(15)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「嘉元の乱」です。
(23)嘉元3年(1305)4月23日
 連署北条時村が殺害される(嘉元の乱)。事件の張本人は北条時宗の弟宗頼の子宗方である。
 宗方は伯父時宗の猶子となり、侍所所司と内管領を兼ねていた。宗方は、貞時の命令と称して御家人らを動員して時村を討ったのである。
 貞時はこれを虚言として、逆に討手となった御家人ら12人が斬首となり、宗方も討たれた。
 宗方は、自分よりもさきに従兄弟の師時が第10代執権に就任したことに不満を持ち、師時や長老時村を殺害しようとした事件だといわれる。

北条時村(1242〜1305年)
 第7代執権北条政村の嫡男。
 幕府の要職を歴任し、甥の北条師時が10代執権になると連署に任じられて、師時を補佐する後見的立場となりました。

 北条貞時が第9代執権就任時に、六波羅北方であった長老時村は、急ぎ鎌倉へ向かったが三河で追い返されたという経緯を持つ人物です。
 →「鎌倉検定−蒙古の襲来(1284年7月7日)を読む(9)」を参照。

北条宗方(1278〜1305年)
 北条時宗の弟北条宗頼の子。
 六波羅探題北方、評定衆、引付頭人、さらには内管領など要職に就任していたが、執権職への野心を抱いていたのでしょうか?詳細は不明です。

北条師時(1275〜1311年)
 北条時宗の弟北条宗政の子。
 1301年、北条貞時の出家に伴い第10代執権に就任。連署は北条時村
 貞時の嫡男である「北条高時」が成人するまでの中継ぎ役として期待されたが、実権は貞時に握られていました。

 ※「浄智寺」は、1281年、北条宗政の菩提を弔うため、名目上はその子の北条師時らが創建となっています。
  →「北鎌倉のお寺を見る(金宝山)」を参照。

アジサイの季節の浄智寺総門前
 浄智寺総門前.JPG

北条時村・宗方・師時の系図
 北条時村・宗方・師時の系図.jpg

 
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2017年07月17日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1301年8月)を読む(14)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「円覚寺梵鐘の鋳造」です。
(22) 正安3年(1301)8月
 北条貞時が、円覚寺の梵鐘を鋳造させる。
 総高2メートル60センチにおよぶ鎌倉一の大きな梵鐘である。鐘銘は、円覚寺住持西澗子曇が撰じた。造立大工は物部国光で、この頃、国光をはじめ物部姓の鋳物師らが、建長寺をはじめ金沢の称名寺、相模国国分寺等、関東各地に多く梵鐘をつくっている。

円覚寺梵鐘(洪鐘(おおがね)とも呼ばれる)
鎌倉で最大の梵鐘は、建長寺、常楽寺とともに「鎌倉三名鐘」の一つで、国宝です
 洪鐘1.JPG

 洪鐘2.JPG

 ※他の2つの梵鐘については、「鎌倉三名鐘とは」を参照。

 なお、同じく国宝で、1255年鋳造の「建長寺梵鐘」の鋳物師は、「物部重光」です。

弁天堂:洪鐘鋳造の伝説
 弁天堂.JPG
 鋳造師「物部国光」は、鋳造がうまくいかず失敗を繰り返すが、北条貞時が七日間江の島弁財天に参詣したところ、ある夜、夢の中で白鷺池の底を掘ってみよというお告げがあり、池の底から金銅の塊を発見した。
 それを鋳造して3回目で成功した北条貞時は、洪鐘鋳造の成功に感謝して「弁天堂」を建立したといいます。

鐘楼と弁天堂の場所(山門右手の階段の上)
 鐘楼と弁天堂の場所.JPG

 
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