2018年11月20日

鎌倉ゆかりの人物―源頼朝のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「鎌倉幕府初代将軍・源頼朝」です。

源頼朝
1147
〜1199年
・父は、源義朝、母は、藤原季範(熱田神宮の長官である大宮司)の娘。
・1159年に平治の乱で敗れ、伊豆蛭ヶ小島に流されたが、平家打倒の兵を挙げ、1185年、壇ノ浦で平家を滅亡させました。
・守護、地頭を設置、奥州藤原氏を滅亡させ、1192年に征夷大将軍。
・最初の妻は伊豆の豪族伊東祐親の娘。正妻は北条時政の長女北条政子。

源頼朝の系図
 源頼朝の父母妻子の系図.jpg

「源頼朝」の主な功績やその時代の出来事
1180年、鶴岡八幡宮寺遷移源頼朝は、かつて源頼義が創建した鶴岡若宮(由比若宮)を小林郷松ヶ岡に移しました。
1180年、最初の幕府「大倉幕府」・鎌倉幕府は鶴岡八幡宮の東側、大倉の地(現在の「清泉小学校」付近)に置かれました。
・「大倉幕府」は、1180年から宇津宮辻子に移転する1225年までの45年間、この地にありました。
1182年、「段葛」造営源頼朝が妻政子の安産を願い、鶴岡八幡宮社頭から由比浦まで一直線の参道(若宮大路)を造りました。
・頼朝自身がこれを指揮し、北条時政以下の人々も土石を運んだといいます。
1184年、「問注所」開設 ・訴訟を裁許(判決)する「問注所」の近くには、その名に由来する裁許橋があります。
・裁許橋は、1186年、西行が鎌倉に来たときの逸話を基に、別名「西行橋」ともいわれています。
「三大寺院」建立
・鶴岡八幡宮
・勝長寿院
・永福寺
・1191年、火災で焼けた「鶴岡八幡宮」を現在のような上下両宮の姿に再建しました。
・1185年、「勝長寿院」を建立し、平治の乱で敗死した父義朝の菩提を弔いました。
・平泉の藤原泰衡や源義経をはじめとする内乱での戦死者の鎮魂と慰霊のため、平泉中尊寺の二階大堂(大長寿院)を模して「永福寺」を創建し、1194年、中心伽藍が完成しました。
「白山神社」(今泉)創建 ・1191年、京都の鞍馬寺を詣でた源頼朝が、行基作といわれる毘沙門天像を賜り、今泉の地に勧請して創建しました。
補陀洛寺(材木座)・1181年、源頼朝の祈願所として創建されました。
・開山は文覚。
・江戸時代、たびたび竜巻に襲われたため、別名竜巻寺といいます。
随我山来迎寺(材木座)・1194年、源頼朝が三浦大介義明の菩提を弔うため、建立した真言宗能蔵寺がはじまりです。
・1335年、音阿上人が時宗に改宗し、現在の名前に改名しました。
大巧寺門前の「頼朝戦評定所」の石碑源頼朝がこの寺で軍議のあと、大勝を収めたことにちなみます。
国宝「籬菊螺鈿蒔絵硯箱」(鶴岡八幡宮)源頼朝が鶴岡八幡宮に奉納したと伝えられる硯箱で鎌倉時代を代表する漆工品の一つ。
後白河法皇から下賜されたともいわれます。
手斧始式(鶴岡八幡宮)
(1月4日)
・1191年の大火で焼けた社殿を源頼朝が再建する際、船から上げられた用材を由比ヶ浜より運んで木造りしたという御柱引きの故事に因む神事。
除魔神事(鶴岡八幡宮)
(1月5日)
源頼朝が幕府において「御的始」「御弓始」と称して行った武家の事始めを起源とします。
・大的の裏に「」という字を封じ込めて矢を射ることから、「大的式」とも呼ばれます。
御鎮座記念祭(鶴岡八幡宮)
(12月16日)
・1191年11月21日、大火後の再建にあたり、石清水八幡宮の神霊を迎える儀式を執り行いました。
この時、京都より招かれた楽人・多好方が「宮人曲」を唱えたところ、神感の瑞相があり源頼朝の感激はひとしおであったと伝えられています。
草鹿(鎌倉宮)
(5月5日)
・1194年、源頼朝が富士の裾野で巻狩を催した際、草を束ねて鹿の形を作り、稽古したのが起源。
・古式に則り2 組に分かれて鹿の形をした的に向かって矢を放ち、合計点数を競うもの。勝ち組の大将には神職から菖蒲が授与されます。
白旗神社(西御門)・祭神は源頼朝。古くは頼朝を祀る法華堂がありました。法華堂の創建は1189年。
・1月13日には、白旗神社例祭が行われます。
源頼朝の墓・1199年1月、源頼朝が死去(53歳)。
・4月13日に源頼朝公墓前祭が行われます。
・白旗神社(西御門)奥の山上に、鎌倉石の多層塔の「源頼朝の墓」があります。

11月の「鶴岡八幡宮本宮(上宮)」
 鶴岡八幡宮.JPG

「問注所旧蹟」の石碑
問注所旧蹟石碑.JPG元暦元年、源頼朝は、大蔵幕府の建物の東西の庇の所を訴訟の受付、裁断する所とする。これを問注所といった。

問注所には人々が群れ集まって、時には喧騒になることもあった。そこで、二代将軍頼家は、正冶元年、問注所を大蔵幕府の外に遷した。

この地が、即ちその問注所があった所である。

「白旗神社」(西御門)と「頼朝の墓」
 白旗神社.JPG

 源頼朝の墓.JPG

源頼朝にまつわる伝説
挙兵をすすめるかくれ里の稲荷・佐助稲荷・伊豆蛭ヶ小島に流されていた源頼朝は、挙兵をすすめる「かくれ里の稲荷」という神霊の託宣に従って挙兵したことから、畠山重忠に命じてその里で見つけた祠に社を建てさせたという。
隠れ里に湧く霊水・銭洗水・1185年巳年、巳の月、巳の日、巳の刻、宇賀福神が翁の姿で源頼朝の夢枕に立ち、そのお告げで発見した泉という。
(その後、北条時頼の銭洗いの伝説につながります。)
衣張山 源頼朝は、暑い夏のある日、この山を「白い絹」で覆わせ、雪山に見せることによって涼を楽しんだという。
目に魚の鱗をはめ込んだ男 ・「永福寺」建設の様子を見に出かけた源頼朝は、ふところに刀をしのばせ、左の眼には魚の鱗をはめ込み盲目を装っていた男を捕えた。
・上総五郎兵尉忠光と名乗り、頼朝の命を狙っていたことを白状したため処刑されたという。

 
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2018年11月15日

鎌倉ゆかりの人物―前田利為のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「旧加賀藩前田家16代当主・前田利為」です。

前田利為(1885〜1942年)
 ・貴族院議員を経て、陸軍大将となりました。
 ・鎌倉別邸が火災で焼失したため、洋風に改築。
  邸宅は後に鎌倉市に寄贈され、鎌倉文学館となりました。

「鎌倉文学館」(長谷)の説明板
 鎌倉文学館説明板.JPG
 この建物は、昭和11年(1936)旧加賀藩主前田家第16代当主前田利為(としなり)
氏が建築したもので、相模湾を見下ろす谷戸の中腹に位置しており、当時の鎌倉の
別荘建築を代表する建物の一つです。ノーベル平和賞受賞の佐藤栄作元首相が別荘
として利用したほか、作家三島由紀夫の小説「春の雪」の一場面として登場しています。
昭和58年(1983)7月、前田家より鎌倉市が譲り受け、昭和60年(1985)11月に
鎌倉文学館として公開されました。平成12年(2000)4月、国の登録有形文化財となりました。 

「鎌倉文学館」へのアプローチを本来の建物の「正門」付近で振り返り見る
 鎌倉文学館へのアプローチ1.JPG

 建物正門.JPG

「鎌倉文学館」への入館入り口
 鎌倉文学館へのアプローチ2.JPG

源頼朝が鶴を放ったという故事に由来する「招鶴洞」
 招鶴洞.JPG

「鎌倉文学館」の建物全景
 鎌倉文学館.JPG

5月のバラ園から見る「鎌倉文学館」
 バラ園からの鎌倉文学館1.JPG

 バラ園からの鎌倉文学館2.JPG

 バラ園からの鎌倉文学館3.JPG

 バラ園からの鎌倉文学館4.JPG

 
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2018年11月14日

鎌倉ゆかりの人物―北条政子のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「尼将軍・北条政子」です。

北条政子
1157
〜1225年
・源頼朝の妻。頼朝が伊豆蛭ヶ小島に流されていた時の監視役が北条時政で、政子はその長女。
・頼朝の死後出家したが、源頼家、実朝の後見として政務を担い、尼将軍と称されました。

「北条政子」の系図
 北条政子の系図.jpg

「北条政子」の主な功績やその時代の出来事
段葛と旗上弁財天社の裏にある「政子石」・1182年、源頼朝は妻政子の安産祈願のため、鶴岡八幡宮の参道若宮大路と段葛を造営しました。
北条政子は平家滅亡の悲願のため、大庭景義に命じ源平池と弁財天社を祀りました。
・旗上弁財天社の裏手に、古来縁結びの霊能があり、姫石とも称される「政子石」が置かれています。
静の舞で源頼朝をなだめた「北条政子」・1186年、源義経と別れた静は捕らえられ、鎌倉へ送られて来ます。
・源頼朝は静に鶴岡八幡宮若宮回廊での舞を命じますが、静の義経を慕う歌と舞いに怒ります。
・そこで北条政子は、かつて自分も頼朝を思い慕った気持ちを教え諭して、頼朝の怒りをなだめました。
1193年、源頼朝が弟範頼を伊豆国へ追放・源頼朝が富士裾野の巻狩りを行ったときに、「曽我兄弟の仇討ち」事件が発生し、頼朝も討たれたという憶測でうろたえる北条政子に、範頼は「私がいるから大丈夫だ」と言ったといわれています。
・範頼は、この言葉により頼朝に謀叛の疑いをかけられ、その後、伊豆修禅寺に幽閉されて殺されました。
鎌倉五山第三位の「亀谷山壽福金剛禅寺」(扇ガ谷)

※「鎌倉扇ヶ谷のお寺を見る(亀谷山)」参照。
・1200年、北条政子が栄西を招いて開山しました。
・この地一帯は、源頼朝の父義朝の屋敷跡(鎌倉之楯)とされ、三浦義明の弟岡崎義実が義朝供養のために堂を建てていたが、政子は岡崎義実の子土屋義清に依頼してその土地を献上させ、栄西に寄進して壽福寺を建立しました。
北条政子の墓(五輪塔)が建立されています。
北条政子発願像の可能性が高い壽福寺の「銅造薬師如来坐像」

※「鎌倉国宝館HP 銅造薬師如来坐像」参照。
・壽福寺の「銅造薬師如来坐像」は、1208年に鶴岡八幡宮の境内に創建された神宮寺の本尊だったもの。
・『吾妻鏡』によれば北条政子発願の金銅三尺薬師三尊が1211年11月16日に供養され、鶴岡神宮寺に安置されたことが知られています。
・明治の神仏分離によって鶴岡八幡宮から壽福寺へ移され、現在は、鎌倉国宝館に寄託されています。
鶴岡八幡宮「白旗神社」の創建・1200年、祭神を源頼朝として北条政子によって創建されたと伝えられています。
・明治時代に源実朝を祀る柳営社と合祀され、現在地に遷され、祭神は「源頼朝と源実朝」となっています。
1203年「比企氏の乱」・源頼朝の死後、北条政子は頼家の権限を奪い、跡を継いだ頼家は実権を北条氏に掌握されていました。
・病床の頼家は、頼家の外戚の比企能員と北条氏討伐の企てを話し合っていましたが、それを北条政子に聞かれてしまいました。
・1203年、比企能員は名越の北条邸で謀殺され、頼家も将軍職をはく奪されました。
「北条政子・義時」らによる北条時政の失脚・1205年、畠山重忠・重保親子は、北条時政の策略で謀反の疑いにより北条軍に討たれてしまいました。(畠山重忠の乱
・この後、北条時政が源実朝を殺害し、北条時政の後妻牧ノ方の女婿平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、「北条政子・義時」らに阻止され、義時が執権に就任し、時政は失脚・追放されました。
1221年「承久の乱」で、北条政子の御家人への訓示で幕府は結束後鳥羽上皇は、執権北条義時追討の命令を諸国の武士に下しました。
・これに対し、尼将軍「北条政子」は御家人を招集し、頼朝以来の御恩を訓示して結束を固めました。
・幕府軍18万騎が京へ攻めのぼり、戦いは幕府方の圧倒的勝利をもって終わりました。(承久の乱
ツツジの寺、「祇園山安養院田代寺」(大町)

※「鎌倉大町のお寺を見る(衹園山)」参照。
・浄土宗。開山は願行。開基は北条政子。安養院は北条政子の法名。
北条政子が安養院に祀られている観音に祈ったおかげで源頼朝と結ばれ、源頼朝が将軍になったことから、この寺の観音は「良縁観音」とも「昇竜観音」とも呼ばれている。
北条政子の供養塔(宝篋印塔)が建立されています。

「旗上弁財天社」とその裏手に置かれた「政子石」
 旗上弁財天社.JPG

 政子石.JPG

鶴岡八幡宮「白旗神社」
 鶴岡八幡宮白旗神社.JPG

「壽福寺」と「北条政子の墓」(五輪塔)
 壽福寺.JPG

 壽福寺北条政子墓.JPG

「安養院」と「北条政子の供養塔」(宝篋印塔)
 安養院.JPG

 安養院北条政子の墓.JPG

『北条政子』などの歴史小説を書いた「永井路子」(1925年(大正14)〜 )
 ・『北条政子』や『炎環』で直木賞を受賞した日本の歴史小説家。
 ・『炎環』は、鎌倉幕府成立の時代を、阿野全成(頼朝の弟)、梶原景時、北条保子
  (北条政子の妹、全成の妻)、北条義時をそれぞれ主人公に描いた作品。
  NHK大河ドラマ「草燃える」の原作の一つ。
 ・1962年、鎌倉市に住居を構え、2001年まで鎌倉山に住んでいました。
 ・1998年(平成10)に、「鎌倉市名誉市民」になりました。
鎌倉市名誉市民
 鎌倉市では、学術技芸その他文化の振興及び地方自治の進展に貢献し、その功績が非常にすぐれ世の尊敬を受ける方に対して、「鎌倉市名誉市民」の称号を贈呈しています。
 →「鎌倉市の名誉市民についてのまとめ」を参照。

 
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