2017年03月30日

鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1216年11月24日)を読む(25)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

(47)健保4年(1216)11月24日
 源実朝が宋の医王山参詣のため、宋人陳和卿に唐船の建造を命じる。陳和卿は東大寺大仏の再建にあたった宋の技術者。6月に鎌倉に下ってきて実朝と対面した折、実朝が前世において宋の医王山の長老であったと述べたことによる。
 しかし、唐船は、翌年4月に完成したものの、なぜか進水には失敗することになる。

藤沢市の船玉神社
船玉神社案内板
船玉神社案内板.JPG

船玉神社全景
船玉神社.JPG源実朝が宋へ渡るため、船の用材を大鋸の地から伐り出したと伝えられています。

乗船成就、海上守護のために勧請されたのが「船玉神社」ということです。

船玉神社は、鎌倉市の隣の藤沢市大鋸にあります。

船玉神社の鳥居と本殿の扁額
船玉神社鳥居.JPG 船玉神社本殿.JPG

船を浮かべた由比ヶ浜
 由比ヶ浜.JPG

陳和卿(ちんなけい)
 鎌倉時代初期に宋から来た仏像技術者。
 戦火のため焼け落ちた東大寺大仏の首を鋳造するため,東大寺僧重源に招かれました。

 1195年3月、東大寺の再建供養式典の際、源頼朝が面会を申し入れたが、「頼朝は平家と戦った時に多くの人の命を奪っており、罪深い人間であるので面会したくない」と面会を断ったといわれています。

 ※「鎌倉彫」の歴史は、運慶の子の康運が、陳和卿の持ってきた彫漆工芸(漆を幾度にも塗り重ねたものに彫刻を施す工芸)を真似て仏具を作ったのが最初と考えられています。



これで、「第一部 鎌倉幕府の興亡 第一章 頼朝の鎌倉入り」は終わりです。
次回から、「第二章 天変地異起こる」を読みます。

 
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2017年03月28日

鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1214年2月4日)を読む(24)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

(44)健保2年(1214)2月4日
 壽福寺長老の栄西が二日酔いに悩む源実朝に対し、良薬と称して茶を勧め、また「茶徳を誉むるところの書」一巻を献上する。
 この一巻が喫茶の効能などを説いた、わが国最初の茶書『喫茶養生記』であるという。
 なお栄西は翌年6月5日死去する。

栄西(1141〜1215年)
 日本に初めて臨済禅を伝えた臨済宗の祖。
 延暦寺で天台宗を学んだ後、宋に渡った。
 帰国後、鎌倉へ。幕府の庇護を受け、「壽福寺」、京都の建仁寺の開山となる。

壽福寺総門
 扇ガ谷にある鎌倉五山第三位の寺→「鎌倉扇ヶ谷のお寺を見る(亀谷山)」を参照。
 壽福寺紅葉 (2).JPG

総門横の「源実朝をしのぶ」碑:生誕800年記念。1992年8月。平山郁夫書
 源実朝をしのぶ碑.JPG

喫茶養生記
 栄西が宋からの帰国の折に茶の種を持ち帰って、茶の効用を紹介しました。
 3代将軍源実朝に献上した著書「喫茶養生記」は、禅宗と並び、喫茶の礼儀が広まっていく契機となりました。
源実朝をしのぶ碑 (2).JPG

 
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2017年03月24日

鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1213年5月2日)を読む(23)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

(42)健保元年(1213)5月2日
 和田義盛とその一族が、とくに二月以来、険悪な関係にあった北条氏打倒をめざして挙兵する(和田合戦)。
 義盛の軍勢は将軍御所・北条義時邸・大江広元邸を襲撃するが、従兄弟の三浦義村の裏切りもあって、義盛は翌日、敗死する。
 合戦後、北条義時は従来の政所別当のほか、義盛にかわって侍所別当も兼任することになる。

和田義盛(1147〜1213年)
 鎌倉幕府初代の侍所別当。
 三浦氏の一族で、平家追討や奥州合戦に参加し、源頼朝に信頼された。 
 
和田義盛と三浦義村の関係図
 和田義盛と三浦義村関係図.jpg

「和田合戦」に至る伏線
・信濃国住人「泉親衡」が故源頼家の遺児を将軍とし、北条義時を討つという謀叛の計画が露見し、多数の計画加担者の中に和田義盛の子や甥も含まれ、義盛の子の義直・義重、甥の胤長が逮捕された。
・義盛は将軍に一族の赦免を嘆願。義盛の多年の勲功に免じて子の義直・義重は赦免されたが、甥の胤長は事件の張本人として許されず、和田一族の面前で縄で縛られ流罪となってしまった。
・胤長の屋敷は没収されたが、慣例により屋敷は一族に下げ渡され、義盛は屋敷に代官を置いた。
・ところが、突然北条義時は旧胤長屋敷を泉親衡の乱平定に功績のあった者に与えると決め、義盛の代官を追い出してしまった。
・このような度重なる義時の挑発に、義盛は挙兵を決断した。

和田合戦
 ・和田義盛は北条義時打倒の兵を挙げたが、三浦義村は義盛を裏切り、義盛の挙兵を義時に伝えた。
 ※三浦義村の裏切りで、義村は他の御家人から、「三浦の犬は友を食らうぞ」と批判されたといいます。

 ・義盛の軍勢は三手に分かれ、将軍御所・北条義時邸・大江広元邸を襲撃した。
 ・義盛の三男朝比奈三郎義秀の軍勢が御所に突入して放火したため、御所は焼失した。
 ・将軍御所を攻められた源実朝は頼朝法華堂に避難している。
 ・和田軍は大いに奮戦したが、次第に北条軍に押され由比ヶ浜に退いた。
 ・翌日、由比ヶ浜や若宮大路で戦闘が行われ、義盛らが戦死して、合戦は終結した。

和田塚
 江ノ電和田塚駅の南側に「和田一族の墓」があり、「和田塚」と呼ばれている。
 和田塚.JPG

 和田義盛一族の墓.JPG

「和田塚」の場所
 和田塚の地図.jpg
 
posted by トシ999 at 14:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする