


100点とらなくても合格できます。 2級と3級は70点以上、1級は80点以上が、合格点です。 |
●どんな試験でも基本が大切です。
●最良の受験対策は、「公式テキストブック」と「読んで分かる中世鎌倉年表」を改めて読むことです。

※4月に「鎌倉検定公式テキストブック」が改訂されました。
旧テキストも第14回の試験(2020年)まで公式テキストとして使用可能です。

特に、「鎌倉略年表」には、本文にあまり載っていない事項(例えば、鎌倉市名誉市民など)が多々あります。

100点とらなくても合格できます。 2級と3級は70点以上、1級は80点以上が、合格点です。 |
◎北条高時 1303 〜1333年 | ・鎌倉幕府14代執権。9代執権北条貞時の子。 ・父と同じ14歳で執権となったが、実権は長崎円喜、高資父子、安達時顕が握っており、そのため、闘犬、田楽、飲酒などにふけり、政治をおろそかにしました。 ・新田義貞の鎌倉攻めによって、一族とともに東勝寺で自刃。 鎌倉幕府は滅亡しました。 |
1316年、14代執権に就任 | ・1311年、北条貞時が死去した時、高時はまだ9歳でした。貞時は、得宗高時の後見を、内管領長崎円喜と安達時顕に託しました。 ・執権は北条師時→宗宣→煕時→基時と推移し、高時が14歳になると、正式に執権として就任しました。 |
1301年、北条貞時の出家に伴い、10代執権に「北条師時」 | ・北条師時は、北条時宗の弟、北条宗政の子。 ・北条高時が成人するまでの中継ぎ役として期待されたが、実権は貞時に握られていました。 |
1327年、夢窓疎石が端泉院を建立 | ・夢窓疎石は、京・土佐などを転々としていましたが、北条高時の母覚海尼が、疎石の高名を聞き、懇請して鎌倉に入りました。 ・その後、疎石は後醍醐天皇に招かれて、京都の南禅寺に滞在するが、再度、北条高時の懇請で鎌倉に入り、二階堂の地に瑞泉院を建てました。 これが「瑞泉寺」の源です。 |
浄光明寺敷地絵図に登場する「北条高時」の屋敷 ※「浄光明寺敷地絵図」は「ココ」を参照。 | ・この絵図は、鎌倉幕府滅亡の後に寺の関係者が寺領を保護してもらうため、足利直義の執事上杉重能に差し出し、その許可を得たものです。 ・絵図の真ん中右側には、「北条(赤橋)守時」の屋敷区画があり、すぐ東側には「御中跡」とあり、「北条高時」の屋敷でした。 |
葛原ヶ岡にある「日野俊基の墓」 ※「鎌倉ゆかりの人物―後醍醐天皇のあれこれ」を参照。 | ・後醍醐天皇は、日野俊基らの公卿とともに討幕計画を進めました。 (1324年「正中の変」、1331年「元弘の変」) ・朝廷の権力を取り戻そうと計画したが成功せず、日野俊基は、1332年、北条高時の命令により処刑されました。 |
東勝寺 ※執権の推移: 北条高時 →1326年2月金沢貞顕 →1326年4月赤橋守時 | ・開山は栄西の弟子、退耕行勇とされ、開基は北条泰時といわれるが、創建の時期など詳細は不明。 ・1333年、北条一門がここに火を放ち、北条高時以下、総勢、約870人が自害したといわれます。 ・15代執権金沢貞顕は、祖父の金沢実時が創設した「金沢文庫」を発展させましたが、北条高時らとともに東勝寺で最期を遂げました。 |
腹切りやぐら | ・宝戒寺(小町)後方の屏風山と小富士山に囲まれた葛西ヶ谷の奥、東勝寺跡内にあります。 ・新田義貞の鎌倉攻めで自刃した北条高時はじめ、北条一族の屍を葬ったとされるが、実際の埋葬地は釈迦堂ヶ谷奥やぐら群と推定されています。 |
「貝吹地蔵」の伝説 | ・新田義貞の鎌倉攻めの際、自害した北条高時の首を新田勢に渡すまいと高時の家来が持って逃げたが、埋める場所に窮し、その時、地蔵が貝を吹いて、夢窓疎石の建てた徧界一覧亭から天園に向かう谷間に導いてくれ、無事に首を埋められたということです。 ・また一説には、新田勢が攻めてきた時に、ほら貝で知らせた地蔵であるともいうことです。 |
宝戒寺の徳崇大権現堂 ※「鎌倉小町のお寺を見る(金龍山)」を参照。 | ・1335年、後醍醐天皇が北条一族の霊を弔うため、足利尊氏に命じて北条氏の執権屋敷跡に宝戒寺を建立させました。 ・北条高時は、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇から「徳崇大権現」という神号を下賜され、宝戒寺本堂右前にある徳崇大権現堂に祀られています。 |
北条高時の遺児時行による「中先代の乱」 ※「鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1335年7月25日)を読む(2)」を参照。 | ・1335年、北条高時の遺児時行が幕府復活を計って、信濃国で反乱を起こし(中先代の乱)、足利直義軍を打ち破り、一時鎌倉を奪還したが、足利尊氏に奪回されました。 ・その後、南朝に属して北畠顕家・新田義興らに従い、再度鎌倉を占領したが、1353年、足利氏に捕えられ殺害されました。 |
亀甲山成福寺 (小袋谷) | ・鎌倉で唯一の浄土真宗。 ・開山は成仏で、北条泰時の子、泰次といわれています。1232年、親鸞に師事して成仏の名をもらい、天台宗から浄土真宗に改宗しました。 ・鎌倉幕府が倒れたときの住職成円は、北条高時の実弟だったため寺を追われ、以後、70年ほど無住だったということです。 |
◎北条貞時 1272 〜1311年 | ・鎌倉幕府9代執権。北条時宗の嫡男。得宗専制体制を確立しました。 ・1284年に制定された「新御式目」38条により、得宗が「公方」として政治を進めていくことを求めました。 ・1285年、平頼綱の讒言により安達泰盛を滅ぼすと、1293年、平頼綱を誅殺し、1297年、御家人救済のため「徳政令」を発布しました。 |
1284年、9代執権に就任 | ・北条時宗の死後、3ヶ月間空位となっていた執権の座に嫡子で14歳の北条貞時がつきました。 ・貞時執権就任を主導したのは、貞時の外祖父で有力御家人の安達泰盛といわれています。 |
1285年、霜月騒動 | ・御家人を中心とした政治改革推進派の安達泰盛と北条得宗独裁化を進める平頼綱(御内人)が対立。 ・安達泰盛と嫡子宗景が、内管領平頼綱の攻撃をうけて滅びました。 |
1289年、7代将軍惟康親王の鎌倉追放 | ・将軍は、惟康親王→久明親王へ。 ・後深草院二条が鎌倉に来ており、日記「とはずがたり」に惟康親王の惨めな帰洛を記しています。 |
1293年、平禅門の乱 | ・北条貞時は、内管領の平頼綱が権力を持ちすぎ、独断・専横を止めるため、誅殺しました。 |
1296年、鷲峰山覚園寺を建立 | ・真言宗。開山は智海心慧、開基は北条貞時。 ・1218年、北条義時が創建した大倉薬師堂を前身とし、北条貞時は、再度の元軍の来襲を退けることを祈願して、寺に改めました。 |
1297年、徳政令を定める | ・当時は元寇の処理の影響もあり、御家人の所領に関する紛争が増大していた。 ・この「徳政令」は、源頼朝以来の幕府の基盤である御家人体制を維持するための苦肉の策ともいわれています。 |
1301年、円覚寺梵鐘を寄進 | ・鎌倉三名鐘(建長寺・円覚寺・常楽寺の梵鐘)の一つ。鎌倉で最大の梵鐘で、「洪鐘」(おおがね)と呼ばれています。 ・大檀那は北条貞時、撰文は西澗子曇、鋳物師は物部国光。 |
鋳造師「物部国光」は、鋳造がうまくいかず失敗を繰り返すが、北条貞時が七日間江の島弁財天に参詣したところ、ある夜、夢の中で白鷺池の底を掘ってみよというお告げがあり、池の底から金銅の塊を発見した。 それを鋳造して3回目で成功した北条貞時は、洪鐘鋳造の成功に感謝して弁天堂を建立したといいます。 |
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