2017年07月16日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1299年11月8日)を読む(13)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「浄光明寺の本尊造立」です。
(21)正安元年(1299)11月8日
 浄光明寺の本尊阿弥陀如来三尊坐像が造立された。
 浄光明寺は、北条長時の発願で建長3年(1251)開創された。開基は真阿。中尊は阿弥陀如来、脇侍は観音・勢至菩薩で、中尊には鎌倉地方特有の土紋が残る。
 解体修理の際、発見された胎内文書によって、この年、長時の孫久時の発願で三尊像が造立されたことが判明した。

泉谷山浄光明寺(扇ガ谷)
 真言宗。1251年創建。開山は、真阿(真聖国師)。開基は、北条長時
山門
 浄光明寺山門.JPG

9月には、客殿前にハギが咲きます
 浄光明寺ハギ.JPG

本尊「阿弥陀三尊像」は、イヌマキの向こうに見える仏殿の左側の収蔵庫に入っています
 浄光明寺仏殿と収蔵庫.JPG
 ※このお寺については、「鎌倉扇ヶ谷のお寺を見る(泉谷山)」を参照。

「土紋」とは
 大陸直伝の珍しい仏像装飾の技法で、土を練って型どりをし、着衣などの文様を連続して貼り付けたもの。浄光明寺のものが最古。

 「土紋」装飾の仏像は、浄光明寺の他に、次のお寺のものにもあります。
 ・来迎寺(西御門)の「如意輪観音半跏像」     
 ・覚園寺の「阿弥陀如来坐像(鞘阿弥陀)」  
 ・東慶寺の「聖観音菩薩立像」など 

北条久時(赤橋久時)(1272〜1307年)
 北条長時の孫。父は赤橋流の北条義宗。
 六波羅探題北方に任じられたり、評定衆に任じられるなど幕政の中枢で活躍しました。
  北条重時―長時―義宗―久時―守時(第16代執権)  

阿弥陀三尊像とは
 阿弥陀如来は、極楽浄土の教主で、極楽浄土で人々のために説法を行っているといいます。
 両脇侍には、向かって左に「勢至菩薩」、向かって右に「観音菩薩」が配置されるのが一般的です。

 浄光明寺の他に、次のお寺の本尊となっています。
  ・英勝寺(扇ガ谷)、光明寺(材木座)、来迎寺(材木座)、光触寺(十二所)、常楽寺(大船)、大長寺(岩瀬)  

「英勝寺」の「阿弥陀三尊像」を例に見る
 英勝寺阿弥陀三尊像.JPG

 
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2017年07月12日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1296年)を読む(12)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「覚園寺創建」です。
R永仁4年(1296年)
 北条貞時が覚園寺を建立する。
 この寺は、健保6年(1218)北条義時が戌神将の悪夢に感じて創建した大倉薬師堂を前身とする。義時はこの戌神将によって実朝暗殺時に災難を免れたという。
 貞時は、再度の元軍の来襲を退けることを祈願して、心慧上人を開山とし、鷲峰山覚園寺と寺号を定め、荘厳な堂や塔も建立される。

鷲峰山(じゅぶせん)覚園寺
 真言宗。開山は智海心慧(ちかいしんえ)、開基は北条貞時

あじさいの季節の山門
 覚園寺山門.JPG
 ※このお寺については、「鎌倉二階堂のお寺を見る(鷲峰山)」を参照。

北条義時の「戌神将の伝説」
 「薬師堂」には「十二神将立像」が祀られています。
 ※伝説については、「鎌倉覚園寺についてのあれこれ」を参照。

鷲峰山は、どこにあるのでしょうか?
 鎌倉市で4番目に高い山(127.9m)です。
 天園ハイキングコースの途中にあります。
 ※「鷲峰山」については、「鎌倉市の山・川について」を参照。

天園ハイキングコースの「覚園寺・今泉台への分岐点」で、瑞泉寺方面に行きます
 分岐点.JPG

すぐに大きな岩があり、そのそばを登ると頂上です
 鷲峰山登り口.JPG

「鷲峰山」の頂上にある基準点です
 鷲峰山山頂.JPG

なお、先程の分岐点から建長寺方面に行った所にあるこの丘は、鷲峰山ではありません
 弘法大師像.JPG

<「第八十八番 本尊薬師如来 讃岐国 大窪寺」とある弘法大師像の台座
 第8番本尊薬師如来.JPG
 ※この辺りは、江戸時代に四国八十八ヶ所の霊場にちなんでの道として作られ、ここが最終地といいます。

 
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2017年07月08日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1289年3月)を読む(11)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「後深草院二条の鎌倉訪問」です。
N正応2年(1289)3月)
 『とはずがたり』の作者後深草院二条が、鎌倉を訪れる。
 後深草上皇などの寵愛をうけ華麗な恋愛遍歴を経た二条であったが、退出後、西行にあこがれての旅路であった。
 鎌倉での二条は、鶴岡八幡宮をはじめ市中の寺社を参詣し、京都の寺社と比較する。
 八幡宮の放生会や、惟康親王の惨めな帰洛と対照的な久明親王の鎌倉入りを見学した後、年末、善光寺へ向けてふたたび旅立つ。

後深草院二条(1258年〜没年不詳、1306年以後)
 後深草院に仕える女房だったが、26歳のとき、後深草院の中宮である東二条院により御所を退かされました。その後31歳で出家し、西行にならって修行の旅に出ました。

 日記「とはずがたり」(全5巻)の作者です。
 第4巻に、1289年、32歳の時に鎌倉を訪れた様子が書かれています。当時、鎌倉は9代執権北条貞時の時代で、7代将軍惟康親王が鎌倉を追放される時でした。

鎌倉時代に鎌倉に来た有名人のまとめ
鎌倉時代
初期 
西行(1118年〜1190年)
 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。
 歌集「山家集」の作者。
鎌倉時代
前期 
鴨長明(1155年〜1216年)
 平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人・随筆家。
 随筆「方丈記」の作者。 
鎌倉時代
中期 
阿仏尼(1222年?〜1283年)
 鎌倉時代中期の女流歌人。藤原為家(定家の子)の側室で、冷泉為相の母。
 紀行文日記「十六夜日記」の作者。 
鎌倉時代
後期 
後深草院二条(1258年〜没年不詳、1306年以後)
 日記「とはずがたり」(全5巻)の作者 
鎌倉時代
末期 
兼好法師(1283年頃〜1352年以後)本名は卜部兼好(うらべかねよし)。
 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての随筆家・遁世者。
 30歳ごろに出家。
 清少納言の「枕草子」、鴨長明の「方丈記」とともに、日本三大随筆の一つである「徒然草」の作者。 

年表のまとめ
年代
鎌倉入りした人
当時の将軍/執権
1180

1200

1220

1240

1260

1280

1300

1180 源頼朝
1186 西行

1211 鴨長明





1277 阿仏尼

1289 後深草院二条

1300以降 兼好法師
1333 鎌倉幕府滅亡
・源頼朝 
鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1186年8月15日)を読む(10)」を参照。
・源実朝
鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1211年10月13日)を読む(22)」を参照。



・8代執権北条時宗
鎌倉検定−蒙古の襲来(1277年10月)を読む(5)」を参照。
・9代執権北条貞時
・10代執権北条師時以降
鎌倉時代末期に鎌倉に来た兼好法師」を参照。
・16代執権赤橋(北条)守時


 
posted by トシ999 at 15:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする