2017年09月08日

鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1398年11月4日)を読む(8)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「足利満兼の3代鎌倉公方就任」です。
Q応永5年(1398)11月4日
 足利氏満が没して子の満兼が鎌倉公方となる。
 満兼は、翌応永6年の春に弟満直と満貞をそれぞれ陸奥の篠川(福島県郡山市)・稲村(福島県須賀川市)に置き、奥州両国を鎮撫させる(満直を篠川御所、満貞を稲村御所という)。
 その後、幕府では11月、大内義弘が足利義満に反乱を起こし、和泉堺で討伐される(応永の乱)。
 満兼はこれに呼応して出兵しようとしたが、上杉憲定(憲方の子)の諫言により思いとどまったという。

足利満兼(1378〜1409年)
 第2代鎌倉公方「足利氏満」の長男。
 1399年、大内義弘が堺で将軍「足利義満」に対して挙兵した「応永の乱」では、義弘に呼応し、満兼自身も義弘に加勢するため鎌倉を発ち、進軍するが、関東管領の上杉憲定に諫止されました。

足利満直(?〜1440年)
 第2代鎌倉公方「足利氏満」の次男。満兼の弟。
 篠川御所と呼ばれるが、鎌倉府の出先機関として東北地方を治め、しばしば伊達氏などと衝突しました。

足利満貞(?〜1439年)
 第2代鎌倉公方「足利氏満」の四男。満直の弟。
 稲村御所と呼ばれる。

鎌倉公方「足利満兼」の系図
 足利満兼の系図.jpg

上杉家の系図
 「足利氏満」の時代の関東管領は、「上杉能憲」の弟「憲春」→弟「憲方」と引き継がれ、さらに、1395年に「上杉朝宗」が就任。
 その後「足利満兼」の時に、1405年、関東管領は、犬懸家の「上杉朝宗」から山内家の「上杉憲定」に代わります。
 上杉家 山内・犬懸家の系図.jpg

 
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2017年09月07日

鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1367年4月26日)を読む(7)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「足利氏満の2代鎌倉公方就任」です。
L貞治6・正平22年(1367)4月26日
 足利基氏が没する。5月29日、子の今王丸(氏満)が後を継ぐ。
 翌応安元(正平23)年9月19日、上杉憲顕が下野の足利で没する。
 これに替わって上杉能憲(憲顕の子)と同朝房(憲顕の兄憲藤の子)の二人が関東管領となり、「両上杉」と称せられる。

足利氏満(1359〜1398)
 足利基氏の子。第2代鎌倉公方。
 1378年、将軍足利義満を除こうとしたが、関東管領上杉憲春が自刃して諌めたため中止したという事件がありました。

福源山明月院
 最明寺(北条時頼が創建)の廃寺後、北条時宗が禅興寺を創建したのち、1380年、「足利氏満」が上杉憲方に命じて禅興寺を中興させ、現在に至っています。
 明月院方丈.JPG
 ※このお寺については、「北鎌倉のお寺を見る(福源山)」を参照。

扇谷山海蔵寺
 1394年、「足利氏満」が上杉氏定に命じて創建させました。
 海蔵寺.JPG
 ※このお寺については、「鎌倉扇ヶ谷のお寺を見る(扇谷山)」を参照。

上杉能憲(よしのり)(1333〜1378年)
 上杉憲顕の子。
 足利直義に仕え、1350年の「観応の擾乱」では直義と共に尊氏に敵対したが、後に許されました。→「鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1350年12月25日)を読む(5)」を参照。
 父の死後は従弟の「上杉朝房」と共に、関東管領として鎌倉公方の「足利氏満」を補佐しました。

上杉朝房(ともふさ)(1335〜1391年)
 犬懸上杉家・上杉憲藤の子。犬懸上杉家2代当主。
 「上杉能憲」と共に、関東管領として鎌倉公方の「足利氏満」を補佐しました。

上杉氏四家(山内家・犬懸家・扇谷家・宅間家)
 上杉憲顕から能憲、その弟憲春・憲方へと続く家系を「山内家」という。
 上杉憲藤の子孫を「犬懸家」という。
 これらは、すべて各々が構えた邸宅の所在地に由来します。

山内家・犬懸家の系図
 上杉家 山内・犬懸家の系図.jpg

※この後、「足利氏満」の時代の関東管領は、「上杉能憲」の弟「憲春」→弟「憲方」と引き継がれ、さらに、1395年に「上杉朝宗」が就任していくことになります。

 
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2017年08月29日

鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1352年正月5日)を読む(6)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「足利直義の死去」です。
G文和元・正平7年(1352)正月5日
 足利尊氏が相模早河尻(小田原市)の戦いで直義を破り、この日、直義と和睦して鎌倉に入る。2月26日、直義が浄妙寺西北の延福寺で急逝する。
 直義の死で、尊氏と直義の対立には終止符がうたれたが、閏2月には、幕府と南朝との講和が破れ、新田義宗(義貞の子)と兄義興が宗良親王(後醍醐天皇皇子)を奉じて上野に挙兵する。南朝軍は同18日に鎌倉を攻略し、尊氏を武蔵狩野川(横浜市)へと敗走させる。
 しかしその後、尊氏は諸戦で勝利を重ね、3月12日に鎌倉を奪回する。

 ※鎌倉幕府滅亡の後、足利尊氏と何度も対立した「足利直義」は、ついに死去しました。

稲荷山浄妙寺
本堂
 臨済宗。鎌倉五山第五位。開基は足利義兼。開山は退耕行勇。
 足利義兼は、足利氏の祖である「足利義康」の子。1180年に源頼朝が伊豆国で挙兵すると、頼朝に従いました。
 浄妙寺本堂.JPG
 ※このお寺につては、「鎌倉浄明寺のお寺を見る(稲荷山)」を参照。

本堂背後の墓地には、中興開基の「足利貞氏の墓」があります
  「足利義兼」―義氏―泰氏―頼氏―家時―「足利貞氏」―尊氏  

 足利貞氏の墓.JPG

石窯ガーデンテラス付近の小路にある「足利直義の墓」
 この辺りは、かつて開基を足利直義とする大休寺足利直義邸があった所です。
 石窯ガーデンテラスの脇の小路を奥の方へ入って行くと、「足利直義の墓」といわれる宝篋印塔があります。
 足利直義の墓.JPG

熊野神社
浄妙寺境内外の西隣りにあり、浄明寺地区の鎮守である熊野神社の入り口
 熊野神社鳥居.JPG

<長い階段を上ると本殿があります
 境内には、延福寺(廃寺)や足利直義の屋敷があったということです。
 熊野神社本殿.JPG

浄光明寺の「矢拾地蔵」
 足利直義の守り本尊「矢拾地蔵」は、「収蔵庫」に安置されています。
 浄光明寺の地蔵菩薩立像は、戦いの中で足利直義のために矢を拾い集めた、という伝承があります。(「矢拾地蔵」)
 撮影禁止のため、写真はありません。

 
posted by トシ999 at 12:58| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする