2018年11月14日

鎌倉ゆかりの人物―北条政子のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「尼将軍・北条政子」です。

北条政子
1157
〜1225年
・源頼朝の妻。頼朝が伊豆蛭ヶ小島に流されていた時の監視役が北条時政で、政子はその長女。
・頼朝の死後出家したが、源頼家、実朝の後見として政務を担い、尼将軍と称されました。

「北条政子」の系図
 北条政子の系図.jpg

「北条政子」の主な功績やその時代の出来事
段葛と旗上弁財天社の裏にある「政子石」・1182年、源頼朝は妻政子の安産祈願のため、鶴岡八幡宮の参道若宮大路と段葛を造営しました。
北条政子は平家滅亡の悲願のため、大庭景義に命じ源平池と弁財天社を祀りました。
・旗上弁財天社の裏手に、古来縁結びの霊能があり、姫石とも称される「政子石」が置かれています。
静の舞で源頼朝をなだめた「北条政子」・1186年、源義経と別れた静は捕らえられ、鎌倉へ送られて来ます。
・源頼朝は静に鶴岡八幡宮若宮回廊での舞を命じますが、静の義経を慕う歌と舞いに怒ります。
・そこで北条政子は、かつて自分も頼朝を思い慕った気持ちを教え諭して、頼朝の怒りをなだめました。
1193年、源頼朝が弟範頼を伊豆国へ追放・源頼朝が富士裾野の巻狩りを行ったときに、「曽我兄弟の仇討ち」事件が発生し、頼朝も討たれたという憶測でうろたえる北条政子に、範頼は「私がいるから大丈夫だ」と言ったといわれています。
・範頼は、この言葉により頼朝に謀叛の疑いをかけられ、その後、伊豆修禅寺に幽閉されて殺されました。
鎌倉五山第三位の「亀谷山壽福金剛禅寺」(扇ガ谷)

※「鎌倉扇ヶ谷のお寺を見る(亀谷山)」参照。
・1200年、北条政子が栄西を招いて開山しました。
・この地一帯は、源頼朝の父義朝の屋敷跡(鎌倉之楯)とされ、三浦義明の弟岡崎義実が義朝供養のために堂を建てていたが、政子は岡崎義実の子土屋義清に依頼してその土地を献上させ、栄西に寄進して壽福寺を建立しました。
北条政子の墓(五輪塔)が建立されています。
北条政子発願像の可能性が高い壽福寺の「銅造薬師如来坐像」

※「鎌倉国宝館HP 銅造薬師如来坐像」参照。
・壽福寺の「銅造薬師如来坐像」は、1208年に鶴岡八幡宮の境内に創建された神宮寺の本尊だったもの。
・『吾妻鏡』によれば北条政子発願の金銅三尺薬師三尊が1211年11月16日に供養され、鶴岡神宮寺に安置されたことが知られています。
・明治の神仏分離によって鶴岡八幡宮から壽福寺へ移され、現在は、鎌倉国宝館に寄託されています。
鶴岡八幡宮「白旗神社」の創建・1200年、祭神を源頼朝として北条政子によって創建されたと伝えられています。
・明治時代に源実朝を祀る柳営社と合祀され、現在地に遷され、祭神は「源頼朝と源実朝」となっています。
1203年「比企氏の乱」・源頼朝の死後、北条政子は頼家の権限を奪い、跡を継いだ頼家は実権を北条氏に掌握されていました。
・病床の頼家は、頼家の外戚の比企能員と北条氏討伐の企てを話し合っていましたが、それを北条政子に聞かれてしまいました。
・1203年、比企能員は名越の北条邸で謀殺され、頼家も将軍職をはく奪されました。
「北条政子・義時」らによる北条時政の失脚・1205年、畠山重忠・重保親子は、北条時政の策略で謀反の疑いにより北条軍に討たれてしまいました。(畠山重忠の乱
・この後、北条時政が源実朝を殺害し、北条時政の後妻牧ノ方の女婿平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、「北条政子・義時」らに阻止され、義時が執権に就任し、時政は失脚・追放されました。
1221年「承久の乱」で、北条政子の御家人への訓示で幕府は結束後鳥羽上皇は、執権北条義時追討の命令を諸国の武士に下しました。
・これに対し、尼将軍「北条政子」は御家人を招集し、頼朝以来の御恩を訓示して結束を固めました。
・幕府軍18万騎が京へ攻めのぼり、戦いは幕府方の圧倒的勝利をもって終わりました。(承久の乱
ツツジの寺、「祇園山安養院田代寺」(大町)

※「鎌倉大町のお寺を見る(衹園山)」参照。
・浄土宗。開山は願行。開基は北条政子。安養院は北条政子の法名。
北条政子が安養院に祀られている観音に祈ったおかげで源頼朝と結ばれ、源頼朝が将軍になったことから、この寺の観音は「良縁観音」とも「昇竜観音」とも呼ばれている。
北条政子の供養塔(宝篋印塔)が建立されています。

「旗上弁財天社」とその裏手に置かれた「政子石」
 旗上弁財天社.JPG

 政子石.JPG

鶴岡八幡宮「白旗神社」
 鶴岡八幡宮白旗神社.JPG

「壽福寺」と「北条政子の墓」(五輪塔)
 壽福寺.JPG

 壽福寺北条政子墓.JPG

「安養院」と「北条政子の供養塔」(宝篋印塔)
 安養院.JPG

 安養院北条政子の墓.JPG

『北条政子』などの歴史小説を書いた「永井路子」(1925年(大正14)〜 )
 ・『北条政子』や『炎環』で直木賞を受賞した日本の歴史小説家。
 ・『炎環』は、鎌倉幕府成立の時代を、阿野全成(頼朝の弟)、梶原景時、北条保子
  (北条政子の妹、全成の妻)、北条義時をそれぞれ主人公に描いた作品。
  NHK大河ドラマ「草燃える」の原作の一つ。
 ・1962年、鎌倉市に住居を構え、2001年まで鎌倉山に住んでいました。
 ・1998年(平成10)に、「鎌倉市名誉市民」になりました。
鎌倉市名誉市民
 鎌倉市では、学術技芸その他文化の振興及び地方自治の進展に貢献し、その功績が非常にすぐれ世の尊敬を受ける方に対して、「鎌倉市名誉市民」の称号を贈呈しています。
 →「鎌倉市の名誉市民についてのまとめ」を参照。

 
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2018年11月13日

今年の鎌倉検定も間近に迫ってきました 2018.11

2018年(平成30)の鎌倉検定の試験日は、11月25日(日)です。

 あと10日あまりですね

100点とらなくても合格できます。
2級と3級は70点以上、1級は80点以上が、合格点です。

●どんな試験でも基本が大切です。
●最良の受験対策は、「公式テキストブック」と「読んで分かる中世鎌倉年表」を改めて読むことです。
 鎌倉検定公式テキストブック新版改訂.jpg   読んでわかる中世鎌倉年表.JPG
 ※4月に「鎌倉検定公式テキストブック」が改訂されました。
  旧テキストも第14回の試験(2020年)まで公式テキストとして使用可能です。

「公式テキストブック」の「口絵」や巻末の「資料(鎌倉人物小辞典、鎌倉略年表など)」と「索引」は、おさらいをするのにはうってつけのページです。
 特に、「鎌倉略年表」には、本文にあまり載っていない事項(例えば、鎌倉市名誉市民など)が多々あります。


鎌倉検定合格バッジ(1級、2級、3級)」が、あなたのお手元に届くようにお祈りいたします。
     鎌検1級.JPG  鎌検2級.JPG  鎌検3級.JPG

 
ラベル:鎌倉 鎌倉検定
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2018年11月12日

鎌倉ゆかりの人物―北条高時のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「14代執権・北条高時」です。

北条高時
1303
〜1333年
・鎌倉幕府14代執権。9代執権北条貞時の子。
・父と同じ14歳で執権となったが、実権は長崎円喜、高資父子、安達時顕が握っており、そのため、闘犬、田楽、飲酒などにふけり、政治をおろそかにしました。
・新田義貞の鎌倉攻めによって、一族とともに東勝寺で自刃。
 鎌倉幕府は滅亡しました。

北条氏の系図(執権1〜14代)
 北条師時から高時の系図.jpg

「北条高時」の主な功績や執権時代の出来事
1316年、14代執権に就任・1311年、北条貞時が死去した時、高時はまだ9歳でした。貞時は、得宗高時の後見を、内管領長崎円喜と安達時顕に託しました。
・執権は北条師時→宗宣→煕時→基時と推移し、高時が14歳になると、正式に執権として就任しました。
1301年、北条貞時の出家に伴い、10代執権に「北条師時」・北条師時は、北条時宗の弟、北条宗政の子。
北条高時が成人するまでの中継ぎ役として期待されたが、実権は貞時に握られていました。
1327年、夢窓疎石が端泉院を建立夢窓疎石は、京・土佐などを転々としていましたが、北条高時の母覚海尼が、疎石の高名を聞き、懇請して鎌倉に入りました。
・その後、疎石は後醍醐天皇に招かれて、京都の南禅寺に滞在するが、再度、北条高時の懇請で鎌倉に入り、二階堂の地に瑞泉院を建てました。
 これが「瑞泉寺」の源です。
浄光明寺敷地絵図に登場する「北条高時」の屋敷

※「浄光明寺敷地絵図」は「ココ」を参照。
・この絵図は、鎌倉幕府滅亡の後に寺の関係者が寺領を保護してもらうため、足利直義の執事上杉重能に差し出し、その許可を得たものです。

・絵図の真ん中右側には、「北条(赤橋)守時」の屋敷区画があり、すぐ東側には「御中跡」とあり、「北条高時」の屋敷でした。
葛原ヶ岡にある「日野俊基の墓」

※「鎌倉ゆかりの人物―後醍醐天皇のあれこれ」を参照。
・後醍醐天皇は、日野俊基らの公卿とともに討幕計画を進めました。
 (1324年「正中の変」、1331年「元弘の変」)
・朝廷の権力を取り戻そうと計画したが成功せず、日野俊基は、1332年、北条高時の命令により処刑されました。
東勝寺

※執権の推移:
北条高時
→1326年2月金沢貞顕
→1326年4月赤橋守時
・開山は栄西の弟子、退耕行勇とされ、開基は北条泰時といわれるが、創建の時期など詳細は不明。
・1333年、北条一門がここに火を放ち、北条高時以下、総勢、約870人が自害したといわれます。
・15代執権金沢貞顕は、祖父の金沢実時が創設した「金沢文庫」を発展させましたが、北条高時らとともに東勝寺で最期を遂げました。
腹切りやぐら・宝戒寺(小町)後方の屏風山と小富士山に囲まれた葛西ヶ谷の奥、東勝寺跡内にあります。
・新田義貞の鎌倉攻めで自刃した北条高時はじめ、北条一族の屍を葬ったとされるが、実際の埋葬地は釈迦堂ヶ谷奥やぐら群と推定されています。
「貝吹地蔵」の伝説・新田義貞の鎌倉攻めの際、自害した北条高時の首を新田勢に渡すまいと高時の家来が持って逃げたが、埋める場所に窮し、その時、地蔵が貝を吹いて、夢窓疎石の建てた徧界一覧亭から天園に向かう谷間に導いてくれ、無事に首を埋められたということです。
・また一説には、新田勢が攻めてきた時に、ほら貝で知らせた地蔵であるともいうことです。
宝戒寺の徳崇大権現堂

※「鎌倉小町のお寺を見る(金龍山)」を参照。
・1335年、後醍醐天皇が北条一族の霊を弔うため、足利尊氏に命じて北条氏の執権屋敷跡に宝戒寺を建立させました。
北条高時は、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇から「徳崇大権現」という神号を下賜され、宝戒寺本堂右前にある徳崇大権現堂に祀られています。
北条高時の遺児時行による「中先代の乱」

※「鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1335年7月25日)を読む(2)」を参照。
・1335年、北条高時の遺児時行が幕府復活を計って、信濃国で反乱を起こし(中先代の乱)、足利直義軍を打ち破り、一時鎌倉を奪還したが、足利尊氏に奪回されました。
・その後、南朝に属して北畠顕家・新田義興らに従い、再度鎌倉を占領したが、1353年、足利氏に捕えられ殺害されました。
亀甲山成福寺
(小袋谷)
・鎌倉で唯一の浄土真宗
・開山は成仏で、北条泰時の子、泰次といわれています。1232年、親鸞に師事して成仏の名をもらい、天台宗から浄土真宗に改宗しました。
・鎌倉幕府が倒れたときの住職成円は、北条高時の実弟だったため寺を追われ、以後、70年ほど無住だったということです。

国指定史跡「東勝寺跡」
 東勝寺跡.JPG

腹切りやぐらの傍にある「東勝寺旧蹟」の石碑
東勝寺旧蹟の石碑.JPG元弘三年(1333)五月、新田義貞が鎌倉に攻め入ると、北条高時は小町の邸宅を出て、先祖代々の墓所である東勝寺にこもりました。

150年間、賑わい極めた鎌倉の町の邸宅や商店が一面に炎と煙に包まれている様子を遠く眺めながら、一族の者870人以上が共に自刃しました。

その北条執権政治の終局となる悲惨な場面は、実にこの場所で行われたのです。

祇園山ハイキングコースの登山口にある「腹切りやぐら」
 腹切りやぐら.JPG

瑞泉寺裏山にある「貝吹地蔵」
 貝吹地蔵.JPG

宝戒寺の「徳崇大権現堂」
 徳宗大権現堂.JPG

 
posted by トシ999 at 08:00| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする