2017年03月21日

鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1211年10月13日)を読む(22)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

(40)建暦元年(1211)10月13日
 鎌倉滞在中の京都鴨社の氏人鴨長明が、源頼朝の忌日にあたるとして、その墳墓堂である法華堂に参り、和歌一首を堂の柱に記す。
 長明の詠んだ和歌は「草も木も靡きし秋の霜消えて空しき苔を払う山風」というもの。
 今度の滞在で長明はたびたび源実朝に謁見しているが、長明を実朝に推挙したのは、『新古今和歌集』の撰者の一人飛鳥井雅経。
 なお長明は、帰京後の翌年三月、『方丈記』を執筆することになる。

鴨長明(1155〜1216年)
 平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人・随筆家。
 清少納言の「枕草子」、兼好法師の「徒然草」とともに、日本三大随筆の一つである「方丈記」の作者。
 1211年、飛鳥井雅経(あすかいまさつね)の供として鎌倉に下向してきて、3代将軍源実朝と面談しました。

飛鳥井雅経(1170〜1221年)
 和歌・蹴鞠に秀でた公家。飛鳥井流蹴鞠の祖。妻は大江広元の娘。
 京都と鎌倉の文化交流に貢献しました。
 →「鎌倉時代前期に鎌倉に来た鴨長明」を参照。

法華堂(西御門)
 1189年に聖観音を本尊として、鶴岡八幡宮の東側、現在の清泉小学校裏手に建てられました。もとは頼朝の持仏堂で、頼朝は死後、ここに葬られました。
 江戸時代、頼朝の墓の下に堂があり、これを「法華堂」と称したが、明治新政府が発した神仏分離に関する布告でこの法華堂は廃され、1872年、白旗神社となりました。
 →「鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1199年正月13日)を読む(16)」を参照。

源実朝(1192年〜1219年)
 鎌倉幕府三代将軍。源頼朝と北条政子の次男。
 鎌倉時代前期の万葉調の歌人として知られ、藤原定家に師事しました。
 また後鳥羽上皇とも親密な関係にありました。

 家集に『金槐和歌集』があります。
 「金」は「鎌倉」の鎌の字の「かねへん」を表し、「槐」には「大臣」という意味があります。

 以下に、実朝の歌を紹介します。
鎌倉国宝館前の関東大震災で倒壊した二ノ鳥居に刻まれた歌碑
 『山はさけ うみはあせなむ 世なりとも 君にふた心わがあらめやも』
 実朝歌碑1.JPG

鎌倉海浜公園(坂ノ下)の百人一首でおなじみの歌の歌碑
 『世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟のつなでかなしも』
 実朝歌碑2.JPG

鎌倉文学館に設置された歌碑(外灯碑)
 『大海の 磯もとどろに よする波 われてくだけて さけて散るかも』
 実朝歌碑3.JPG

鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の脇にある実朝桜の歌碑
 『風さわぐをちの外山に雲晴れて 桜にくもる春の夜の月』
 実朝桜の歌碑.JPG

鎌倉商工会議所1Fにも歌碑があります
 『箱根路を わが越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に波の寄る見ゆ』

その他、有名な歌をいくつか紹介します。
 『時により 過ぐれば民の 嘆きなり 八大龍王雨やめたまへ』(1211年、洪水の止雨を祈る)
 『出ていなば 主なき宿と 成りぬとも 軒端の梅よ春をわするな』(1219年、暗殺前に読む)

 
posted by トシ999 at 13:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月12日

鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1205年6月22日)を読む(21)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

(36)元久2年(1205)6月22日
 武蔵野国の有力御家人畠山重忠の嫡子重保が、由比ヶ浜付近で北条時政の命を受けた三浦義村に討たれ、ついで重忠も武蔵国二俣川(横浜市旭区)で幕府軍と戦い、敗死する。
 事件の発端は、時政の後妻牧ノ方の女婿平賀朝雅が、口論相手の重保に謀叛の疑いありとして、牧ノ方に讒言したことにあるという。

畠山重忠(1164〜1205年)
 ・源頼朝が鎌倉入りの際に従った御家人で、怪力の持ち主という伝説があります。
  平氏との一谷の戦で、愛馬を気づかい自ら背負ってヒヨドリ越を降りたということです。

 ・また、音楽的にもすぐれた才能を示しています。
  1186年、静御前が源頼朝に所望され、鶴岡八幡宮若宮回廊で舞を舞った時、畠山重忠が銅拍子を担当しています。
 →「鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1186年4月8日)を読む(9)」を参照。

<永福寺の「畠山重忠の石」>
畠山石.JPG1192年の永福寺建立の時、一人で堂前の池の中に巨石を立てたという強力ぶりが伝えられています。

一人で担いで池の中に据えたといわれる大きな「畠山石」が、永福寺跡の地のはずれにあります。

畠山重忠邸址の石碑
畠山重忠邸址.JPG鶴岡八幡宮の東側にある鳥居の出口のこの辺りは、「畠山重忠の屋敷」があったとされる場所です。

畠山重保(?〜1205年)
 畠山重忠の息子。通称は六郎。
 謀反の疑いをかけられ、由比ヶ浜に呼び出された所を、北条時政の意を受けた三浦義村によって討たれました。
 
<「畠山重保邸址の石碑」と「畠山重保の墓」(若宮大路)>
畠山重保邸址.JPG畠山重保の屋敷」は、鶴岡八幡宮一ノ鳥居の近くにあったと伝えられています。

畠山重保の墓.JPG大型の宝篋印塔の「畠山重保の墓」が若宮大路に建てられています。
畠山重忠・重保親子は、北条時政の策略で、謀反の疑いにより北条軍に討たれてしまいました。
この後、時政が源実朝を殺害し平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、「北条政子・義時」らに阻止され義時が執権に就任し、時政は失脚しました。

佐助稲荷神社
佐助稲荷神社石塔.JPG伊豆蛭ヶ小島に流されていた源頼朝は、挙兵をすすめる「かくれ里の稲荷」という神霊の託宣に従って挙兵したといわれています。

そのことから、畠山重忠に命じて、その里で見つけた祠に社を建てさせたといいます。

佐助稲荷神社本殿
 佐助稲荷本殿.JPG

案内板
佐助稲荷案内板.JPG

 
posted by トシ999 at 15:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月11日

鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1203年9月2日)を読む(20)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

(33) 建仁3年(1203)9月2日
 北条時政が薬師如来像の供養にかこつけ、比企能員を自邸に招いて殺害し、さらに北条政子の命を受けた軍勢が、頼家の長子一幡の館に立てこもる比企氏一族・郎従らを襲う(比企氏の乱)。
 前月27日の譲与内容に激怒していた能員とその一族は、これによって滅亡し、かろうじて脱出した一幡も、二ヶ月後には殺害されている。

源頼家と比企能員の関係図
 頼家と比企氏の関係図2.jpg
 ※阿野全成(1153〜1203年)
  源義朝の子。幼名今若。母は常盤御前で、義経の同母兄。
  醍醐寺で成長するが、異母兄頼朝の挙兵を聞き、下総国で対面した。

比企氏の乱へ至る伏線
1203年 
 5月 
源頼家が、頼朝の弟阿野全成を謀反の疑いで捕え、6月に殺害。
・阿野全成の妻阿波局は、頼家の弟千幡(実朝)の乳母で、北条政子の妹
北条時政が千幡(実朝)を擁立して、頼家と対立していた。 
1203年 
 8月 
源頼家は病床にあり、様態が悪化する中で、関東28か国の地頭職を長子一幡(6歳)に、関西38か国地頭職を弟千幡(12歳、実朝)に譲る。
・頼家の意向は一幡にすべてを相続させるというものであったが、北条時政らによって阻まれた。
北条時政は、一幡の外祖父で有力御家人の比企能員の勢力拡大を恐れていた。
比企能員とその一族は、この相続内容に激怒していた。 

長興山妙本寺
このお寺については「鎌倉大町のお寺を見る(長興山)」を参照。

シダレザクラ咲く4月の本堂の景色ももうすぐ見られます>
 妙本寺シダレザクラ.JPG

カイドウ咲く4月の祖師堂の景色ももうすぐ見られます>
 妙本寺カイドウ.JPG

比企一族の供養塔(比企能員夫妻らの墓)>
 妙本寺の山号の「長興」は比企能本の父能員の法号、寺号の「妙本」は母の法号。
 比企一族供養塔.JPG

一幡の袖塚(焼け跡から見つかった一幡の袖を祀っている)>
 頼家・若狭局の子で、比企氏の乱で6歳で落命した一幡を祀っています。
 一幡の袖塚.JPG

若狭局の蛇苦止堂(じゃくしどう)>
蛇苦止堂への道.JPG妙本寺の総門を入ってしばらく先を進み、左側の上りの道が、若狭局を祀っている「蛇苦止堂」への参道です。

蛇苦止堂.JPG1260年、北条政村の娘に突然「讃岐局」を名乗る怨霊が乗り移り、娘は錯乱して大蛇となって苦しんでいるというのです。

その後、政村は、若狭局(=讃岐局)の怨霊を鎮めるため、蛇苦止明神として祀り、讃岐局を供養し加持祈祷をした結果、政村の娘は癒したといいます。

蛇苦止の井.JPG蛇苦止堂の境内には比企氏の乱の際に、若狭局が家宝を抱いて飛び込んだとする井戸があります。

この井戸は、「蛇苦止の井」または「蛇形の井」と呼ばれているということです。

 
posted by トシ999 at 11:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする