2018年11月04日

鎌倉ゆかりの人物―北条貞時のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「9代執権、北条貞時」です。

北条貞時
1272
〜1311年
・鎌倉幕府9代執権。北条時宗の嫡男。得宗専制体制を確立しました。
・1284年に制定された「新御式目」38条により、得宗が「公方」として政治を進めていくことを求めました。
・1285年、平頼綱の讒言により安達泰盛を滅ぼすと、1293年、平頼綱を誅殺し、1297年、御家人救済のため「徳政令」を発布しました。

北条氏の系図(執権1〜9代)
 北条氏執権9.jpg

「北条貞時」の主な功績や執権時代の出来事
1284年、9代執権に就任・北条時宗の死後、3ヶ月間空位となっていた執権の座に嫡子で14歳の北条貞時がつきました。
・貞時執権就任を主導したのは、貞時の外祖父で有力御家人の安達泰盛といわれています。
1285年、霜月騒動・御家人を中心とした政治改革推進派の安達泰盛と北条得宗独裁化を進める平頼綱(御内人)が対立。
・安達泰盛と嫡子宗景が、内管領平頼綱の攻撃をうけて滅びました。
1289年、7代将軍惟康親王の鎌倉追放・将軍は、惟康親王→久明親王へ。
後深草院二条が鎌倉に来ており、日記「とはずがたり」に惟康親王の惨めな帰洛を記しています。
1293年、平禅門の乱北条貞時は、内管領の平頼綱が権力を持ちすぎ、独断・専横を止めるため、誅殺しました。
1296年、鷲峰山覚園寺を建立・真言宗。開山は智海心慧、開基は北条貞時
・1218年、北条義時が創建した大倉薬師堂を前身とし、北条貞時は、再度の元軍の来襲を退けることを祈願して、寺に改めました。
1297年、徳政令を定める・当時は元寇の処理の影響もあり、御家人の所領に関する紛争が増大していた。
・この「徳政令」は、源頼朝以来の幕府の基盤である御家人体制を維持するための苦肉の策ともいわれています。
1301年、円覚寺梵鐘を寄進・鎌倉三名鐘(建長寺・円覚寺・常楽寺の梵鐘)の一つ。鎌倉で最大の梵鐘で、「洪鐘」(おおがね)と呼ばれています。
・大檀那は北条貞時、撰文は西澗子曇、鋳物師は物部国光。

円覚寺梵鐘「洪鐘」鋳造の伝説
 鋳造師「物部国光」は、鋳造がうまくいかず失敗を繰り返すが、北条貞時が七日間江の島弁財天に参詣したところ、ある夜、夢の中で白鷺池の底を掘ってみよというお告げがあり、池の底から金銅の塊を発見した。
 それを鋳造して3回目で成功した北条貞時は、洪鐘鋳造の成功に感謝して弁天堂を建立したといいます。

国宝 洪鐘の説明板
国宝洪鐘案内板.JPG

国宝 洪鐘
 洪鐘1.JPG

 洪鐘2.JPG

「弁天堂」とその内部の様子
 弁天堂1.JPG

 弁天堂.JPG
 
 弁天堂内部.JPG

 
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2018年11月03日

鎌倉ゆかりの人物―北条時宗のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「8代執権、北条時宗」です。

北条時宗
1251
〜1284年
・鎌倉幕府8代執権。北条時頼の次男。安達氏の甘縄邸に生まれる。
・文永の役・弘安の役で元軍を撃退。その後、宋より無学祖元を招き、円覚寺を創建。
・独裁化を深め「寄合」を開き、「深秘のご沙汰」で政治を進めました。

北条氏の系図(執権8代)
 北条氏執権8.jpg

「北条時宗」の主な功績や執権時代の出来事
1268年、8代執権に就任 ・鎌倉幕府5代執権・北条時頼は、子の時宗がまだ幼少であったため、長時に執権を譲り、その後、長時は政村に執権を譲りました。
・1268年、7代執権北条政村は時宗に執権を譲り、自らは連署となりました。
田辺が池の雨乞い伝説

※「鎌倉ゆかりの人物―日蓮と忍性のあれこれ」を参照。
・1271年、大干ばつに襲われたため、時宗は極楽寺の「忍性」に雨乞い祈祷を命じたが、雨はついに降らなかった。
・代わって「日蓮」が法華経を唱え始めると、大雨が降り始め、この勝負は日蓮の勝利に終わったという伝説です。
1274年、文永の役 ・度重なる元からの国書を幕府・朝廷は黙殺したため、元軍は博多に押し寄せました。
・元軍は博多湾に上陸し、集団戦法で幕府を翻弄しましたが、突然撤退しました。
1281年、弘安の役 時宗は、博多湾の沿岸防衛のため石築地建造を九州の御家人に命じるなど、2度目の蒙古襲来に備えていました。
・やがて、元軍は、暴風雨のため、甚大な被害を受けて撤退しました。
1277年、阿仏尼の鎌倉下向 ・阿仏尼は、時宗に所領相続の正当性を訴えるために、京から下向し、その旅日記と鎌倉滞在記を『十六夜日記』に著しました。
1282年、一遍の鎌倉入りを拒否

※「鎌倉検定−蒙古の襲来(1282年3月1日)を読む(7)」を参照。
・一遍は踊り念仏を行いながら全国を行脚し、常陸・武蔵を経て、鎌倉の北の入り口の巨福呂坂(北鎌倉付近)から鎌倉に入ろうとしましたが、木戸で時宗に出会い阻止されました。
・一遍一行がその晩野宿した場所が、「光照寺」のある場所だったと伝えられています。
 この様子を描いたのが「一遍聖絵(ひじりえ)」(国宝:「一遍上人絵伝」)です。
 ※『「一遍聖絵」第5巻第5段』→「ココ」参照。
1282年、円覚寺創建

※「北鎌倉のお寺を見る(瑞鹿山)」を参照。
時宗は、蒙古襲来の戦没者供養のため、無学祖元を開山として、「瑞鹿山円覚寺」を建立しました。
・1284年、時宗は、元寇という国難との戦いに疲れたのか、33歳という若さで、その短い生涯を閉じました。
1282年頃、太平寺創建時宗の招きにより宋から来朝した大休正念を導師として仏殿供養を行ったのが始まりです。
明月院の前身である禅興寺を創建・北条時頼が最明寺を創建したが廃寺となり、その後、時宗が蘭渓道隆を開山として創建。

北条時宗廟所の円覚寺塔頭「佛日庵」
 ・時宗の命日4月4日に、開基毎歳忌が行われます。
 佛日庵.JPG

 北条時宗像.JPG

北条時宗の誕生の地にある甘縄神明神社境内の「北条時宗産湯の井」
 ・北条時宗の祖母は安達景盛の娘の「松下禅尼」で、時宗夫人は安達泰盛の養女の
  「覚山尼」です。
 北条時宗産湯の井.JPG

円覚寺の伝説:「白鷺池」
 8代執権北条時宗は、二度にわたる蒙古襲来の敵味方すべての戦没者供養のために、1282年、新しい寺を創建しようと寺地を探していた。
 なかなか適当な地が見つからないでいると、鶴岡八幡宮の神霊が白鷺に姿を変え、北鎌倉にある池に舞い降りて導いたという。
 この鷺が舞い降りた場所が、今も円覚寺の門前にある「白鷺池」だといわれている。

 白鷺池.JPG

 
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2018年10月22日

鎌倉ゆかりの人物―北条経時・時頼のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「4〜5代執権、北条経時・時頼」です。

北条経時
1224
 〜1246年
・鎌倉幕府4代執権。北条泰時の孫。
・父時氏の早世で、19歳で4代執権になりましたが、執権職の心労により重病となり、1246年に弟の時頼に執権職を譲り、23歳の若さで亡くなりました。
北条時頼
1227
 〜1263年
・鎌倉幕府5代執権。北条泰時の孫で、北条経時の弟。
・父時氏と早くに死別したため、祖父・泰時に養育され、その才能を高く評価されていました。
・反北条勢力を一掃し、北条氏の権力を堅固なものとしました。
・寺社を保護し、禅を篤く信仰。蘭渓道隆を開山に招き、建長寺を創建しました。

北条氏の系図(執権1〜5代)
 北条氏執権4-5.jpg

「北条経時」の主な功績や執権時代の出来事
浄土宗の大本山
天照山光明寺
・「北条経時」が然阿良忠を招いて創建した佐助ヶ谷の蓮華寺を、1243年に材木座に移して「光明寺」と改めました。
・「経時の墓」は、光明寺裏山の中腹にあります。
深沢に木製の鎌倉大仏建立・1243年6月、勧進聖人浄光房の6年間の勧進活動により、八丈余の阿弥陀像(大仏)が建立される。僧良信を導師として供養が行われる。
・この時に供養された大仏は、木製。
鎌倉幕府第5代将軍に藤原頼嗣就任・1244年4月、藤原(九条)頼経の子頼嗣が元服し、頼嗣は征夷大将軍となる。
・頼嗣は、「北条経時」の妹である檜皮姫を御台所に迎える。

1847年に再建された鎌倉に現存する最大の「天照山光明寺の山門」> 
 光明寺山門.JPG
 ※このお寺については、「鎌倉材木座のお寺を見る(天照山)」を参照。

光明寺裏山の中腹にある「北条経時の墓」
 北条経時墓.JPG

「北条時頼」の主な功績や執権時代の出来事
1246年、「宮騒動・藤原(九条)頼経の側近で北条氏の一門の「名越光時」が、北条時頼を討とうとする計画を立てたとの嫌疑をかけられ、出家するという事態が発生。
北条時頼は反対勢力を一掃し、7月11日に、藤原(九条)頼経を京都に強制送還。
1247年、「宝治合戦北条時頼と三浦氏が対立し、時頼は、外祖父の安達景盛とともに、三浦氏を攻撃。
・三浦泰村は、源頼朝の法華堂に籠り、弟の光村らとともに源頼朝の法華堂で自害しました。
1249年、幕府が「引付」を設置北条時頼による訴訟制度の改革。
 裁判の迅速化をはかるため、御家人の所領に関する訴訟を担当する機関として引付を新設しました。
1252年、金銅製の「鎌倉大仏」建立・8月に金銅の大仏が鋳られ始めました。
・この時に建立されたのが、現在の鎌倉大仏(高徳院阿弥陀如来像)。
1253年、巨福山建長寺を創建

※「北鎌倉のお寺を見る(巨福山)」を参照。
北条時頼は、宋の蘭渓道隆を招いて日本で初めての「禅専門道場」である「建長寺」を創建。

・「建長寺の梵鐘」は国宝に指定されており、1255年、北条時頼が大旦那となり、鋳物師物部重光によって鋳造されました。
1256年、出家 ・1260年、日蓮が『立正安国論』を北条時頼に上書。それにより、日蓮の松葉ヶ谷法難が勃発しました。

「北条時頼の廟所」と「北条時頼の墓」が明月院にあります
 ・かつて、この辺りには北条時頼が建てた最明寺があり、出家生活をここで送りまし
  たが、37歳で死去しました。
 時頼廟所.JPG

 北条時頼の墓.JPG

 ※「明月院」については、「北鎌倉のお寺を見る(福源山)」を参照。

「銭洗弁財天宇賀福神社」の「銭洗水」:「鎌倉五名水」の一つ
 ・「北条時頼」は、1257年「巳」の年に参拝し、金銭をこの水で洗い清めると同時に
  己の心身を清め行いを慎めば不浄の塵埃が消えて清浄の福銭になると人々に勧め、
  自ら率先して金銭を洗い一族の繁栄を祈ったといいます。
  以来多くの参詣者でにぎわうようになりました。
 銭洗弁財天宇賀福神社.JPG

 銭洗水.JPG

諸国行脚を重ねた北条時頼の廻国伝説・謡曲「鉢の木」
 旅僧姿の時頼が、ある日大雪に道を見失ってしまった。夕暮れ時であったため、荒れ果てた家に泊めてもらうことにした。
 家主は時頼とも知らずに粟飯をふるまい、暖をとるため薪の代わりに秘蔵の「梅、松、桜の鉢の木」をためらいもなく炉にくべてくれた。

 素性をたずねると、もとは佐野荘の領主で、今は一族に土地を奪われ落ちぶれているのだと答える。しかし、いざ鎌倉という時には、やせ馬にまたがっても一番に馳せ参じる覚悟だと鎌倉武士の心得を語るのであった。

 後年、軍勢を集めた時頼は、言葉に違わず一番に馳せ参じたこの武士の忠節ぶりに感激し、「鉢の木」にちなんで、梅田、松枝、桜井の各荘を領地として与えたというのである。 


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