2018年10月17日

鎌倉ゆかりの人物―北条時政・義時・泰時のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「1〜3代執権、北条時政・義時・泰時」です。

北条時政
1138
 〜1215年
・鎌倉幕府初代執権。北条政子の父。源頼朝を扶けて幕府創設に貢献。
・頼朝の死後、2代将軍の頼家を廃し、実朝を擁立。執権となって実権を握りました。
・後に子の北条義時や政子と対立し、出家。伊豆に追放されました。
北条義時
1163
 〜1224年
・鎌倉幕府2代執権。北条時政の次男。
・姉の政子や子の泰時らとともに承久の乱を鎮圧。
 後鳥羽上皇らを流罪にし、京都に六波羅探題を設置しました。 
北条泰時
1183
 〜1242年
・鎌倉幕府3代執権。承久の乱で京都に攻め上がり、初代六波羅探題北方に就任しました。
・父義時の死後、執権となり、御成敗式目(貞永式目)を制定して執権政治を確立しました。 

北条氏の系図(執権初代〜3代)
 北条氏執権1-3.jpg

「北条義時」が執権時の主な出来事
・「1213年、和田合戦」:和田義盛との戦い
 →「鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1213年5月2日)を読む(23)」を参照。
「1219年、源実朝の暗殺」:北条義時の戌神将伝説
 →「鎌倉覚園寺についてのあれこれ」を参照。
「1221年、承久の乱」:後鳥羽上皇との戦い
 →「鎌倉検定−天変地異起こる(1221年5月19日)を読む(2)」を参照。

源頼朝墓東隣の山の中腹から発掘された「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」
 法華堂跡説明板.JPG

 法華堂跡.JPG

「北条義時」が建立した大倉薬師堂を前身とした「鷲峰山覚園寺」(二階堂)
 覚園寺山門.JPG


「北条泰時」の主な功績や執権時代の出来事
新田義貞の鎌倉攻めで北条一門が自害した「東勝寺」 ・開山は栄西の弟子、退耕行勇とされ、開基は「北条泰時」といわれます。 
現存する日本最古の築港遺跡の「和賀江嶋」 ・1232年、往阿弥陀仏が船着場としての築島を幕府に申請し、「北条泰時」がこれを受け入れて整備されました。 
武家社会の基本理念「御成敗式目・1232年、武家による初めての成文法で、頼朝時代の先例と武家の道理を基本として制定しました。
鎌倉と金沢(横浜市)を結ぶ切通「朝夷奈切通」 ・1240年、幕府は鎌倉と六浦の間に道を開くことを決め、「北条泰時」が指揮を執り、率先して工事にあたりました。
鶴岡八幡宮の裏手から北鎌倉へ抜ける切通「巨福呂坂」 ・現在の小袋坂は、明治になって開かれたが、旧道は「北条泰時」が造ったといわれ、鶴岡八幡宮脇から西側の尾根を越えて圓應寺の前から建長寺へ出る道でした。現在は途中で寸断されています。
釈迦堂ヶ谷と大町、名越を結ぶ「釈迦堂切通

 ※鎌倉内にある切通のため、鎌倉七口には数えられていません。
・1224年、「北条泰時」が父義時を弔うために建てた釈迦堂があったといわれることからこの名が付きました。
・現在は、通行禁止。

二の鳥居から鶴岡八幡宮に向かった右側の付近一帯「宇津宮辻子幕府跡・「北条泰時」は、大倉からこの地に幕府を移し、4代将軍藤原頼経を擁して、1225年から1236年までの約11年間、執権として政務にあたりました。
・現在、宇都宮稲荷が祀られています。
宇津宮辻子幕府の北側に位置する「若宮大路幕府跡・「北条泰時」は、宇津宮辻子からこの地に幕府を移しました。
・1236年から1333年の幕府滅亡まで、97年間の将軍御所でありました。
真言宗、開山は弘法大師の「普明山成就院」(極楽寺)
・1219年、「北条泰時」がこの寺を創建し、北条一族の繁栄を祈ったということです。(注)当時の執権は、北条義時。
・1333年、新田義貞の鎌倉攻めの戦火で焼失したが、江戸時代に再建されました。

「北条泰時」が妻の母の供養に建てた粟船御堂が前身の「粟船山常楽寺」(大船)
 常楽寺山門.JPG

常楽寺仏殿の裏にある「北条泰時の墓」
 北条泰時墓.JPG

鎌倉七口の中で当時の姿を最も今に伝えている「朝夷奈切通」
 朝夷奈切通.JPG

宇津宮辻子幕府跡に建つ「宇都宮稲荷神社」
 宇津宮辻子幕府旧蹟.JPG

若宮大路幕府跡に建つ石碑
 若宮大路幕府旧蹟石碑.JPG
 
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2018年10月06日

鎌倉ゆかりの人物―比企能員のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「御家人・比企能員」です。

比企能員(?〜1203年)
 ・源頼朝の乳母である比企尼の養子。
 ・平氏追討に加わり、頼朝の信任を得ました。頼朝の死後、2代将軍頼家と結び、権力
  を振るいました。
 ・北条氏討伐を企てたが政子に知られ、名越の北条邸にて謀殺されました。後に一族も
  北条氏によって滅ばされました。

比企氏と源頼家の関係図
 頼家と比企氏の関係図.jpg

1203年の「比企氏の乱」
 ・頼朝の死後、頼家が2代将軍になると、頼家の義父比企能員の進出を阻止しようと、
  北条時政、政子、義時は比企氏への警戒を強めました。
 ・1203年、頼家の様態が悪化する中、北条時政らの策略で相続について長子一幡と頼家
  の弟千幡(実朝)が分かち合う形となり、いよいよ北条氏と頼家・比企氏との対立が
  現実のものとなり、争いが勃発しました。

 ※「比企氏の乱」については、「鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1203年9月2日)を読む(20)」を参照。

比企一族の邸宅跡の「長興山妙本寺」(大町)
 ・1260年創建。開山は日蓮。開基は、比企能員の子・能本
 妙本寺山門.JPG

 ・比企一族の供養塔(比企能員夫妻らの墓)
  妙本寺の山号の「長興」は比企能本の父能員の法号、寺号の「妙本」は母の法号。
 比企能員の墓.JPG
 ※このお寺については、「鎌倉大町のお寺を見る(長興山)」を参照。

常栄寺と同様に「ぼたもち寺」と呼ばれる「龍口山法源寺」(腰越)
 ・龍ノ口の刑場に引かれて行く日蓮に比企能員夫人の妹・桟敷尼がぼた餅を捧げた逸話
  があります。桟敷尼の実家の菩提寺であったことが「ぼたもち寺」の由来。
 ・龍口寺輪番八ヵ寺の一つ。
 法源寺入り口.JPG

 法源寺本堂.JPG

 
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2018年10月03日

鎌倉ゆかりの人物―畠山重忠・重保父子のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「鎌倉幕府の重臣、畠山重忠・重保父子」です。

畠山重忠(1164〜1205年)
 ・平安末〜鎌倉時代初期の武将。秩父氏の一族で頼朝の挙兵後、鎌倉入りを扶け、幕府
  の重臣となりました。
 ・怪力の持ち主、また銅拍子や鼓の演奏にも長けていたということです。
 ・頼朝亡き後、北条氏の謀略によって、武蔵国二俣川で討ち死にしました。

畠山重忠邸址の石碑
 ・鶴岡八幡宮の東側にある鳥居の出口辺りに「畠山重忠の屋敷」がありました。
畠山重忠邸址の石碑.JPG
正治元年(1199年)5月、源頼朝の娘三幡が病気にかかり、これを治すために、当時の名医丹波時長が京都から来ました。

吾妻鑑によると、7日に時長が、掃部頭中原親能の亀ガ谷の家から、 畠山次郎重忠の南御門にある宅に移りました。

これは、三幡姫の近い所に居て、姫の病気治療にあたるためです。

この場所が、即ち南御門の家のあった跡です。

「畠山重忠」に関するエピソード
「怪力」のこと ・「畠山重忠」は、平氏との一谷の戦で、愛馬を気づかい自ら背負ってヒヨドリ越を降りたということです。
・1192年の永福寺建立の時、一人で堂前の池の中に巨石を立てたという強力ぶりが伝えられています。
 この「畠山石」に見立てた大きな石が、永福寺跡のはずれにあります。
「音楽的にもすぐれた才能」のこと ・1186年、静御前が源頼朝に所望され、鶴岡八幡宮若宮回廊で舞を舞った時、「畠山重忠」が銅拍子を担当しています。なお、工藤祐経が鼓を打ちました。
三浦大介義明との戦い ・1180年、三浦大介義明は、源頼朝が挙兵したが石橋山の戦いで敗れたと聞き、出撃途中で引き返して衣笠城に籠城。
・その後、敵方の「畠山重忠」率いる軍勢と衣笠城合戦となり、義明は戦死しました。 
佐助稲荷神社
(佐助) 
・伊豆蛭ヶ小島に流されていた源頼朝は、挙兵をすすめる「かくれ里の稲荷」という神霊の託宣に従って挙兵したといわれています。
・そのことから、「畠山重忠」に命じて、その里で見つけた祠に社を建てさせたといいます。

「永福寺跡図」とそこに置かれた「畠山石」に見立てた大きな石
永福寺跡.JPG

 畠山石.JPG

畠山重忠の乱
 ・1205年、北条時政の後妻牧ノ方の女婿平賀朝雅が畠山重忠の子重保と口論したことを
  きっかけに、重忠・重保親子は、謀反の疑いにより北条軍に討たれてしまいました。
 ・この後、北条時政が源実朝を殺害し、平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、「北条
  政子・義時」らに阻止され、義時が執権に就任し、時政は失脚しました。

畠山重保(?〜1205年)
 ・畠山重忠の息子。通称は六郎。
 ・謀反の疑いをかけられ、由比ヶ浜に呼び出された所を、北条時政の意を受けた三浦
  義村によって討たれました。

「畠山重保邸址の石碑」と「畠山重保の墓」(若宮大路)
 ・「畠山重保の屋敷」は、鶴岡八幡宮一の鳥居の近くにあったと伝えられています。
畠山重保邸址の石碑.JPG畠山重保は重忠の長男で、かつて北条時政の婿の平賀朝雅と争いになり、朝雅はその恨みを蓄え、重保父子を時政に讒言しました。
時政も重忠が頼朝の死後、その遺言に従って、頼家を保護するの見て恨んでいたため、 なにかあれば失脚の機会をねらっていました。
そこで源実朝の命令であるとして、兵を遣わして重保の邸を囲みました。
重保も奮闘しましたが戦死しました。
時に元久二年(1205年)6月22日のことで、この場所は、その屋敷跡です。
その翌日、重忠もまた偽りの誘いを受けて武蔵国の二俣川で討ち死にしました。

 ・大型の宝篋印塔の「畠山重保の墓」が若宮大路に建てられています。
 畠山重保の墓.JPG
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