
今回は「1〜3代執権、北条時政・義時・泰時」です。
◎北条時政 1138 〜1215年 | ・鎌倉幕府初代執権。北条政子の父。源頼朝を扶けて幕府創設に貢献。 ・頼朝の死後、2代将軍の頼家を廃し、実朝を擁立。執権となって実権を握りました。 ・後に子の北条義時や政子と対立し、出家。伊豆に追放されました。 |
◎北条義時 1163 〜1224年 | ・鎌倉幕府2代執権。北条時政の次男。 ・姉の政子や子の泰時らとともに承久の乱を鎮圧。 後鳥羽上皇らを流罪にし、京都に六波羅探題を設置しました。 |
◎北条泰時 1183 〜1242年 | ・鎌倉幕府3代執権。承久の乱で京都に攻め上がり、初代六波羅探題北方に就任しました。 ・父義時の死後、執権となり、御成敗式目(貞永式目)を制定して執権政治を確立しました。 |
<北条氏の系図(執権初代〜3代)>

<「北条義時」が執権時の主な出来事>
・「1213年、和田合戦」:和田義盛との戦い →「鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1213年5月2日)を読む(23)」を参照。 |
・「1219年、源実朝の暗殺」:北条義時の戌神将伝説 →「鎌倉覚園寺についてのあれこれ」を参照。 |
・「1221年、承久の乱」:後鳥羽上皇との戦い →「鎌倉検定−天変地異起こる(1221年5月19日)を読む(2)」を参照。 |
<源頼朝墓東隣の山の中腹から発掘された「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」>
<「北条義時」が建立した大倉薬師堂を前身とした「鷲峰山覚園寺」(二階堂)>
<「北条泰時」の主な功績や執権時代の出来事>
新田義貞の鎌倉攻めで北条一門が自害した「東勝寺」 | ・開山は栄西の弟子、退耕行勇とされ、開基は「北条泰時」といわれます。 |
現存する日本最古の築港遺跡の「和賀江嶋」 | ・1232年、往阿弥陀仏が船着場としての築島を幕府に申請し、「北条泰時」がこれを受け入れて整備されました。 |
武家社会の基本理念「御成敗式目」 | ・1232年、武家による初めての成文法で、頼朝時代の先例と武家の道理を基本として制定しました。 |
鎌倉と金沢(横浜市)を結ぶ切通「朝夷奈切通」 | ・1240年、幕府は鎌倉と六浦の間に道を開くことを決め、「北条泰時」が指揮を執り、率先して工事にあたりました。 |
鶴岡八幡宮の裏手から北鎌倉へ抜ける切通「巨福呂坂」 | ・現在の小袋坂は、明治になって開かれたが、旧道は「北条泰時」が造ったといわれ、鶴岡八幡宮脇から西側の尾根を越えて圓應寺の前から建長寺へ出る道でした。現在は途中で寸断されています。 |
釈迦堂ヶ谷と大町、名越を結ぶ「釈迦堂切通」 ※鎌倉内にある切通のため、鎌倉七口には数えられていません。 | ・1224年、「北条泰時」が父義時を弔うために建てた釈迦堂があったといわれることからこの名が付きました。 ・現在は、通行禁止。 |
二の鳥居から鶴岡八幡宮に向かった右側の付近一帯「宇津宮辻子幕府跡」 | ・「北条泰時」は、大倉からこの地に幕府を移し、4代将軍藤原頼経を擁して、1225年から1236年までの約11年間、執権として政務にあたりました。 ・現在、宇都宮稲荷が祀られています。 |
宇津宮辻子幕府の北側に位置する「若宮大路幕府跡」 | ・「北条泰時」は、宇津宮辻子からこの地に幕府を移しました。 ・1236年から1333年の幕府滅亡まで、97年間の将軍御所でありました。 |
真言宗、開山は弘法大師の「普明山成就院」(極楽寺) | ・1219年、「北条泰時」がこの寺を創建し、北条一族の繁栄を祈ったということです。(注)当時の執権は、北条義時。 ・1333年、新田義貞の鎌倉攻めの戦火で焼失したが、江戸時代に再建されました。 |
<「北条泰時」が妻の母の供養に建てた粟船御堂が前身の「粟船山常楽寺」(大船)>
<常楽寺仏殿の裏にある「北条泰時の墓」>
<鎌倉七口の中で当時の姿を最も今に伝えている「朝夷奈切通」>
<宇津宮辻子幕府跡に建つ「宇都宮稲荷神社」>
<若宮大路幕府跡に建つ石碑>