2018年09月29日

鎌倉ゆかりの人物―新田義貞のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「鎌倉幕府滅亡の立役者・新田義貞」です。

新田義貞(1301〜1338年)
 ・上野国の河内源氏一門、新田庄の領主。鎌倉〜南北朝時代の御家人。
 ・鎌倉へ進軍し、稲村ヶ崎から突破して鎌倉幕府を滅亡させました。
 ・後醍醐天皇の建武の新政で重用されたが、足利尊氏と対立。朝廷軍の大将となって
  尊氏軍討伐を目指したが、越前の藤島の戦いで討ち死にしました。

 ※「鎌倉幕府の滅亡
  →「鎌倉検定−蒙古の襲来(1333年5月22日)を読む(21)」を参照。

新田義貞軍の出陣
 ・1333年、後醍醐天皇の挙兵にあわせ、新田義貞もまた上野で挙兵し、足利高氏
  (尊氏)の子・千寿王(後の義詮)を擁して鎌倉へ向かい、鎌倉が戦場となり、
  鎌倉幕府は滅亡しました。

 ・新田義貞の鎌倉攻めのルートは、「上の道」です。
  鎌倉・仮粧坂→藤沢→町田→府中→狭山→碓井峠と、群馬県方面に続いています。

「龍神に祈った新田義貞」の伝説
 『太平記』によれば、新田義貞は大軍を率いて鎌倉に迫った。ところが稲村ヶ崎から鎌倉につづく道は狭く、波打際には逆茂木が並べられ、沖合いには北条軍の大船数百隻が、横矢を射かけて侵入を防ぐために並んでいたという。
 とても突破できるような状況ではなかったが、義貞は腰に差していた黄金造りの太刀を抜いて海中に投げ込み、海に向かって「わが軍のために道を開き給え」と龍神に祈った。
 するとその日の夜、二十町余りも潮が引き、横矢を射かけようとしていた船も遥か遠くへ行ってしまった。
 軍勢はなだれをうったように干潟を渡り、鎌倉へ攻め入ったと伝えられている。

 ・稲村ヶ崎には、「新田義貞徒渉伝説地」の石碑が建っています。
 新田義貞徒渉伝説地の石碑.JPG

数々の戦いの跡と関連寺院や史跡
小動神社
(腰越)
・1333年、新田義貞は鎌倉攻めの際に戦勝祈願し、後に社殿を再興しました。 
小動山浄泉寺(腰越)・真言宗。819年創建。開山は空海(弘法大師)。
・かつて八王子社(小動神社)と一緒にあり、新田義貞が鎌倉攻めの途中で八王子社に奉納した剣が一時保管されていたといわれています。
十一人塚
(稲村ヶ崎)
大舘宗氏(おおだち むねうじ)は、義兄弟にあたる新田義貞と共に鎌倉幕府に対し挙兵し、宗氏主従11人が戦死しました。
・その遺体をここに埋め、十一面観音の像を建ててその魂を弔いました。 
普明山成就院(極楽寺)・1219年、北条泰時が創建。1333年、新田義貞の鎌倉攻めで焼失したが、江戸時代に再建されました。 
「洲崎古戦場」の石碑と
「泣塔」
(寺分) 
・湘南モノレールの湘南深沢駅近くに、新田軍と赤橋守時率いる北条勢との間で激戦が繰り広げられた「洲崎古戦場」の石碑があります。
・またその近くには、付近のやぐらの被葬者に対する供養塔といわれる「泣塔」(宝筺印塔)が建立されています。
乱橋(材木座) ・材木座の水道路交差点から海の方へ少し行ったところに架かる橋。
・新田義貞の軍勢が鎌倉に攻め入った時、北条幕府軍の防御線がくずれはじめたのがこの橋の辺りだったことから、「乱橋」と呼ばれるようになったということです。 
仮粧坂
(扇ガ谷) 
・藤沢を経て武蔵方面に通じる、戦略上きわめて重要な拠点だったことは、新田義貞が鎌倉攻めの際に、この「仮粧坂」に軍の主力を向け、激戦地となったことからも推測されます。 
休場山等覚寺(梶原) ・創建は応永年間(1394〜1428年)。開山は秀恵僧都。
・新田義貞の鎌倉攻めで死んだ武士を供養する五輪塔や宝筺印塔、無縁塔が祀られています。 

「新田義貞」が鎌倉に唯一建立した寺、「内裏山九品寺」(材木座)
 ・1336年創建。浄土宗。山号は内裏山。開山は風航順西。本尊は阿弥陀三尊。
 ・新田義貞は、北条方の戦死者を弔うため、材木座にある鎌倉攻めの折の本陣跡に建立
  しました。

 ・山門に掲げられた「内裏山」の額の字と、本堂に掲げられた「九品寺」の額の字は、
  義貞の筆を写したもので、直筆の額は本堂に保存されています。
 九品寺本堂.JPG

 九品寺本堂扁額.JPG

 ・3月に、紅白の花が混じって咲く「サラサボケ」や真っ赤な紅色の「ヒボケ」も開花
  します
 ・5月に、野性味あふれる「ナニワイバラ」が一重の白い花弁を開きます。
 ・「鎌倉三十三観音霊場」の第16番目の札所で、観音様は、「聖観世音菩薩」です。

新田義貞の最後
・1334年、後醍醐天皇による「建武の新政」の後、1335年に北条高時の遺児時行が起こした「中先代の乱」の制圧のため、足利尊氏は後醍醐天皇の許可を得ないまま、京都を発して鎌倉を奪回しました。
・後醍醐天皇は、足利尊氏を討つために「新田義貞」を派遣しましたが、義貞は敗れ、京都に帰還しました。京都では新田軍は足利軍を打ち破り、足利尊氏は一度は九州へ逃げたが巻き返しを図り、再度上洛し、新田軍と足利軍との戦いはさらに続いていきました。
・そして、1338年、ついに「新田義貞」は、越前の藤島の戦いで敗れて、討ち死にしました。 

 
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2018年09月28日

鎌倉ゆかりの人物―日蓮と忍性のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「同じ時期に活躍した日蓮上人と忍性上人」です。

日蓮(1222〜1282年)
 ・日蓮宗の開祖。1253年、安房国から名越切通を越えて鎌倉に入り、その地「松葉ヶ
  谷」に庵を結びました。それが、「安国論寺」とも「妙法寺」ともいわれています
  が、はっきりしません。
 ・1260年、『立正安国論』を5代執権北条時頼に上書しました。
 ・過激な他宗批判、政治批判を行い、4回の法難に会いました。

忍性(1217〜1303年)
 ・真言律宗の僧。極楽寺の開山。
 ・貧民救済のため、悲田院、施薬院などの療養施設を開設しました。
 ・道路や橋、井戸の修築など土木事業にも尽力しました。

「日蓮」と「忍性」の大勝負「田辺が池の雨乞い伝説」
 ・1271年、大干ばつに襲われたため、8代執権北条時宗は極楽寺の「忍性」に雨乞い
  祈祷を命じたが、雨はついに降らなかった。
  替わって「日蓮」が法華経を唱え始めると、大雨が降り始め、この勝負は日蓮の勝利
  に終わったという伝説です。
 田辺が池.JPG
 ・この「田辺が池」は、「霊光寺(七里ヶ浜)」の山門の左手にあります。
 ・霊光寺は、明治の末、「日蓮大菩薩祈雨之旧跡地」と記した石塔が出土したので、
  この地に本堂を建立したのが寺の始まりです。
 ※「鎌倉の寺院に建つ石碑のこと−(2017年鎌倉検定1級の問題から)」を参照。

「日蓮上人」ゆかりの主な寺院
楞厳山妙法寺(大町)・1253年創建。日蓮が草庵を結んだ地。 
→「鎌倉大町のお寺を見る(楞厳山(りょうごんざん))」を参照。
妙法華経山安国論寺(大町)・1260年、日蓮は、安国論寺の日蓮岩窟(「御法窟」)で立正安国論を書きました。
・日蓮の桜の杖が根付いたといわれる「妙法桜」(ヤマザクラ)や、日蓮が白猿に導かれた伝説の洞窟「南面窟」があります。
→「鎌倉大町のお寺を見る(妙法華経山)」を参照。 
石井山長勝寺(材木座)・1263年創建。日蓮に帰依していた石井藤五郎長勝が、流されていた伊豆から鎌倉に戻った日蓮のために結んだ庵が寺の起源。
→「鎌倉材木座のお寺を見る(石井山)」を参照。 
慧雲山常栄寺(大町)・1606年創建。開山は日詔。愛称は、「ぼたもち寺」です。
→「鎌倉常栄寺の愛称は?」を参照。 
行時山光則寺(長谷)・1274年創建。開山は日朗。開基は宿谷光則。
・日蓮の佐渡流罪前夜、日蓮が日朗に送った手紙「土牢御書」の石碑があります。
→「鎌倉長谷のお寺を見る(行時山)」を参照。 

日蓮上人関連史跡について
日蓮上人辻説法跡(小町)・明治時代の日蓮宗学者の田中智学がその周囲を整備しました。 
→「鎌倉妙隆寺の界隈を見る 2017.9」を参照。 
日蓮袈裟掛松(稲村ヶ崎)・鎌倉十橋の針磨橋から稲村ヶ崎駅に向かう途中にあります。
→「2016年鎌倉検定2級の問題からpickupする(3)」を参照。 
日蓮乞水(大町)・鎌倉五名水の一つ。長勝寺前から旧名越切通に通じる道の途中にあります。
→「鎌倉五名水についてのまとめ」を参照。 

その他の「日蓮」の関連事項
「日蓮四大法難」とは ・松葉ヶ谷法難(1260年)・伊豆法難(1261年) 
・小松原法難(1264年)・龍ノ口法難(1271年) 
→「鎌倉検定−天変地異起こる(1260年7月16日)を読む(16)」を参照。 
各寺院にある「日蓮上人像」 ・海潮山妙長寺(材木座)・長興山妙本寺(大町)
・龍王山霊光寺(七里ヶ浜)・石井山長勝寺(材木座)
 →「日蓮上人像のこと―鎌倉検定2014年1級の問題から見た鎌倉(16)」参照。 


「忍性上人」の功績や史跡について
 ・「極楽寺切通」(坂ノ下から極楽寺の門前まで続く坂道)を切り開きました。
  →「鎌倉の道、鎌倉七口についてのまとめ」を参照。

 ・極楽寺の裏手に「忍性菩薩廟(忍性墓)」があります。:毎年4月8日特別公開。
  →「鎌倉極楽寺の4月の特別公開のこと−(2017年鎌倉検定1級の問題から)」を参照。
 ※「忍性墓」の写真→「文化遺産オンライン:忍性墓」を参照。

 
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2018年09月24日

鎌倉ゆかりの人物―西田幾多郎のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「哲学者・西田幾多郎」です。

西田幾多郎(1870(明治3)〜1945年(昭和20))
 ・哲学者。1928年(昭和3)から没するまで稲村ヶ崎に居住。
 ・絶対無という東洋思想を根底に西洋哲学と融合した独自の西田哲学を構築。

 ・2018年7月の新聞では、西田幾多郎の遺族宅で西田直筆のノートが多数みつかった
  というニュースがありました。
  生まれ故郷の石川県西田幾多郎記念哲学館などが読み解きを進めているとのことで
  した。

七里ヶ浜にある、海の風景を詠った「記念歌碑」
 ・稲村ヶ崎から海岸を西に向かうと、近代日本の代表的な哲学者の「西田幾多郎博士
  記念歌碑
」が建っています。

  「七里濱 夕日漂ふ波の上に 伊豆の山々果し知らずも
 西田幾多郎の歌碑1.JPG

 西田幾多郎の歌碑2.JPG

西田幾多郎博士記念歌碑.JPG

「西田幾多郎博士記念歌碑」から見る稲村ヶ崎
 西田幾多郎記念歌碑と稲村ヶ崎.JPG

七里ヶ浜と江の島と富士山
 七里ヶ浜と富士山.JPG

東慶寺にある「西田幾多郎の墓」
 西田幾多郎墓.JPG

 
posted by トシ999 at 08:00| Comment(1) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする