2016年02月23日

鎌倉時代末期に鎌倉に来た兼好法師

鎌倉時代に鎌倉に来た有名人について、その様子を見てみました。
今まで、次の人々について見ました。
 ・鎌倉時代初期・・・・西行
 ・鎌倉時代前期・・・・鴨長明
 ・鎌倉時代中期・・・・阿仏尼
 ・鎌倉時代後期・・・・後深草院二条

今回は、最後に、「兼好法師」です。

兼好法師(1283年頃〜1352年以後)
 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての随筆家・遁世者。30歳ごろに出家。
 本名は卜部兼好(うらべかねよし)。
 清少納言の「枕草子」、鴨長明の「方丈記」とともに、日本三大随筆の一つである「徒然草」の作者。

徒然草
 徒然草は、鎌倉時代末期、1330年代あたりに成立したとされています。
 兼好法師は、京から鎌倉へ何度か行って、徒然草にも鎌倉のことが何度か出てきます。

<徒然草での鎌倉のお話の一例>
119段 「鎌倉の海でとれる鰹の話」
 鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は、下部も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。
 かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。

→ 鎌倉の海でとれる鰹という魚は、この辺りでは並ぶ物のない良いものだとして、もてはやされている。その鰹も、鎌倉の老人が言うには、「この魚は、わしらが若かった頃には、身分のある人の食卓に出ることも無かった。頭など、身分の低い者でも食べずに切って捨てていたものだ」という。
 そんな魚も、世も末ならば、身分のある人の食卓にまで出されるようになった。

<鎌倉の海:材木座海岸
 材木座海岸.JPG

<鎌倉のカツオのこと>
 江戸時代の俳人、山口素堂が、春から夏にかけて江戸の人々が最も好んだ物の一つに、鎌倉のカツオを詠んだ歌があります。
 「目には青葉 山ほとゝぎす はつ松魚」

 また、松尾芭蕉が、鎌倉の初ガツオが江戸で大人気だっだのを詠んだ歌があります。
  「鎌倉を 生きて出でけむ 初鰹」

 初鰹は初夏の季語で、鎌倉を生きたまま出荷された初鰹の活きのよさを詠ったものです。
 江戸時代には高級ブランドだったようです。

 なお、カツオの漁法は、「小型定置網」によります。
 
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2016年02月21日

鎌倉時代後期に鎌倉に来た後深草院二条

鎌倉時代に鎌倉に来た有名人について、その様子を見てみました。
今回は、「後深草院二条」です。

後深草院二条(1258年〜没年不詳、1306年以後)。
 後深草院に仕える女房だったが、26歳のとき、後深草院の中宮である東二条院により御所を退かされました。
 その後31歳で出家し、西行にならって修行の旅に出ました。
 日記「とはずがたり」(全5巻)の作者です。

とはずがたり
 14歳で後深草上皇の寵愛 を得て宮廷生活を送ったときの記録や、出家後、諸国を巡った旅の見聞録です。(1306年以後に成立)

 第4巻に、1289年、32歳の時に鎌倉を訪れた様子が書かれています。
 当時、鎌倉は9代執権北条貞時の時代で、7代将軍惟康親王が鎌倉を追放される時でした。
 明くれば鎌倉へ入るに、極楽寺といふ寺へ参りてみれば、僧の振舞、都にたがはず、懐しくおぼえてみつつ、けはひざかといふ山を越えて、鎌倉のかたをみれば、東山にて京を見るにはひきたがへて、きざはしなどのやうに重々に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる、あなものわびしとやうやう見えて、心とどまりぬべき心地もせず。

→「鎌倉に入ると、極楽寺の僧は都と変わらないと懐かしく思うが、仮粧坂を越えて、鎌倉の方を眺めると、京都の東山からの眺めとは違って、家々が階段のように幾重にも重なって、袋の中に物を入れたように住んでいるのは、なんともわびしく見えてきて、心惹かれるものではない。」と伝えています。

<極楽寺山門>
極楽寺山門1.JPG真言律宗。
山号は霊鷲山。

開山は忍性
開基は北条重時

1259年、重時が深沢の地にあった「極楽寺」を現在の地に再建した。

<仮粧坂の石碑>
仮粧坂石碑.JPG名の由来にはいくつもの説があります。
 ・平家の大将の首をこの坂で化粧して首実検したから。
 ・辺りに娼家があって化粧した女性たちがいたから。
 ・辺りの樹木が勢いよく生え繁っていたので、木生(きは)え、気勢(きはえ)といわれていたから等。

<仮粧坂上から>
 仮粧坂上.JPG

<仮粧坂下から>
 仮粧坂.JPG

<極楽寺から仮粧坂にどのように行ったのでしょうか??>
 極楽寺から仮粧坂へ.jpg
 
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2016年02月20日

鎌倉時代中期に鎌倉に来た阿仏尼

鎌倉時代に鎌倉に来た有名人について、その様子を見てみました。
今回は、「阿仏尼」です。

阿仏尼(1222年?〜1283年)
 鎌倉時代中期の女流歌人。藤原為家(定家の子)の側室で、冷泉為相の母。
 紀行文日記「十六夜日記」の作者。

<十六夜日記>
 1283年ころ成立。
 夫の藤原為家の死後、実子為相の義理の兄為氏が、播磨国にある為相の領地を奪い、所領相続問題が発生しました。

 1277年、阿仏尼は、鎌倉幕府北条時宗に、相続の正当性を訴えるため、京から鎌倉に下りました。
 「十六夜日記」はその旅の日記であり、鎌倉滞在記です。

 阿仏尼は、鎌倉の月影ヶ谷(現在の江ノ電「極楽寺駅」周辺)に、4年間住んだといわれています。

<阿仏尼邸旧蹟の石碑>
 江ノ電「極楽寺駅」を海側に向かった右手奥の踏切の脇に、「阿仏尼邸旧蹟」の石碑が建っています。
 阿仏尼邸旧蹟1.JPG

 阿仏尼邸旧蹟2.JPG

 裁判は長引き、阿仏尼が生きている間には決着が着きませんでしたが、訴訟は為相に引継がれました。
 訴訟は、阿仏尼が鎌倉に下向してから34年後の1313年に、為相側の勝訴で決着しました。
 藤原為家の死後、三家(二条家(為氏)・京極家(為教)・冷泉家(為相))に分裂しましたが、後に二条家と京極家は断絶していまい、冷泉家だけが残りました。

<阿仏尼の供養塔(扇ガ谷)>
 鎌倉駅西口から今小路を北進して横須賀線沿いに歩き、英勝寺の少し先に、「阿仏尼の墓」といわれる供養塔があります。
阿仏尼の墓1.JPG 阿仏尼の墓2.JPG
 
posted by トシ999 at 13:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・旧跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする