2022年10月11日

鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(三浦義澄)

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来月の鎌倉検定に向けて、今年のトピックスとして「鎌倉殿の13人」をテーマに取り上げていきます。

今回は、「三浦義澄」です。
 ※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。

三浦義澄:(1127年〜1200年)
三浦義澄_R.jpg・三浦大介義明の次男。兄の杉本義宗が亡くなり、家督を相続。
・源平合戦で活躍し、源頼朝との篤い信頼関係を築きました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・有力御家人とともに、梶原景時追放へ協力しました。
・病気で死去しました。

三浦義澄の年表
1127年・三浦大介義明の次男として、相模国三浦郡で生まれる。
1164年・兄の杉本義宗が亡くなり、家督を相続した。
1180年・源頼朝が挙兵した「石橋山の戦い」に駆けつけたが、酒匂川が暴風雨により増水したため渡れず、間に合わなかった。
・その後、本拠地「衣笠城」へ引き返したが、平氏方の畠山軍との「衣笠城合戦」が勃発し、三浦大介義明は、三浦義澄らを夜中に城から脱出させ、自身は城に残り討ち死にした。
・その後、安房国で源頼朝と合流し、「上総氏」や「千葉氏」などに声を掛け、平氏討伐のために尽力した。
1185年・「壇ノ浦の戦い」などの合戦に従軍して戦功を立て、「上総介広常」や「千葉常胤」らと共に、源頼朝の重臣となった。
1199年・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。
・千葉常胤ら有力御家人とともに、梶原景時糾弾の訴状を提出した。
1200年・病気により死去。墓は、神奈川県横須賀市の「薬王寺跡」にある。

三浦義澄の家系図
 三浦義澄の系図.jpg

随我山来迎寺(材木座)
 ・1194年、源頼朝が三浦大介義明の菩提を弔うため建立した能蔵寺がはじまりです。
  1335年、音阿上人が時宗に改宗し、現在の名前に改名しました。
 来迎寺_R.JPG

境内の「三浦大介義明の墓」(右の五輪塔)と「多々良重春の墓」(左の五輪塔)
 ・義明は89歳で戦死しましたが、頼朝は、義明が17回忌まで生きたものとみなすよう
  伝えたため、「百六つ義明公」とも呼ばれました。
 ・多々良重春は、三浦大介義明の孫で、畠山重忠との戦いで戦死しました。
 三浦大介義明の墓_R.JPG

境内裏手には、百余基の五輪塔の三浦一族「三浦大介公家来の墓」が並んでいます
 三浦一族の墓_R.JPG

 
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2022年10月10日

鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(梶原景時)

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来月の鎌倉検定に向けて、今年のトピックスとして「鎌倉殿の13人」をテーマに取り上げていきます。

今回は、「梶原景時」です。
 ※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。

梶原景時(1140年頃〜1200年)
梶原景時_R.jpg・平氏方の武将でしたが、石橋山の戦いで源頼朝を助けました。
・源平合戦で息子の源太景季と共に活躍し、平家を滅ぼしました。
・幕府創設に功績のあった上総介広常を源頼朝の命令で討ちました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・結城朝光を讒言して弾劾にあい、失脚。有力御家人たちに追われ、駿河で討たれました。

梶原景時の年表
1140年頃・梶原景清の次男として、相模国鎌倉郡梶原で生まれる。
1180年・石橋山の戦いで敗れた源頼朝を、しとどの窟で見つけたが助け、信任を得た。
1183年・源頼朝の命を受けて、頼朝が幕府を開くにあたり大きな功績のあった「上総介広常」を討った。
・その時の太刀を、朝夷奈切通の太刀洗川に沿った岩肌から湧き出る水で洗ったといわれている。
1185年・屋島の戦いを前に源義経と逆櫓論争を繰り広げた。
・壇ノ浦の戦いの前にも先陣を巡り、源義経と対立。
1199年・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。
・結城朝光の謀反の疑いを源頼家に讒言したが弾劾にあい、鎌倉追放となった。
1200年・景時は、三浦義村、和田義盛ら有力御家人たちに追われ、嫡男源太景季をはじめ景時の一族は、駿河国清見関で討たれた。
・「梶原景時とその一族の墓」は、鎌倉市の深沢小学校の裏手にある。

◎朝夷奈切通の太刀洗川に沿った岩肌から湧き出る「梶原太刀洗水」
 ・梶原景時は、1183年、源頼朝が幕府を開くにあたり大きな功績のあった上総介広常を
  頼朝の命令で討ったあと、この水で太刀の血のりを洗い流したといわれています。
 ・「鎌倉五名水」の一つ。
 梶原太刀洗水2_R.JPG

◎三門梶原施餓鬼会(建長寺:7月15日)
・餓鬼道で苦しむ一切の衆生に食物を与えて供養する法会が施餓鬼会。
・建長寺では、三門の下に一山の僧侶が集まり行う施餓鬼会に引き続いて、梶原景時の亡霊を弔うために、もう一度施餓鬼会を行うのがしきたりになっています。

・建長寺の開山大覚禅師がまだこの寺にいたとき、ひとりの武士が馬に乗ってきて、施餓鬼の終わってしまったのを見て大変残念がっていました。
・そこで大覚禅師はこの武士が帰るのを呼び返して、いま一度施餓鬼をしたところ、その武士は大変喜んで、「自分は梶原景時の霊である。」と言って姿を消したということです。

・そこで建長寺では、毎年七月、施餓鬼会が終わったあと、梶原施餓鬼を行い、景時の霊を慰めています。

◎鎌倉深沢小学校の裏手にある「梶原景時とその一族の墓」
 梶原景時の墓_R.JPG

◎鎌倉笛田にある「仏行寺」の山の頂上にある「源太塚」
 ・梶原源太景季の片腕が埋められていると伝えられています。
 源太塚_R.JPG

◎鎌倉山にある梶原源太景季の妻・信夫の「しのぶ塚」
 ・しのぶは、源太の死に嘆き悲しみ自害したということで、「源太塚」と向き合って
  建っています。
 しのぶ塚2_R.JPG

 
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2022年10月08日

鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(北条義時)

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来月の鎌倉検定に向けて、今年のトピックスとして「鎌倉殿の13人」をテーマに取り上げていきます。

今回は、「北条義時」です。
 ※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。

北条義時(1163年〜1224年)
北条義時_R.jpg・北条時政の次男。北条政子の弟。
・父時政と共に、源頼朝の鎌倉幕府創設に貢献しました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・第3代将軍源実朝の時に、父時政を追放し、2代執権となりました。
・承久の乱を鎮圧。後鳥羽上皇らを流罪にし、幕府軍が勝利を収めました。

北条義時の年表
1163年・「北条時政」の次男として生まれる。
1180年・「治承・寿永の乱」では、父時政と共に従軍。源頼朝の家臣として篤い信頼を得た。
1199年・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。
1203年・「比企氏の乱」で比企氏一族を滅ぼした。
1205年・「畠山重忠の乱」で畠山重忠を討伐したが父時政への不信感が募った。
・第3代将軍源実朝の時に、父時政と対立し伊豆に追放。2代執権となった。
1213年・侍所別当であった和田義盛を挑発し、「和田合戦」にて討伐した。
・これにより、政所別当の他、義盛に代わって侍所別当も兼任することになった。
1219年・第3代将軍源実朝が暗殺され、その時に参列していたが、難を逃れた。
1221年・「承久の乱」が勃発したが、姉の政子や子の泰時らとともに鎮圧。
・後鳥羽上皇らを流罪にし、京都に六波羅探題を設置した。
1224年・病気で死去。没後、供養のために源頼朝の法華堂の東に、「墳墓堂(法華堂)」が建てられた。
・伊豆の国市の「北條寺」の境内にも「北条義時とその後妻の墓」が建てられている。

「北条義時」創建の大倉薬師堂を前身とする「鷲峰山覚園寺(二階堂)」
 ・1296年、9代執権北条貞時が創建。真言宗。開山は智海心慧。
 覚園寺山門_R.JPG

法華堂跡(北条義時墓)(西御門)とされる平場
 ・源頼朝の法華堂の東の山上にあったと推定されています。(吾妻鏡による)
 法華堂跡_R.JPG

北条義時の戌神将伝説
・1218年7月、将軍源実朝の鶴岡八幡宮参拝に従っていた二代執権「北条義時」は、その晩、夢の中で、薬師如来に従う十二神将のうちの「戌神将」が現れ、「今年の将軍の参拝は無事であったが、来年の拝賀の日には供奉しないように」 と告げたという。
 夢から覚めた「義時」は、大倉郷に薬師堂を建立して、薬師如来像を安置した。

・1219年1月、鶴岡八幡宮で源実朝の右大臣拝賀の式が行われた。
 式に参列していた「義時」は、楼門に入るときに「白い犬」が楼門の傍らに見え、気分が悪くなり、その役を源仲章に譲って小町の屋敷に帰った。
 その後、実朝は甥の公暁によって暗殺された。「義時」の代役となった仲章も一緒に斬殺された。

・「戌神将」が白い犬に姿を変えて楼門に現れ、「義時」の命を救ったということのようである。

 
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