2022年10月07日

鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(北条時政)

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来月の鎌倉検定に向けて、今年のトピックスとして「鎌倉殿の13人」をテーマに取り上げていきます。

今回は、「北条時政」です。
 ※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。

北条時政(1138年〜1215年)
北条時政_R.jpg・伊豆国の豪族で、平直方の子孫と言われています。
・北条政子やその弟、北条義時の父で、源頼朝の鎌倉幕府創設に貢献しました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・第3代将軍源実朝の時に、初代執権となり、実権を握りました。
・後に、北条政子や義時と対立し出家。伊豆に追放されました。

北条時政の年表
1138年・伊豆国の在地豪族北条氏の子として生まれる。
1160年・「平治の乱」で敗れて伊豆の蛭が小島へ配流となった「源頼朝」の監視役を任された。
1177年頃・娘の北条政子と源頼朝との結婚に、初めは反対したが、結局結婚を認め、源頼朝の後ろ盾になった。
1180年・源頼朝の挙兵に力を貸し参戦したが、石橋山の戦いで嫡男、北条宗時を失った。
1185年・「壇ノ浦の戦い」で平氏が滅び、源頼朝を助けて鎌倉幕府の創立に貢献した。
1199年・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。
1203年・対立していた比企能員を自邸に招いて殺害し、北条氏の軍勢は比企氏一族を滅ぼした。(比企氏の乱)
1203年・源実朝が第3代将軍に就任すると、政所の別当として実朝を補佐し、初代執権となった。
1205年・「畠山重忠の乱」の後、源実朝を殺害し後妻牧ノ方の女婿平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、北条政子と義時らに阻止され失脚し、伊豆に追放された。
1215年・伊豆国で隠居後、死去。墓所は「願成就院」(伊豆の国市)にある。

 
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2022年10月01日

鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)

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来月の鎌倉検定に向けて、今年のトピックスとして「鎌倉殿の13人」をテーマに取り上げていきます。

今回は、総論です。

「鎌倉殿の13人」とは誰のこと
・武士
 北条時政、北条義時、梶原景時、三浦義澄、和田義盛
 比企能員、安達盛長、足立遠元、八田知家
・文官
 大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政

※北条義時よりも長く生きた人は、確実なところでは、大江広元だけです。

成り立ちの経緯
 ・1199年、源頼朝死去の後、嫡男頼家が頼朝の遺跡を相続した。
 ・源頼家は、訴訟に対して尋常でない裁決を行うなど不安定な政務を行っていた。
 ・同年、北条政子が源頼家の訴訟親裁を停止し、宿老13人の合議による裁決とした。
  →「鎌倉殿の13人」の結成
 

 ・13人の結成後は、病気や内紛で相次いで亡くなっていった。
  →次回以降、各人の生涯を見ていきます。

大河ドラマ館に掲示されている「鎌倉殿の13人」
 鎌倉殿の13人_R.JPG

 
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2022年05月15日

鎌倉海蔵寺に残る2つの井戸のこと

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鎌倉検定に向けて、鎌倉散策で気づいたワンポイントを紹介していきます。
令和4年度鎌倉観光文化検定試験は、開催する方向で準備が進められています。

今回は、海蔵寺に残る2つの「井戸」を見てみました。
1つは「底脱ノ井」、もう1つは「十六井戸」です。

海蔵寺の2つの井戸の場所
 海蔵寺地図.jpg

底脱ノ井(扇ガ谷)
 ・「鎌倉十井」のひとつで、海蔵寺の門前右側にあります。
 海蔵寺門前_R.JPG

 ※「鎌倉十井」とは
・鎌倉は古来より水に恵まれない土地であったため、質の良い水が湧き出す井戸は貴重な水源であった。
・「鎌倉十井」とは、水質もよく美味で、伝説やいわれが残る代表的な十の井戸のこと。
・江戸時代に鎌倉遊覧が盛んになり、名所旧跡を名数を使って紹介したのがはじまりといわれる。

・安達泰盛の娘が悟りを開いたという「底脱ノ井
・「底脱ノ井」の名の由来は、室町時代、上杉家の女が、水を汲むと桶の底が抜け、その瞬間、悟りが開け、「賤の女がいただく桶の底脱けて ひた身にかかる有明の月」と詠んだからとも、鎌倉時代中期の武将で幕府の重臣だった安達泰盛の娘(幼名千代能)が水を汲んで桶の底が抜け、「千代能がいただく桶の底抜けて 水たまらねば月もやどらじ(ず)」と詠んだ歌によるともいわれています。

 底脱ノ井1_R.JPG

 底脱ノ井2_R.JPG

 底脱ノ井3_R.JPG

 底脱ノ井説明板_R.JPG

十六井戸(扇ガ谷)
 ・境内の南の隅の岩窟の中にあります。
・岩窟の中央に観音菩薩像と弘法大師像を祀っています。
・窟底には16の丸穴が空いていて、それぞれに水が溜まっています。伝承によると、「金剛功徳水」と名付けられており病魔退散などの霊験があるとされています。
・その数十六とは、十六(金剛)菩薩(薩・王・愛・喜・寶・光・憧・笑・法・利・因・語・業・護・牙・拳の各菩薩)を表現しているもので、その菩薩に供え捧げる水が閼伽という功徳水です。
・また、井戸ではなく納骨穴とする説もあります。

 十六井戸1_R.JPG

 十六井戸2_R.JPG

 十六井戸3_R.JPG
 ・観音菩薩像
 十六井戸4_R.JPG
 ・弘法大師像
 十六井戸5_R.JPG

 ※嘉元四年(1306)の銘のある「阿弥陀三尊来迎図板碑」も奥壁左側にはまっていたが、現在は重要文化財として鎌倉国宝館に保管されています。
 海蔵寺板碑.jpg

 
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