2022年04月24日

鎌倉の「梶原太刀洗水」と「朝夷奈切通」のこと

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鎌倉検定に向けて、鎌倉散策で気づいたワンポイントを紹介していきます。

今回は、「鎌倉五名水」の一つで、梶原景時と上総介広常との因縁の「梶原太刀洗水」と、「鎌倉七口」の一つ「朝夷奈切通」についてです。
「梶原景時」は、「鎌倉殿の13人」のひとりです。

梶原太刀洗水(十二所)
・朝夷奈切通の太刀洗川に沿った岩肌から湧き出ている水で、「鎌倉五名水」の一つです。
・1183年、「梶原景時」は、源頼朝の命を受けて、頼朝が幕府を開くにあたり大きな功績のあった「上総介広常」を討ったあと、この水で、太刀の血のりを洗い流したといわれています。

朝夷奈切通(十二所)
・朝夷奈切通は、鎌倉と金沢(横浜市)を結ぶ切通で、六浦口とも呼ばれ、「鎌倉七口」の一つです。
・鎌倉の東側の守備と考えられ、鎌倉七口のなかで当時の姿を最も今に伝えています。
・和田義盛の三男で豪傑だった、朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたとの伝承が存在し、朝比奈峠の名の起こりとなっています。
・1240年、幕府は鎌倉と六浦の間に道を開くことを決め、1241年、3代執権北条泰時が指揮を執り、率先して工事にあたり整備が完成しました。

「梶原太刀洗水」の場所と、「朝夷奈切通」から「十二所果樹園」への周回ルート
 朝夷奈切通地図.jpg

「梶原太刀洗水」
 ・十二所神社バス停から脇道に入ると、5分ほどで着きます。
 梶原太刀洗水1_R.JPG

 梶原太刀洗水2_R.JPG

「朝夷奈切通」〜「十二所果樹園」周遊(約1時間)
 @とF:「朝夷奈切通」入口(十二所果樹園との分岐点)、三郎の滝 :左方向へ
 朝夷奈切通入口_R.JPG

 三郎の滝_R.JPG

 ・朝夷奈切通の道
 朝夷奈切通1_R.JPG

 朝夷奈切通2_R.JPG

 朝夷奈切通3_R.JPG

 A:「朝夷奈切通」の熊野神社への分岐点(@から約15分) :右方向へ
 熊野神社分岐点_R.JPG

 B:熊野神社(横浜市金沢区朝比奈町)の鳥居、拝殿、社殿(Aから約5分)
 熊野神社鳥居_R.JPG

 熊野神社拝殿_R.JPG

 熊野神社本殿_R.JPG

 C:横浜市(東朝夷奈三信住宅方面)との分岐点(Bから約10分) :右方向へ
 東朝比奈三信住宅方面_R.JPG

 D:横浜市(六浦方面)との分岐点(Cから約10分) :右方向へ
 六浦方面_R.JPG

 E:十二所果樹園の東側入口(Dから約10分)
  ・案内板
 十二所果樹園_R.JPG

  ・冬の梅林
 十二所果樹園梅_R.JPG

  ・春のショカツサイの群生
 十二所果樹園ショカツサイ_R.JPG

※この後、十二所果樹園の中を通り抜け、@Fの地点の振り出しにたどり着きます。

 
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2022年04月03日

鎌倉鶴岡八幡宮の若宮回廊での「静の舞」のこと

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鎌倉検定に向けて、鎌倉散策で気づいたワンポイントを紹介していきます。

1186年、静御前が義経をしのんで詠い舞った「静の舞」についてです。

静御前
 ・平安後期〜鎌倉時代の白拍子。源義経の愛妾。
 ・源頼朝に追われた義経と逃げたが、捕えられ鎌倉に送られた。

「静の舞」に至る経緯
・源頼朝は、平家討伐を成し遂げた弟義経と不仲になり、義経追討の兵を挙げます。
・義経は静とともに吉野山に逃れますが、ここで義経は静と別れて逃亡を続けます。
・やがて静は捕らえられ、鎌倉へ送られて来ます。
・頼朝は静に鶴岡八幡宮若宮回廊で舞を舞うように命じ、1186年、静は義経をしのんで詠い舞を舞います。
 「よしの山 みねの白雪ふみ分けて いりにし人の あとぞこいしき」
 「しづやしづ しづのをだまきくりかえし 昔を今に なすよしもがな」
・しかし、頼朝は、幕府を称えることなく義経を慕う歌を詠い舞うのに怒ります。
・それを見た北条政子は、かつて自分も頼朝を思い慕った気持ちを教え諭して、頼朝の怒りをなだめます。
・その結果、頼朝は静に褒美を与え許します。

「鎌倉まつり」の時に、古式ゆかしく舞殿で披露される「静の舞」
 静の舞1_R.JPG

 静の舞2_R.JPG

 静の舞3_R.JPG

 静の舞4_R.JPG

 静の舞5_R.JPG

当時の「若宮回廊」とは、どんな形か
 ・鶴岡八幡宮「若宮回廊」の模型(安土桃山時代の図面による再現)
 若宮回廊1_R.JPG

 若宮回廊2_R.JPG

現在の舞殿(下拝殿)
 ・1180年に源頼朝が創建した鶴岡八幡宮(鶴岡若宮)は、1191年に焼失しました。
 ・その後、再建し、現在のような上下両宮の姿となりました。
 ・1193年には、若宮廻廊跡に「舞殿(下拝殿)」が新造されました。
 舞殿_R.jpg

 
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2022年03月27日

鎌倉妙本寺の蛇苦止堂のこと

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鎌倉検定に向けて、鎌倉散策で気づいたワンポイントを紹介していきます。

今回は、源頼家の妻・若狭局ゆかりの「蛇苦止堂」についてです。
妙本寺は、「鎌倉殿の13人」のひとり比企能員ゆかりの寺です。

長興山妙本寺(大町)
 ・1260年創建。開山は日蓮。開基は比企能員の子、比企能本。
 ・山号の「長興」は比企能本の父能員の法号、寺号の「妙本」は母の法号。
 ・境内には、頼家の嫡男の「一幡」、娘の「竹御所」を供養する石碑などがあります。

蛇苦止堂
・「比企ヶ谷」の妙本寺にあり、源頼家の妻・若狭局(比企能員の娘)を祀っています。
・1203年、比企氏の乱で比企一族は北条時政に滅ぼされ、若狭局の子で6歳の一幡も殺害され、若狭局は家宝を抱いて井戸に飛び込んだということです。

・1260年、北条政村の娘に突然「讃岐局」を名乗る怨霊が乗り移り、娘は錯乱して大蛇となって苦しんでいるというのです。
・その後、政村は、大蛇となって娘に乗り移った若狭局(=讃岐局)の怨霊を鎮めるため、蛇苦止明神として祀り、若狭局(=讃岐局)を供養し加持祈祷をした結果、政村の娘は癒したといいます。

妙本寺の「蛇苦止堂」の場所
 ・妙本寺の総門を入ってしばらく先を進み、左側の上りの道を行きます。
 妙本寺境内図_R.JPG

「蛇苦止堂」とその周辺の様子
 蛇苦止堂1_R.JPG

 蛇苦止堂2_R.JPG

蛇苦止の井
 ・比企氏の乱の際に、若狭局が家宝を抱いて飛び込んだとする井戸>
 蛇苦止堂井戸_R.JPG



※境内にある源頼家の嫡男の「一幡」、娘の「竹御所」を供養する石碑
一幡の袖塚
 一幡袖塚_R.JPG

竹御所(源媄子(よしこ))の墓
 竹御所(源よし子)の墓_R.JPG

 
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