2022年03月13日

鎌倉と源氏とのつながりのこと

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鎌倉検定に向けて、鎌倉散策で気づいたワンポイントを紹介していきます。

今回は、鎌倉と源氏とのつながりについてです。
源頼朝が1180年に鎌倉入りする前から、源氏は鎌倉と縁がありました。
そのルーツを見てみました。

鎌倉検定の出題から
 平忠常の乱平定の際,桓武平氏の〔 @ 〕は,〔 A 〕の武芸を認めて婿に迎え,鎌倉の屋敷を譲ったという。これによって〔 @ 〕に従属する相模の武士たちも〔 A 〕と緊密な関係を結ぶことになった。

※答えは、「@平直方 A源頼義」です。

 ・源氏と鎌倉の関係は、1031年に、源頼信・頼義父子が「平忠常の乱」を平定したのが
  きっかけです。

源頼信−頼義−義家−義親−為義−義朝−頼朝
・1028年、平忠常は安房、下総、上総で反乱を起こし、鎌倉を本拠地とした「平直方」が追討に向かったが、鎮圧できず、戦いは3年にも及びました。
・1031年、朝廷は、代わりに河内源氏の「源頼信」を追討使に任じ、頼信は乱を平定したので、頼信の名声は高まりました。
 「平直方」は、頼信の長男「頼義」の武芸を認めて婿に迎え、本拠地の鎌倉を譲り、自身は伊豆に移り、北条氏の祖となりました。
 「源頼義」が平直方から譲られた鎌倉の屋敷は、「亀ヶ谷」にありました。
・1145年、「源義朝」は先祖からの土地である「亀ヶ谷」に住みました。
 源義朝の館は「鎌倉之楯」といわれ、鎌倉五山第三位の壽福寺付近にありました。
・1159年の平治の乱で源義朝が死亡した後には、三浦義明の弟岡崎義実が、義朝供養のために堂を建てました。
 鎌倉地域は源氏の支配地ではなくなり、平家の代官である大庭景親などが相模武士団を指揮統括するようになりました。
・1180年、「源頼朝」が鎌倉入りし、源氏ゆかりの地鎌倉を根拠地としました。

亀谷山壽福金剛禅寺(扇ガ谷)
 ・1200年、北条政子が、日本に初めて臨済禅を伝えた臨済宗の祖、栄西を招いて開山
  しました。
 ・この地一帯は、源頼朝の父義朝の屋敷跡とされています。
「壽福寺」境内の説明板
 壽福寺説明板_R.JPG

源義朝の館、「鎌倉之楯」があった壽福寺の「総門」
 壽福寺_R.JPG

総門から中門へ向かう「参道」
 壽福寺参道中門へ_R.JPG

中門の先にある「仏殿」
 壽福寺仏殿_R.JPG

「参道」を中門から総門方向へ振り返って見る
 壽福寺参道総門へ_R.JPG

 
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2022年02月14日

鎌倉来迎寺に建つ「三浦大介義明の五輪塔墓」のこと

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鎌倉検定に向けて、鎌倉散策で気づいたワンポイントを紹介していきます。

来迎寺(材木座)には、相模国の武将「三浦大介義明(みうらおおすけよしあき)」の五輪塔の墓があります

三浦大介義明(1092〜1180年)
・平安時代末期の相模国三浦郡衣笠城の武将。
・1180年の源頼朝の挙兵に呼応して一族を衣笠城から出撃させたが、雨による増水のため酒匂川を渡ることができず、石橋山の戦いには間に合いませんでした。
・三浦軍は、頼朝の敗北を知り、衣笠へ引き返す途中、由比ヶ浜で畠山重忠軍と遭遇しました。義明と重忠とは親戚関係にあり、お互い了解の上で戦わずにやり過すはずでした。
・ところが、杉本城にいた三浦一族の和田義茂は、三浦軍が重忠に追われていると勘違いをして、重忠を攻めたため、小坪口での合戦へと発展してしまいました。
・三浦軍は衣笠城に引き返しましたが、すぐに重忠軍が衣笠城を攻めたため衣笠城合戦となり、義明は子義澄らの一族を海上から頼朝のもとに逃げさせ、自らは衣笠城に籠り、戦死しました。
・義明は89歳で戦死しましたが、源頼朝は、義明が17回忌まで生きたものとみなすよう伝えたため、「百六つ義明公」とも呼ばれました。

・源義朝の長男義平は、「三浦大介義明」の娘との間に生まれた子で、「鎌倉悪源太」と称したと伝えられています。これは武勇に優れ強いという意味で「悪源太」と呼ばれました。
・今の壽福寺付近にあった源義朝供養のための堂「鎌倉之楯」を建てた岡崎義実は、三浦大介義明の弟です。

三浦大介義明の系図
 三浦大介義明の系図.jpg

本堂右手前に建つ「三浦大介義明の五輪塔の墓」
 三浦大介義明の墓_R.JPG

三浦大介義明の墓の隣に建つ孫の「多々良重春の墓」(左の五輪塔)
・17歳の重春は、畠山重忠との戦い(小坪口での合戦)で戦死しました。
 多々良三郎重春の墓_R.jpg

境内裏手には、百余基の五輪塔の三浦一族「三浦大介公家来の墓」が並んでいます
 三浦大介公家来の墓1_R.JPG

 三浦大介公家来の墓2_R.JPG

随我山来迎寺(材木座)
 ・時宗。開山は音阿。
 ・1194年、源頼朝が三浦大介義明の菩提を弔うため建立した能蔵寺がはじまりです。
  1335年、音阿上人が時宗に改宗し、現在の名前に改名しました。
 ・本堂には本尊である「阿弥陀三尊像」と、「子育て観音」といわれる聖観音が祀られ
  ています。
  本尊の「阿弥陀三尊像」は運慶作とされています。
 来迎寺_R.JPG

 来迎寺本堂_R.jpg

 
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2022年01月27日

鎌倉葛原ヶ岡ハイキングコースに建つ「天柱峰碑」のこと

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鎌倉検定に向けて、鎌倉散策で気づいたワンポイントを紹介していきます。

浄智寺の裏山から上って行く葛原ヶ岡ハイキングコースでは、「天柱峰碑」を見ることができます。
その傍には、名僧竺仙梵僊(じくせん ぼんせん)の供養塔があります。

葛原ヶ岡ハイキングコースの「天柱峰碑」の場所
 葛原岡・大仏ハイキングコース案内板_R.JPG

天柱峰碑(扇ガ谷)
・禅僧竺仙梵僊は、浄智寺背後の山を、「天柱峰」(標高97メートル)と名付け、ここからの景色を愛しました。
・そこに、昭和16年に「天柱峰碑」が建てられました。
 (「天柱」とは「世を支える道義」という意味。)
・傍らには、「竺僊梵僊和尚顕彰碑」と「五重石塔」が建っています。

 天柱峰_R.JPG

竺仙梵僊(じくせん ぼんせん)
 ・鎌倉時代末期に元から来日した臨済宗の禅僧。
 ・1330年鎌倉に下り、足利尊氏・直義の帰依を受けました。
 ・浄妙寺、浄智寺、建長寺などの住持となり、多くの弟子を養成し五山文学発展の基礎
  を築きました。
 ・浄智寺のかつての塔頭楞伽院(りょうがいん)を建立しました。

天柱峰碑の傍に建つ「竺僊梵僊和尚顕彰碑」
 竺僊梵僊和尚顕彰碑_R.JPG
 (裏)
 竺僊梵僊和尚顕彰碑裏_R.JPG
 ・「紀元二千六百年 建供養五重石塔并天柱峰石標 発願者 サアジョルジサンソム」
  ※紀元二千六百年:1940年(昭和15)、皇紀(神武天皇即位紀元)2600年
  ※G.B.サンソム:以前この地に住んだ英国の日本文化史研究家

天柱峰碑の傍に建つ「五重石塔」
  五重石塔_R.JPG

 
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