
今回は、「護良親王が「大塔宮」と呼ばれる理由」についてです。
[3]鎌倉の寺院・神社に関する記述について,最も適当なものを1 〜 4 から選びなさい。 (48) 鎌倉宮の祭神護良親王が「大塔宮」と呼ばれるようになったのはなぜか。 1 大塔という場所に居を構えていたから。 2 父である後醍醐天皇から名付けられたから。 3 若いころ比叡山延暦寺の大塔に入室していたから。 4 大塔という場所で亡くなったから。 |
・大塔宮は、「おおとうのみや」と読みます。
・後醍醐天皇の皇子護良親王は、11歳で比叡山延暦寺の大塔に入室しました。
・後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕のための挙兵に応じて還俗し、倒幕で功績を挙げました。
正解は、「3 若いころ比叡山延暦寺の大塔に入室していたから。」です。 |
※護良親王は、「大塔宮護良親王のこと―(2019年鎌倉検定2級の問題から)」を参照。
◎鎌倉宮(二階堂)
・1869年(明治2)創建。祭神は、大塔宮護良親王。
・護良親王の遺志を後世に伝えることを望んだ明治天皇の勅命により創建されました。
<鎌倉宮社殿>
<鎌倉宮境内奥にある「護良親王の土牢」>
<鎌倉宮の近くにある宮内庁管理の「護良親王の墓所」>
<「妙法寺(大町)」にも「護良親王の墓」があります>
◎護良親王(もりよししんのう)(1308〜1335年)
・後醍醐天皇の皇子。11歳で比叡山延暦寺の大塔に入室したことから「大塔宮」と称されました。 20歳で天台座主になりましたが、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕のための挙兵に応じて、還俗して「護良」と名乗り、倒幕で功績を挙げました。 ・倒幕後、「護良親王」は、足利尊氏が武士を従えて反旗を翻そうとしていることを見抜き、尊氏を打倒しようとしました。 尊氏は、後醍醐天皇に「護良親王」が謀反を起こそうとしていると伝わるように画策したため、1334年、「護良親王」は捕えられ、鎌倉二階堂の「東光寺」の土牢に幽閉されました。 ・1335年、残党を集め鎌倉に攻め入った北条高時の遺児北条時行の反乱(中先代の乱)で、反乱軍に破れた尊氏の弟「足利直義」は逃れる際に、家臣「淵辺義博」に親王の暗殺を命じ、「護良親王」は淵辺義博によって殺害されました。享年28歳。 |
<大塔宮(護良親王)の騎乗像(鎌倉宮パンフレットより)>
