2023年03月14日

2022年鎌倉検定3級の問題から見る鎌倉(45)−光則寺の「土牢御書」の石碑

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2022年11月に3年ぶりに行われた鎌倉検定の3級の問題から、鎌倉を振り返ってみましょう。

今回は、「光則寺の「土牢御書」の石碑」についてです。
[3]鎌倉の寺院・神社に関する記述について,最も適当なものを1 〜 4 から選びなさい。
 (45) 光則寺の裏山には,開山の日朗が幽閉された土牢と「土牢御書」の石碑が今も残されているが、この「土牢御書」を書いたのはだれか。
   1 日蓮   2 日詔   3 日範   4 日叡

 ・光則寺の開山の日朗は、日蓮門下六老僧のひとりで、「師孝第一」といわれました。
 ・宿谷光則が弟子の身を案ずる日蓮に心打たれ、のちに帰依して自邸を寺にしました。

正解は、「1 日蓮」です。

 ※「土牢御書」の石碑は、「ふりかえり鎌倉―日朗が幽閉された土牢のある寺院(鎌倉検定:寺院・神社編(6))」を参照。

行時山光則寺(長谷)
 ・日蓮宗。1274年創建。開基は宿谷光則。開山は日朗。
 ・北条時頼の家臣の宿谷光則は、日蓮の佐渡流罪時に捕えられた日朗を、自邸のこの地
  で監視する任につきました。
 ・宿谷光則は、自らの不運を嘆くことなく弟子の身を案ずる日蓮に心を打たれ、のちに
  帰依して自邸を寺にしました。

光則寺山門
 光則寺山門_R.JPG

山門横に建つ「宿谷光則屋敷跡」の石碑
宿谷光則屋敷跡の石碑.JPG宿谷左衛門尉光則は、北条時頼の近臣でした。
文応元年(1260年)7月16日、日蓮聖人は「立正安国論」を時頼に上申しようと、光則を長谷の邸宅に訪ね、詳細にその趣旨を説いてこれを手渡しました。
日蓮聖人の龍ノ口法難の時、最愛の弟子である日朗も捕らえられ、この邸宅の後の山腹にある土牢に入れられました。この土牢で、日朗は長年にわたって苦行を重ねた哀話を書き残しました。
光則は深く日蓮聖人を信じ、遂に自分の邸宅を寄進して寺を創建しました。それがこの光則寺です。
誰も皆、襟を正して当時を想い追懐することでしょう。

裏山に残る日朗が幽閉された「土牢」と「土牢御書」の石碑
 日朗上人土の牢_R.JPG

日蓮が佐渡流罪前夜、日朗に送った手紙「土牢御書」の石碑
 土牢御書_R.JPG
土籠御書
日蓮は明日佐渡の国へまかるなり  今夜のさむきに付けても、ろうのうちのありさま、思いやられていたはしくこそ候へ  あはれ殿は、法華経一部を色心二法共にあそばしたる御身なれば、父母六親一切衆生をもたすけ給うべき御身なり  法華経を余人のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ  天諸童子 以為給使 刀杖不加 毒不能害と説かれて候へば、別の事はあるべからず  籠をばし出でさせ給い候はば、とくとくきたり給へ  見たてまつり、見えたてまつらん  恐恐謹言。
  文永八年辛未十月九日    日蓮花押
筑後殿

 
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2023年03月13日

2022年鎌倉検定3級の問題から見る鎌倉(44)−高徳院の境内奥にある石碑

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2022年11月に3年ぶりに行われた鎌倉検定の3級の問題から、鎌倉を振り返ってみましょう。

今回は、「高徳院の境内奥にある石碑」についてです。
[3]鎌倉の寺院・神社に関する記述について,最も適当なものを1 〜 4 から選びなさい。
 (44) 鎌倉大仏で知られる高徳院の境内奥にあるものは何か。
   1 高浜虚子の句碑    2 吉野秀雄の歌碑
   3 夏目漱石の句碑    4 与謝野晶子の歌碑

 ・高徳院には、いろいろな人の石碑があります。
 ・問題の石碑は、上流歌人の歌碑です。

正解は、「4 与謝野晶子の歌碑」です。

 ※高徳院の文学碑は、「鎌倉大仏と春夏秋冬の文学碑」を参照。

大異山高徳院清浄泉寺(長谷)
 ・浄土宗。開山、開基ともに不明。1238年着工の大仏は木造で、1247年大風で倒壊。
 ・1252年に現在の青銅像が鋳造されました。

高徳院仁王門
 高徳院_R.JPG

高徳院境内図
 高徳院境内図_R.JPG

国宝鎌倉大仏:「銅造阿弥陀如来坐像」
 鎌倉大仏_R.JPG

与謝野晶子(1878〜1942年)
 ・歌人。与謝野鉄幹(寛)の妻。
 ・雑誌「明星」で活躍。歌集『みだれ髪』が反響を呼び、明治浪漫主義に新時代を開きました。
 ・たびたび鎌倉を訪れ、鎌倉大仏の歌をはじめ鎌倉を読んだ歌が多い。

高徳院境内奥に建つ「与謝野晶子の歌碑」(1952年建立)
 「かまくらや みほとけなれど釈迦牟尼は 美男におわす夏木立かな」
 与謝野晶子歌碑_R.JPG

 
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2023年03月09日

2022年鎌倉検定3級の問題から見る鎌倉(43)−能蔵寺(来迎寺の前身)の建立理由

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2022年11月に3年ぶりに行われた鎌倉検定の3級の問題から、鎌倉を振り返ってみましょう。

今回は、「能蔵寺(来迎寺の前身)の建立理由」についてです。
[3]鎌倉の寺院・神社に関する記述について,最も適当なものを1 〜 4 から選びなさい。
 (43) 源頼朝が材木座の来迎寺の地にもともとあった能蔵寺を建立した理由はどれか。
   1 源義朝の供養のため    2 三浦大介義明の菩提を弔うため
   3 妻の母の供養のため    4 奥州合戦での戦死者の鎮魂と慰霊のため

 ・1180年の源頼朝挙兵に呼応して、三浦大介義明は一族を衣笠城から出撃させました。
 ・しかし、石橋山の戦いには間に合わず、三浦軍は衣笠城に引き返しました。
 ・義明は、子義澄らの一族を海上から源頼朝のもとに逃げさせ、自らは衣笠城に籠り、
  戦死しました。

正解は、「2 三浦大介義明の菩提を弔うため」です。

 ※来迎寺(材木座)は、「鎌倉来迎寺(材木座)に関する人物のこと−(2017年鎌倉検定1級の問題から)」を参照。

随我山来迎寺(材木座)
 ・時宗。開山は音阿。
 ・1194年、源頼朝が三浦大介義明の菩提を弔うため建立した能蔵寺がはじまりです。
  1335年、音阿上人が時宗に改宗し、現在の名前に改名しました。
 ・本堂には本尊である「阿弥陀三尊像」と、「子育て観音」といわれる聖観音が祀られ
  ています。
  本尊の「阿弥陀三尊像」は運慶作とされています。
来迎寺入口の石碑などの様子
 来迎寺入口_R.JPG

本尊阿弥陀三尊像が祀られている「本堂」
 来迎寺本堂_R.JPG

三浦大介義明の墓(右側)
 三浦大介義明の墓_R.JPG

 
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