
今回は、「光則寺の「土牢御書」の石碑」についてです。
[3]鎌倉の寺院・神社に関する記述について,最も適当なものを1 〜 4 から選びなさい。 (45) 光則寺の裏山には,開山の日朗が幽閉された土牢と「土牢御書」の石碑が今も残されているが、この「土牢御書」を書いたのはだれか。 1 日蓮 2 日詔 3 日範 4 日叡 |
・光則寺の開山の日朗は、日蓮門下六老僧のひとりで、「師孝第一」といわれました。
・宿谷光則が弟子の身を案ずる日蓮に心打たれ、のちに帰依して自邸を寺にしました。
正解は、「1 日蓮」です。 |
※「土牢御書」の石碑は、「ふりかえり鎌倉―日朗が幽閉された土牢のある寺院(鎌倉検定:寺院・神社編(6))」を参照。
◎行時山光則寺(長谷)
・日蓮宗。1274年創建。開基は宿谷光則。開山は日朗。
・北条時頼の家臣の宿谷光則は、日蓮の佐渡流罪時に捕えられた日朗を、自邸のこの地
で監視する任につきました。
・宿谷光則は、自らの不運を嘆くことなく弟子の身を案ずる日蓮に心を打たれ、のちに
帰依して自邸を寺にしました。
<光則寺山門>
<山門横に建つ「宿谷光則屋敷跡」の石碑>
文応元年(1260年)7月16日、日蓮聖人は「立正安国論」を時頼に上申しようと、光則を長谷の邸宅に訪ね、詳細にその趣旨を説いてこれを手渡しました。
日蓮聖人の龍ノ口法難の時、最愛の弟子である日朗も捕らえられ、この邸宅の後の山腹にある土牢に入れられました。この土牢で、日朗は長年にわたって苦行を重ねた哀話を書き残しました。
光則は深く日蓮聖人を信じ、遂に自分の邸宅を寄進して寺を創建しました。それがこの光則寺です。
誰も皆、襟を正して当時を想い追懐することでしょう。
<裏山に残る日朗が幽閉された「土牢」と「土牢御書」の石碑>
<日蓮が佐渡流罪前夜、日朗に送った手紙「土牢御書」の石碑>
土籠御書 日蓮は明日佐渡の国へまかるなり 今夜のさむきに付けても、ろうのうちのありさま、思いやられていたはしくこそ候へ あはれ殿は、法華経一部を色心二法共にあそばしたる御身なれば、父母六親一切衆生をもたすけ給うべき御身なり 法華経を余人のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ 天諸童子 以為給使 刀杖不加 毒不能害と説かれて候へば、別の事はあるべからず 籠をばし出でさせ給い候はば、とくとくきたり給へ 見たてまつり、見えたてまつらん 恐恐謹言。 文永八年辛未十月九日 日蓮花押 筑後殿 |