2017年06月13日

鎌倉極楽寺周辺の今は 2017.6

アジサイの季節、「極楽寺」から「御霊神社」辺りを見てみました。

霊鷲山極楽寺
 真言律宗。開山は忍性。開基は北条重時
 1259年、重時が深沢の地にあった「極楽寺」を現在の地に再建しました。
山門前は、アジサイの季節です
 極楽寺山門1.JPG

 極楽寺山門2.JPG

「極楽寺」の裏手の方、「月影地蔵堂」へ行く手前で見られる「星月マーク」のマンホール
 星月マンホール.JPG
 ※「星月マーク」については、「鎌倉の「星月のマーク」を見る」を参照。

月影地蔵堂
 月影地蔵堂.JPG

普明山成就院
 1219年、北条泰時が創建。
 1333年、新田義貞の鎌倉攻めで焼失したが、江戸時代に再建されました。

西結界側では、少しアジサイが見られます
 成就院西結界側.JPG

山門前は、まだサツキが見られます
 成就院山門.JPG

東結界側では、お知らせ通り、今年はアジサイは咲いていません
 成就院東結界側.JPG

御霊神社(坂ノ下)
 祭神は鎌倉権五郎景政。平安時代の創建。
 景政は平安後期の平氏一門の武士で、鎌倉武士団を率いて湘南地域一帯を開拓した開発領主です。

江ノ電とアジサイの観光スポットとして大賑わいです
 江ノ電1.JPG

「極楽寺方面から来る江ノ電」と「長谷方面から来る江ノ電」
 江ノ電3.JPG

 江ノ電2.JPG

アナベルやタチアオイの陰に、江ノ電が走り抜けていきます
 江ノ電4.JPG

 
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2017年06月12日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1277年10月)を読む(5)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「阿仏尼の鎌倉下向」です。
F建治3年(1277)年10月
 阿仏尼が訴訟のために鎌倉へ下向する。
 阿仏尼は、歌人藤原為家との間に為相をもうけていた。為家の死後、播磨国細川荘の地頭職をめぐり、為相と異母兄二条為氏との間に相続争いがおきる。阿仏尼は幼い為相の代理として、裁判のために鎌倉に下向したのである。
 阿仏尼は月影が谷(極楽寺付近)に滞在して裁判に臨むが、裁判は長期にわたり、阿仏尼の死後、正和2年(1313)に、ようやく為相勝利の決着となる。

阿仏尼(?〜1283年)
 鎌倉時代中期の女流歌人。藤原為家(定家の子)の側室で、冷泉為相の母。
 為家の死後、領地相続をめぐって、息子為相の正当性を訴えるために鎌倉に下向しました。
 その旅の日記であり、鎌倉滞在記であるのが、「十六夜日記」です。

阿仏尼邸旧蹟の石碑
 江ノ電「極楽寺駅」を海側に向かった右手奥の踏切の脇に、石碑が建っています。
 阿仏尼が滞在したといわれる「月影が谷」について、「浦ちかき山もとにて風いとあらし。山寺(極楽寺)のかたはらなれば、のどかにすごくて、浪のあと、松の風たえず」と評しています。
 阿仏尼邸旧蹟2.JPG

「月影地蔵堂」と「月影地蔵」
 稲村ヶ崎小学校から西ヶ谷方面へ向かう山道にあるお堂に、「月影地蔵」が安置されています。
 かつては、極楽寺駅の先の月影ヶ谷にあったということです。
 現在は、江戸時代の木造地蔵菩薩立像ですが、子どもたちの健やかな成長を願う地蔵として、近隣の人々に守り継がれてきました。
 月影地蔵堂.JPG

 月影地蔵.JPG

阿仏尼の供養塔(扇ガ谷)
 鎌倉駅西口から今小路を北進して横須賀線沿いに歩き、英勝寺の少し先に、「阿仏尼の墓」といわれる供養塔があります。
 阿仏尼供養塔.JPG

冷泉為相(1263〜1328年)
 和歌の名門、冷泉家の祖。通称は藤谷(ふじがやつ)中納言。

藤谷黄門遺跡の石碑
 為相の墓といわれる宝篋印塔がある「浄光明寺(扇ガ谷)」の入り口に、石碑が建っています。
 藤谷黄門遺跡.JPG

冷泉為相の墓
 冷泉為相の墓.JPG

 ※浄光明寺については、「鎌倉扇ヶ谷のお寺を見る(泉谷山)」を参照。

藤原為家(1198〜1275年)
 和歌の家の中で、藤原俊成・定家にはじまる家系を御子左家といい、藤原為家は、その直系にあたります。
 御子左家系図.jpg

各史跡の場所
阿仏尼関連旧蹟の地図.jpg

 
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2017年06月11日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1274年11月1日)を読む(4)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「文永の役」です。
C文永11年(1274)11月1日
 幕府は、この日、中国・四国の守護に蒙古軍との戦闘への動員を命じた。
 去る10月20日、元・高麗連合軍は、すでに博多湾に上陸していた。(文永の役)
 幕府は非御家人にも動員を命じたが、上陸した元軍は、集団戦法で幕府軍を翻弄する。夕方、日本側は博多を放棄して撤退するが、夜、元軍もまた突然撤退した。

元寇―1274年「文永の役」、1281年「弘安の役」
 元軍の襲来は2度ありました。
・最初は、「文永の役」です。
・その翌1275年、肥後国御家人竹崎季長が、恩賞を求めて、直訴のため鎌倉に来ました。
・御恩奉行の安達泰盛に面会し、領地拝領の下文を獲得しました。
・竹崎季長の奮戦の模様は、「蒙古襲来絵巻」に描かれています。
 →「蒙古襲来絵詞」を参照。

杜世忠ら5人の元の使節
 1275年、元は使節を派遣し、日本の服従を求めました。
 しかし、杜世忠らは、捕えられた後、大宰府に送られ、その後、鎌倉へと護送され、龍ノ口で斬首されました。
 これにより、再度の元軍襲来は避けられなくなりました。

※「龍ノ口」といえば、日蓮の「龍ノ口法難」の場所です。
  →「鎌倉検定−蒙古の襲来(1271年9月12日)を読む(2)」を参照。

「常立寺」(藤沢)の元使塚
 龍口寺輪番八ヶ寺の一つである「常立寺」には、杜世忠ら元使の供養塔(五輪塔)が建てられています。
 元使塚.JPG

 ※「常立寺」については、「龍口寺輪番八ヶ寺の「常立寺」の梅は 2017.2」を参照。

 
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