2018年06月04日

鎌倉ゆかりの人物―鎌倉公方(足利基氏・氏満・満兼・持氏)のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「鎌倉公方の足利基氏・氏満・満兼・持氏の4人」です。

鎌倉府と鎌倉公方とは
・「鎌倉府」とは、足利尊氏が、鎌倉を武家政権の要地として考えて置いた統治機構。
・1349年、足利尊氏は、鎌倉に義詮のあとに「基氏」を置いて、初代「鎌倉公方」とし、関東管領・評定衆・引付衆・諸奉行を設置し、関東8ヵ国に伊豆・甲斐を加えた10ヵ国を管轄させました。
 (関東管領:鎌倉公方の補佐役)
鎌倉公方は、基氏以降、4代続きました。 

鎌倉公方の系図
 鎌倉公方.jpg

足利基氏(1340〜1367年)
 ・1349年、10歳で初代鎌倉公方となりました。
 ・瑞泉院を中興し、「瑞泉寺」を建て、以後、鎌倉公方代々の菩提寺としました。
  足利基氏の墓は、瑞泉寺にあります。
 瑞泉寺庭園にアオサギ.JPG

 ・鎌倉尼五山の第一位とされた「太平寺」を中興したのは、足利基氏の未亡人である
  「清渓尼」です。

 ※「鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1349年10月3日)を読む(4)」を参照。

足利氏満(1359〜1398年)
 ・1378年、将軍足利義満を除こうとしたが、関東管領上杉憲春が自刃して諌めたため、
  中止したという事件がありました。 
 ・1380年、禅興寺(「明月院」の前身)の中興を上杉憲方に命じました。
 明月院総門にアジサイ.JPG

 ・1394年、上杉氏定に命じて「海蔵寺」を創建させました。
 海蔵寺薬師堂にサツキ.JPG

 ※「鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1367年4月26日)を読む(7)」を参照。

足利満兼(1378〜1409年)
 ・1399年、大内義弘が堺で将軍「足利義満」に対して挙兵した「応永の乱」では、義弘
  に呼応し、満兼自身も義弘に加勢するため鎌倉を発ち、進軍するが、関東管領の上杉
  憲定に諫止されました。

 ※「鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1398年11月4日)を読む(8)」を参照。

足利持氏(1398〜1439年)
 ・京都の将軍と鎌倉公方の対立は、足利氏満の時代にすでに始まっていたが、持氏の時
  代には、幕府側との対立は深刻化していきました。

 ・1416年、足利満隆と上杉禅秀が足利持氏に反乱を起こしました(上杉禅秀(氏憲)の
  乱
)が、失敗しました。
 ・1438年、永享の乱で、関東管領上杉憲実と対立し、1439年、足利義教と対立して、
  持氏は自害しました。

 ・別願寺境内に、大きな石の宝塔の「足利持氏の供養塔」があります。
 足利持氏供養塔.JPG

 ・本覚寺創建との関わりがあります。
  日蓮聖人没後、日出上人が鎌倉の地で布教を始めたが、鎌倉公方「足利持氏」の迫害
  にあいました。
  しかし、持氏は、日出上人の意志と結束の強さに感心し、夷堂の地を与え、寺を開く
  ように勧めました。
  こうして、本覚寺は、1436年に日出上人により創建されました。

 ※「鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1409年7月22日)を読む(9)」を参照。

浄明寺にある「足利公方邸旧蹟」の石碑
鎌倉公方邸旧蹟.JPG源頼朝が幕府を開いた時、足利義兼が住居をこの地に定めて以来、二百数十年間、子孫が代々この地に住みました。足利尊氏が権力を握って京都に移った後に、その子の義詮が2代将軍となって、京都の家を継ぐに及んで、義詮の弟の基氏が関東管領となって、軍の指揮をこの家からとりました。
こうして、家は子孫に引き継がれました。子孫は京都にならって公方と名乗っていました。
享徳四年(1455)公方成氏は、執事の上杉憲忠との不和により下総古河に移ったために、ついに永く廃墟となってしまいました。

 
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2018年06月01日

6月の鎌倉では何を見ましょうか

鎌倉の行事・イベント、花木、6月にはいろいろあります。

行事・イベント
6月3日
6月上旬(6月9日)
6月第2日曜(6月10日) 
6月16日
6月30日
葛原岡神社例祭(葛原岡神社)
蛍放生祭(鶴岡八幡宮):10日〜17日は、ほたる祭り  
五所神社例祭(五所神社)
瑞賢忌(建長寺)
大祓式(鶴岡八幡宮・鎌倉宮)

花木
鎌倉検定公式テキストブックでは、花として「ハナショウブ、ケイワタバコ、アジサイ、ハンゲショウ、キキョウ」が紹介されています。
ハナショウブ(6月上旬〜中旬)・・・東慶寺、明月院、長谷寺、海蔵寺 
ケイワタバコ(6月上旬〜中旬)・・・東慶寺、浄智寺、朝夷奈切通、仮粧坂
アジサイ(6月中旬〜下旬)・・・・・明月院、長谷寺、円覚寺、建長寺、御霊神社、
                   葛原岡神社
ハンゲショウ(6月下旬〜7月上旬)・・・鎌倉中央公園、広町緑地
キキョウ(6月下旬〜8月上旬)・・・瑞泉寺、海蔵寺、長谷寺、円覚寺塔頭帰源院 

長谷寺 ハナショウブ(2016年6月)
 長谷寺ハナショウブ.JPG

御霊神社 アジサイ(2017年6月)
 御霊神社アジサイ.JPG

 御霊神社江ノ電.JPG

葛原岡神社 アジサイ(2017年6月)
 葛原岡神社アジサイ.JPG

東慶寺 ハンゲショウ(2017年7月)
 東慶寺ハンゲショウ.JPG

瑞泉寺 キキョウ(2017年6月)
 瑞泉寺キキョウ.JPG

 
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2018年05月31日

鎌倉ゆかりの人物―朝比奈三郎義秀のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「朝比奈三郎義秀」です。

朝比奈三郎義秀(1176〜?年)
 ・鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の侍所の初代別当(長官)となった和田義盛の三男。
  和田義盛が北条氏打倒を企てて起こした和田合戦で、奮戦した武将。

「朝比奈三郎義秀」が、和田合戦で奮戦した様子
・1213年、和田義盛とその一族が、謀反の計画の処理を巡り執権北条義時と激しく対立し、挙兵しました。(和田合戦
朝比奈三郎義秀ら義盛の軍勢は、将軍御所(大倉御所)などを襲撃し、由比ヶ浜や若宮大路で戦闘が行われました。結局、和田義盛らが戦死して、合戦は終結しました。なお、当時の将軍は、源実朝でした。
朝比奈三郎義秀は、かつて育った安房国へ逃げ延びたということです。 

  ※和田合戦については、「和田合戦のこと―鎌倉検定2014年1級の問題から見た鎌倉(21)」を参照。

和田義盛と「朝比奈三郎義秀」の系図
和田義盛と三浦義村関係図.jpg

朝夷奈切通の入り口にある「三郎の滝」
 ・朝夷奈切通は、鎌倉と金沢(横浜市)を結ぶ切通で、六浦口とも呼ばれています。
  和田義盛の三男で豪傑だった、朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたとの伝承が
  存在し、朝比奈峠の名の起こりとなっています。
 ・朝夷奈切通は、1241年、3代執権北条泰時が指揮を執り、整備が完成しました。
 朝夷奈切通入り口.JPG

 三郎の滝.JPG

朝夷奈切通の石碑
朝夷奈切通の石碑.JPG鎌倉七口のひとつで、鎌倉より六浦へ通ずる重要な道で、大切通、小切通の二つがあります。
土地の人の話では、朝夷奈義秀が一夜の内に切り抜いたので、その名前が付いたと伝えられていますが、吾妻鏡によると、仁治元年(1240)11月に鎌倉六浦間の道路開墾に関する議定があり、翌二年(1241)4月に工事が開始されました。
執権北条泰時もそこに出かけて監督しており、 多くの人が集まって土石を運ぶのを見たことが記載されています。この切通は、その時に開通したものと思われます。

※「朝夷奈切通の開通」については、「鎌倉検定−天変地異起こる(1241年4月5日)を読む(8)」を参照。

鎌倉七口のなかで当時の姿を最も今に伝えている「朝夷奈切通」の冬の姿
 朝夷奈切通1.JPG

 朝夷奈切通2.JPG

 朝夷奈切通3.JPG

 朝夷奈切通4.JPG

鎌倉七口
 鎌倉への出入り口は「鎌倉七口」と呼ばれて七つあり、出入り口として整備されました。室町時代中期の記録に見える「京都七口」を模した鎌倉名数の一つとされ、鎌倉七切通ともいいます。
 三方を山で囲まれた要害の地だった鎌倉は、外の地域との行き来には、険しい峠を越えなければなりませんでした。交通の要路であると同時に、外敵の侵攻から鎌倉を守るための防御拠点ともなりました。
 「切通」とは文字通り、山や丘陵を切り開いて通した道のことです。

 @名越(なごえ)切通      A朝夷奈(あさいな)切通
 B巨福呂坂(こぶくろざか)   C亀ヶ谷坂(かめがやつざか)
 D仮粧坂(けわいざか)     E大仏(だいぶつ)切通
 F極楽寺(ごくらくじ)切通
 

 
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