2017年09月22日

鎌倉中央公園の今は 2017.9

鎌倉中央公園」は、6月のハンゲショウや2月の梅林が特に有名です。
 一部分だけですが、自然が織りなす水と緑の里山風致公園を少しだけ見てみました。

 まだ暑さが残る今ごろは、日中は散歩するには少し厳しいようです。

公園案内図
 全体で23.7haありますが、その一部の山崎口の周辺を見てみました。
鎌倉中央公園案内図.JPG

春にはその側でシダレザクラが咲く「しし石」
 しし石.JPG

「庭園植物園」では、「フイリヤブラン」が見られます
 庭園植物園.JPG

 フイリヤブラン.JPG

「ヤブラン」は園内のあちらこちらで見られます
 ヤブラン1.JPG

 ヤブラン2.JPG

「湿生花園」では、「アオサギ」が舞い降りてきました
 湿生花園.JPG

 アオサギ.JPG

「下池」も「上池」も静かです
 下池.JPG

 上池.JPG

いつできたのでしょうか、「スマホdeクイズ」のコースがあります
 スマホdeクイズ1.JPG

 スマホdeクイズ2.JPG

 
posted by トシ999 at 15:59| Comment(0) | 日記_2017 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月21日

鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1438年6月)を読む(11)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「永享の乱」です。
(31)永享10年(1438)6月
 足利持氏の子賢王丸が鶴岡八幡宮で元服する。上杉憲実は持氏に対して、先例に従い室町将軍の偏諱を請うように勧める。
 しかし持氏は聞き入れず、将軍の通字を入れて「義久」と名付ける。
 8月、持氏が上野に退避した憲実を討とうとするに至って、幕府は持氏討伐を決定する。
 後花園天皇に治罰の綸旨と錦旗を要請し、駿河守護今川範忠・陸奥篠川御所満直らに出兵を命じる(永享の乱)。

永享の乱
 京都と鎌倉の関係は、最悪の事態を迎えました。
 賢王丸元服に際しては、将軍足利義教の「教」を付けた名前にしなければなりませんでした。
 永享11年(1439)2月10日、足利持氏は、幕府軍との戦いに敗れ、自害しました。

足利持氏の第4代鎌倉公方時代の事件簿
1409年 
1411年 
1415年 
1416年 
1418年 
1419年 
1422年 
1428年 
1434年 
1435年
1438年
1439年
持氏が鎌倉公方就任。
関東管領に、上杉憲定→上杉氏憲(禅秀)へ。
関東管領に、上杉氏憲→上杉憲基へ。
上杉禅秀の乱」。翌年、足利満兼・上杉禅秀が自害。
関東管領上杉憲基が死去し、養子の憲実が後を継ぐ。
関東管領に上杉憲実
持氏が京都扶持衆を討伐する。
持氏が京都進撃を計画したが、憲実に止められる。
持氏が鶴岡八幡宮に血書願文を捧げ、関東支配を祈願する。
持氏が陸奥の篠川御所足利満直に対して討伐軍を派遣する。  
永享の乱」。持氏が憲実を討とうとしたため、幕府は、持氏討伐を決定する。  
持氏は幕府軍との戦いに敗れ、自害する。
京都扶持衆:鎌倉公方の指揮下にありながら京都の幕府と通じ、支援を受けていた武士たち。

別願寺にある「足利持氏の供養塔」
 1282年、公忍が一遍に帰依し、真言宗から時宗に改宗し、「別願寺」としました。
 「別願寺」は、足利一族が信仰し、鎌倉公方代々の菩提寺として栄えました。
 ここに大きな石の宝塔の「足利持氏の供養塔」があります。
 別願寺足利持氏供養塔.JPG
 この供養塔には、持氏の怒りを静めるために四方に鳥居の浮彫りがあります。
 持氏供養塔鳥居.JPG

「永享の乱」の後の混乱
 ・鎌倉公方と関東管領が空位になりました。
 ・持氏の遺児安王丸・春王丸を擁して「結城氏朝」が反乱するも、幕府軍に討たれました。(結城合戦
 ・京都では、赤松満祐が、将軍足利義教を暗殺しました。(嘉吉の乱

 
posted by トシ999 at 14:13| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月20日

鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1416年10月2日)を読む(10)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「上杉禅秀の乱」です。
(22)応永23年(1416)10月2日
 足利満隆と上杉禅秀が足利持氏に反乱を起こす(上杉禅秀の乱)。
 鎌倉を奪われた持氏と上杉憲基は、駿河守護今川範政を頼る。幕府は、範政と越後守護上杉房方らを禅秀討伐のために派遣する。
 これによって、はじめ劣勢であった持氏方は息を吹き返し、禅秀の乱は翌応永24年正月、発生後3ヶ月あまりで終結する。
 満隆・禅秀ともに自害し、持氏は同月17日に鎌倉に帰還する。

足利満隆と上杉禅秀
 ・「足利満隆」は、3代鎌倉公方「足利満兼」の弟です。
 ・「上杉禅秀」は、犬懸家の「上杉朝宗」の子で、「上杉氏憲」のこと。法名を「禅秀」といいます。
  1411年に関東管領に就任し、若年であった「足利持氏」を補佐したが、持氏が山内家の上杉憲基を重用することに不満を募らせ、1415年、関東管領を辞任しています。
 関東管領は、上杉憲基が就任しています。

山内上杉家・犬懸上杉家の系図
 上杉家 山内・犬懸家の系図.jpg

浄明寺にある「上杉朝宗及氏憲邸址」の石碑
上杉朝宗及氏憲邸址の石碑.JPG上杉朝宗」は、足利氏満、満兼に仕え、出家してからは禅助といいました。
人々は、犬懸の管領(かんれい:将軍代理職)といいました。

その子の「上杉氏憲」が跡を継いで持氏の執事となり、出家してからは「禅秀」といいました。
しかし、持氏と不和になり、1416年に、氏憲は、持氏の叔父の満隆と共に計画して戦いを起したが失敗しました。
1417年1月に、一味と共に雪ノ下の鶴岡別当坊にて自害しました。
ここはその屋敷があった場所です。

 
posted by トシ999 at 17:52| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする